21.聞こえたもの
むなくそです。
両親が病室にやってきた。
母が来るのは珍しくない。数日に一度は来てくれる。歩が入院してから一週間以上来なかったことはない。
珍しいのは父だ。父は仕事が忙しいらしく見舞いの頻度は一か月に一回程度と、母に比べれば少ない。さらに仕事の都合があるのか、母と揃って来ることは極めて稀だ。症状について詳しい説明を受ける時くらいしか記憶にない。
父があまり見舞いに来ないことを不満に思うことはない。あと一年足らずで世界が終わるというのに歩を気にかけてくれるだけで十分すぎるほどだ。
歩は自分が両親にとって重荷だと理解している。入院費はかかるし、入院させていてもすべて病院に任せきりというわけにはいかない。負担をかけるばかりで申し訳ないと思う。
一方で、それだけ自分が大切にされていると実感する要素でもあった。
「歩、体調はどうだ」
「いいよ。リハビリも毎日やってる」
「真治さんだったかしら。いつも手伝ってくれる看護師さんがいるのよね」
「そう、真治さんには感謝してもしきれないよ」
「なら父さんも挨拶しておかないとな」
真治は急ぎの要件がなければ来客中の病室に入ってこない。来訪が頻繁な母はすれ違うこともあり真治とも顔見知りである。一方で父は真治と面識がない。来院時に案内された際にも名前を聞いていなかった。
自由に歩くことができず話題に乏しい歩だが、病室に来る機会が少ない父に話したいことならいくらでもあった。
他の患者からお見舞いのおすそ分けがあったこと。果物の皮むきなら母にも負けない自信があること。父が持ってきてくれた本の感想。リハビリの進捗。まくしたてるように話す歩に父はにこにこ笑って相槌を打っていた。
「最近は杖をつきながら歩く練習をしてるんだ。まだ病院の外には出られないけど、この調子ならあと半年もあれば外に出られると思う」
「そうか、毎日頑張っているんだな。すごいぞ」
歩と話す父の横で母がお茶を淹れている。母にはもう話していることばかりなので退屈かもしれないが、直接自分から父に話したかった。
楽しい時間はあっという間で、気が付けば五時の鐘が鳴っていた。
「おっと、もうこんな時間か。そろそろ帰ることにするよ。また来るからな。リハビリ頑張るんだぞ」
「うん、父さんと母さんも気を付けて帰ってね」
もちろんだ、と明るく言って病室を出る両親の背を見送ってから二十秒後。
歩はベッドのそばに置いていた杖を手に取った。
両親を驚かせてやろうと思った。
入院してから、両親は歩がまともに歩いているところを見たことがない。せいぜい母が手すりにしがみついているところを見た程度だ。
だからきっと、杖を使って歩く歩を見れば両親は驚くだろう。
本当はドッキリのようにある日突然立ち上がって遠出に誘おうと思っていた。
だけど両親にも都合ってものがあるよね、先にアポイントとっておかないとダメかもしれないよね、と考えた。
ほとんど言い訳だ。きっとびっくりするぞ、よろこんでくれるぞ、という考えが頭の大部分を占めていた。
父と母はエレベーターを使って下の階に降りるはずだ。
長く入院している経験から、この病院ではこの時間にエレベーターが混むことをよく知っていた。
今ならば階段を下りていけば父母より早く病院の出入り口にたどり着けるはず。
歩は両親が病室から離れる頃合いを見計らって廊下に出た。
リハビリの成果は着々と出ており、階段の上り下りもできるようになっていた。
ここで転んで怪我をしては元も子もない。細心の注意を払いつつ全速力で階段に向かい、たんたんとリズミカルに階段を下りる。
実際のところ、無駄足になる確率が高い。エレベーターが混んでいることが多い時間帯ではあるが、待ち時間はタイミングによる。両親がすぐにエレベーターに乗っていたらさすがに間に合わない。そうでなくとも両親が階段で下りたりしていたら厳しいだろう。
ダメでもともと、間に合えばラッキー、くらいの気持ちで一階に到着する。
正面玄関に向かうと、ちょうどそこに両親の姿が見えた。
ついてる。見送りでもすればきっと驚いてくれる。
にやつきそうになるのをこらえながら、両親が玄関を出るまでに間に合わせようと足を速める。
ぎりぎり間に合うかどうかといったところ。あまり病院で大声を出すのはよくないが、両親を呼び止めようとした。
その直前、父の口が小さく動くのが見えた。
「なにそれ」
母の声が聞こえた。絞り出すような声は小さかったが、不吉な予感とともに耳に届いた。
歩の喉はひゅっと引き絞られ、声が出なくなった。
「まるで私が悪いみたいなこと、よく言えるわね」
「事実だろう。それとこんなところで喚くな、みっともない」
「何が事実ですって。私があんな子を産むことになったのはあんたのせいでしょう」
呼吸が止まった。
頭が真っ白になって足元がぐらつく。地震でも起きたのかな、なんてどこか他人事のように思いながら、壁に体重を預けた。
「産んだのはお前だろう。まともな子供の一人も産めない分際が生意気な口をきくな」
「あんたの寄越した種が腐ってたんじゃないの」
「なんだと」
「そりゃ傷んだ種からまともな芽が出るわけないもんねえ。撒いた種の後始末もできないような出来損ないの子供が、まともなわけないものね!」
全身にうまく力が入らない。ひどい吐き気がする。きぃんと耳鳴りがするのに聞きたくもない声は嫌というほど鮮明に聞き取れてしまう。
壁にもたれかかっていた体がずり落ちて廊下に座り込んだ。せめて耳をふさぎたかったが、両腕は力が抜けて動かなかった。
「出来損ないはお前だろう。女の最低限の役割も果たせない能無しが。お前の一族は頭か体がどこか足りない人間しかいないんじゃないか」
「いつの時代の人間よ、このご時世にそんな時代錯誤のこと言っちゃって恥ずかしい。そんなんじゃ愛人さんにも愛想つかされるんじゃない」
「黙れ、お前こそ働きもせずに男を囲う生活は楽しいか」
「そっちはどうせ死ぬのに無駄なことして自己満足に浸ってるだけじゃないの」
意識しないと息を吸うことも吐くこともできない。しかし大きく呼吸すれば両親に聞こえてしまうかもしれない。
それだけはまずい。それだけは避けたい。
もし気付かれてしまえば、取り返しがつかないことになる気がする。
心臓が小刻みに強く脈打つ。それに合わせるように短い呼吸を繰り返す。息を吸っても吸っても肺に入っている気がしない。
泥沼の中であがいているような焦燥感。どうにかしてこの場を離れたいのに動けない。
どうすれば、と酸素の足りない頭を空回りさせていると、服の襟をぐいと引っ張られた。
さほど強い力ではなかったが、歩の軽い体は簡単に持ち上がった。
左腕を掴まれ、左腕と胴体の間にその人は自分の体をねじ込んだ。
「松葉さん」
歩の喉から奇跡のような声が漏れた。
「ひどい顔色してる。病室戻ろう」
力なくうなだれる歩の目には小百合の顔が見えなかった。
小百合がどれほど今の状況を理解しているか分からないが、何よりありがたい助けだった。
感覚もない手足を無理やり動かした。
「ごめん、助けてもらっちゃってごめん」
「いいから」
「みっともないとこ見せてごめん」
「しゃべんなくていいから」
「……ごめん」
「謝んなくていいから」
うわごとのようにごめんと繰り返しながら、歩は小百合に案内されるまま病室に戻った。
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