代償
ぞわり、と何かが侵食する音が聞こえた。
最初は、少女が放った刃の一撃で僕の首が飛んだ音だと思った。それほどまでに迫る刃は鋭く、首に向かって来ていたから。
だが、違った。違うといっても、僕の首が飛んだということには間違いない。
違うのは、音の原因。
血よ。血よ。貴き我が血において命じる。従え。
……眼前の少女が、驚愕に染まるのを感じた。
僕の体が、無数に分散する。自分の中から響く、自分のものではない声が、『そうあれ』と僕の体に命令したのだ。
瞬間、僕は吸血鬼としての力の使い方を理解することが出来た。そして、入ってきた知識と同質量の『僕』が、頭から抜け落ちていくのを感じた。
多分、それが代償なのだろう。僕という凡人が『理不尽』を振りかざすことを許された、その分の帳尻合わせ。
「死なない!? 確かに首を───」
分散した僕の体は、感覚で掴もうとしているためいまいちよく分からない……が、大量の小型飛翔体になっているらしい。多分だけど、蝙蝠。
それは再び収束する。大量の蝙蝠がまるで肉片をかき集めるようにして、夜の女王としての姿を形作った。長髪の銀糸が頬を滑り落ちる感覚をよそに、僕は呟いた。
「…………喉が、乾いた」
得も言えぬ感覚にふらつく頭に、干上がって焼き付いたような喉の感覚に、思わず口を抑える。その感覚の正体は、もう何となく理解できていた。
人の三大欲求をごちゃまぜにしたようなそれの、強い強い焦燥感。しかしそれをこの場で満たすことが出来ないことへの、激しい苛立ち。
そんなこちらの気も知らないで、少女は再び刀を構える。
「化け物め......次は、確実に消滅させます!」
膨れ上がる殺気。振るわれた刃は、首をはねた時のそれよりも数段早い一撃だ。後方へ引いていた刀身を、全力で前へと振り抜く、銀色の一閃。
だが、また間抜けに首を胴と泣き別れさせる気は毛頭ない。しかし僕のそれは殺気などとは程遠く、いうなれば、機嫌の悪い時にウザがらみされた時に声を荒げてしまうような、そんな感情。
口が魔法を紡ぎ……いや、魔法というか、呪い───冒涜の類を、成立させる。
「貴き我が血において命じる。寄越せ」
吸血鬼が司るのは血液。それは魔術の触媒では、魂の対価としての価値を持つ。そして吸血鬼は、血液を奪うことによって対象の魂までもを奪い去る、そういう怪物だ。
ゆえに、こちらが差し出すのは魂。その対価として受け取るのは、純粋な筋力と異常なほどの感覚能力。身体に火が灯るような温かさを感じ、瞳に暗い赤が宿った。
ただでさえ鋼鉄を引きちぎれるようなレベルの腕力は、それ以上の怪力を起こす。最初は目で追えなかった銀の光が、今度ははっきりと視界に収めれた。
「嘘……私の全力の居合を……!?」
よりスムーズに、より素早く、紅の短剣が僕の手のひらに顕現した。そして迫る銀の光を、紅の光で受け流す。符の追撃を警戒してそれ以上は踏み込まなかったが、あちらも警戒からか、一度後方へ距離を置く。
激突の感触から、僕は既に目の前の少女が僕の敵でなくなったことが分かった。これは油断ではなく、僕でない記憶の経験から導き出された、端的な事実の分析だ。
油断なく正中線に刀を構えているその姿に、もう興味は失くしてしまった。それより、こんなことの為にまた『通貨』を支払ってしまったのが、さらに僕の渇きに追い打ちをかける。
ああ、喉が渇いた。もうこんな奴にかまってる暇はない。食事を、食事を、食事を…………!
─────────食事?
……完全にうっかりしていた。無力で、大量の魂を内包した人なら───ここに。
そのことを意識した瞬間、口内の犬歯がうずいた。もう人間らしさだとかそんなどうでもいいことは、飽和していく、名前も付けれない異様な感情に押しつぶされた。
空気が破裂し、コンクリートの床に罅が加わる。予備動作すら必要なく、僕の体はただ前へ加速した。拡張された感覚が、この速度に少女が反応できていない様子をとらえる。
同時に、少女を化け物と渡り合えるほどの人外に強化している術式を察知できた。そして、それの壊し方ももう知っている。
白い肌の上に浮かぶ、肉眼では捉えられない青色の残光。繊細に、少女の肌は傷つけないように、手に持った短刀で青色をなぞった。
僕の魔力を帯びた短刀は、強化の魔術印を搔き乱しながら引き裂いた。瞬間───ガラスが割れたような甲高い音と共に、少女が纏っていた力の全てが霧散していった。




