怪物
ヤバいヤバいヤバい。
どうにか逃走経路を頭の中で描こうとするが、階段ひとつ、ハシゴひとつ無いビルの屋上だ。しかも相手は、知らない人が居ないほどの怪物。とても逃げ切れるとは思えない。
生存本能が最大限で脳を回すが、逃げ切れるシチュエーションが一切思い至らない。しかも相手は、確実に此方へ害意を向けてきている。何故かすぐさま襲いかかって来ないのだけが救いか。
何かないのか!と懐を探るが、そもそもこの絢爛なドレスにはポケットすら着いていない始末。
あ、死んだ。と、病気で意識を失う前よりも確かな死の気配を感じた。理解できない状況ではあるものの拾ったらしい命、もう一回ドブに捨てる羽目になるらしい。
恐怖ですくんで動けない僕に、怪物が話しかけてくる。
「なんだ、アンセスターってのはバケモンの中のバケモンって聞いてたが......完全にチビってんじゃねぇか。警戒して損したぜ」
「あ、アンセスター.......?なに、言って」
「あ?人違いだとでも言うつもりなら、マジでなめんのも大概にしろよ。そんだけの匂い撒き散らしておきながら、吸血鬼様の鼻をごまかせるとでも思ってんのかぁ!?」
「しら、知らない!アンセスターってのも、匂いってのも!なにか、勘違いして」
「はぁ、もういいわお前。黙って血ぃ渡せ」
一切会話は噛み合わない上に、見逃してもらうのも無理そうだ。もう何も話すことは無いと言わんばかりに、怪物は飛びかかってくる。
走馬灯だろうか。やけに景色がゆっくりと流れる。目の前の吸血鬼が踏み込んだ時に、床のコンクリートが蜘蛛の巣状に割れたのが見えた。
飛躍した吸血鬼の男の手が、放つ前の弓矢のように引き絞られる。そのまま真っ直ぐ突き出してきた手には、異様な程鋭利な爪が並んでいた。
死ぬ。間違いなく死んだ。
そう確信した僕の身体はしかし
─────穢らわしい
ゾッとするような冷たい声が脳裏に、ノイズのように混じる。
そしてその瞬間だけ、僕の右手が誰かの意思で操られる。自我が侵食される不快感は、それを代償に目の前の危機を排除した。
具体的に言うと。
「ぁあ?あ、がぁぁぁぁぁぁ!!!!」
僕なんかみたいなちっぽけな存在に比べると、圧倒的な強者であった吸血鬼。だがそいつが振るった右腕という凶器は、吸血鬼の身体を離れ、僕の華奢な右手に握られていた。
ちぎり取られた反動で、吸血鬼の身体は血飛沫を残しながら、僕の身体を避けて吹き飛んでいた。
「あ、あぁ、な、なんで、再生できない!それに、なんで、い、いてぇ!?!?」
目と鼻の先で、ドス黒い鮮血がほどばしる。生来目の当たりにした事の無いそのグロテスクな光景を目にして、僕の心は不気味なほど落ち着いていた。
この醜い吸血鬼は僕の敵だ。なら、ここで間違いなく殺してやらないといけない。その為には────武器がいる。
だが僕は今、武器になりそうなものを一切所持していない。この屋上にも、そんな都合のいいものは落ちていない。でも、武器の材料なら...........右手にある。
本能が呼び覚まされる。そしてさも当たり前のように、ただ忘れていたことをポンと思い出したかのように、僕は僕が何たるかを理解した。そして、超常現象を巻き起こす。
「従え。我が血に」
血は魂の通貨。で、あるならば、それを使役するのは、相手の魂をこそぎとり、ひれ伏されるのに等しい。
ある種の全能感を覚えながら僕は、吸血鬼の男の腕に内包されていた血液を、自分の支配下に置いた。
血は肉の枷から取り払われ、干からびたミイラを残す。そして僕の右手に、ミイラのかわりに収束して形を為した。
現れたのはドレスと同じ、鮮血の色を宿した両刃の剣。そしてそれは夜闇の女王に相応しい暗い呪いを宿し、禍々しい光沢で獲物を写した。
「や、やめろ!やめてください!!!」
先程の威勢が嘘のように這いつくばって命乞いをする吸血鬼。
「ごめん、死んで」
だが既にその時、僕は脅威足りえない『敵』に対して、一切興味を失っていた。