一話 青年と少女、真夜中の邂逅
以前アップしたまま手つかずだった小説を一話一話小刻みにして再投稿。
ひゅるるる、と弱々しい口笛のような風が吹いた。どこか悲しげなその音は、雲の無い寒空によく響いた。
深夜、日付が変わってしばらく経つ頃である。住宅街ではほとんどの住民が眠りについたようで、明かりが点いている家はもう数えるほどしかない。深い闇の中で、家々は魂が抜けたような無表情で突っ立っていた。
そんな夜分にも関わらず、今まさに出かけようとする車がある。こぢんまりとした古い車だ。
車の持ち主とおぼしき青年が段ボール箱を後部座席に積み込んでいた。
青年の髪はあちこちハネたり長さがちぐはぐだったりと、まるで空き地の雑草のような荒れ具合だ。身に付けている服はかなり着古したものなのか、ほつれやよれがあちこちにある。
青年が段ボール箱を座席に置くとガチャン、と物がぶつかり合う音がした。中には色々な物が雑多に詰め込まれているようだ。
荷物を積み終えた青年は運転席に座り、狭い車内を見回した。
持ち物は段ボール箱の中身が全て。忘れ物も余計な物も無い。
青年は軽く頷いてエンジンを入れる。アクセルを踏むと、車は呻くような音を立ててのそりのそりと動き出した。
今夜は新月。底の知れない暗闇が辺りを覆い隠している。そんな状況にも関わらず青年は手慣れた運転で車を走らせた。
しかし妙だ。
助手席に座る白い服の少女は、一体いつの間に乗車したのだろう。
不幸のキャラバン
車は街の外れに差し掛かろうとしていた。明かりが点いている建物は最早一つもない。道路脇に点在する街灯の光は弱々しく、いつ消えてもおかしく無さそうに明滅しているものさえある。
車を運転する青年は、横目でちらりと助手席を見た。そこに見知らぬ少女が座っているのだ。気付いた時にはそこにいて、何も言わずに景色を眺めていた。
謎の少女はとても印象的な見た目をしていた。
全身を包む白のワンピースに長い黒髪。
年の頃は十代後半といったところだろうか。大人びて見える顔つきだが、同時に幼さからくるガラスのような脆さも感じられるのだった。
青年は、彼女がこの世の者でないことに気付いていた。彼女は、強い恨みや後悔によって死ぬに死にきれず現世に留まり続ける魂──いわゆる幽霊だ。
幽霊が目の前に現れるということは、青年はこれから呪い殺されてしまうのだろうか。
しかし青年は少女の顔に見覚えがなく、少女の方も静かに窓の外を眺めるばかりで青年に意識を向ける様子が一切ない。青年に恨みを抱いているようには見えなかった。
彼女は一体誰なのか、なぜこの車に乗っているのか。全てが謎に包まれている。
そのベールを剥がすには青年から歩み寄る他なさそうだった。
赤信号で停止したのをきっかけに、彼は意を決して少女に声を掛けた。
「こんばんは」
少女は首だけを動かすと、じっと青年を見つめた。目尻がきゅっと上がったその瞳がぱちぱちっとまばたきをする。声を掛けられたことに驚いているようだ。
一呼吸、二呼吸ほどこの沈黙を経たのち、少女はゆっくりと口を開いた。
「……こんばんは」
すこし低めで、けれども風のようにスッと響く声だった。
少女は半信半疑といった表情で尋ねる。
「もしかして、私のこと見えてる?」
「はい。僕は昔から幽霊が見えるたちなんです」
青年がそう言うと、少女は不思議そうな顔をした。
「普通、幽霊が目の前にいたらもうちょっと怖がったり驚いたりするものじゃないの?」
「今まで何度も幽霊に会っているので、もう慣れたんです。でも幽霊とちゃんと会話したことはなかったので、今こうして話ができて凄く嬉しいです」
それを聞いた少女は目を見開いた。
しかしすぐに元の表情に戻ると、鼻を鳴らして小さく笑う。
「変な人」
交差点の信号が赤から青に変わった。動き出すのは二人を乗せた車だけだ。他に車も歩行者も見当たらない。青年はそれでもウィンカーを出し、安全運転で曲がっていく。
「僕、惣馬っていいます」
青年が名乗ると、助手席から「ん?」と怪訝そうな呟きが聞こえた。
「『そーま』じゃなくて『そうま?』」
前者は『校歌』、後者は『降下』と同じイントネーションだ。青年の言い方は『降下』の方だった。
「正確な発音はそうです」
「もしかしてそれ名字?」
「ええ、そうです。下の名前と紛らわしかったですか?」
青年はあっけらかんとしていたが少女の方は少しムッとしたような表情だった。
「そう。じゃあ、下の名前は?」
「凌です」
「凌ね。おっけー」
少女は満足そうに微笑んだ。
「じゃあ凌って呼ぶね」
「え」
「人のこと名字で呼ぶの嫌いなんだ。壁を感じるから」
青年──凌は虚を突かれた。下の名前を尋ねてきたのは、単に興味があったからだと思っていた。まさかそちらの名で呼ばれるとは。
彼はお世辞にも人付き合いが得意な人間ではなかった。そのため、少女がいきなり精神的な距離を詰めてきたことに動揺を隠せない。
しかし凌の戸惑いなどつゆ知らず、少女は話を続ける。
「私は雫。雨の下で雫。凌もそのまま雫って呼んでいいよ」
「すみません、会ったばかりでそれはちょっと……呼びにくいです」
それを聞いた雫はにっこりと微笑んだ。表面だけ見れば天使のような笑顔だが、その裏からは悪魔が覗く。
「なに? 『雫ちゃん』って呼びたいの?」
「そんなのもっと無理です! 『雫さん』じゃ駄目ですか?」
「却下。駄目に決まってるでしょ」
「ええっそんな」
にべもないとはこのことだった。
「『雫ちゃん』が嫌だったら呼び捨てにして」
「いや、でも雫さん──」
ぺしっ!
雫が手を振り払い、凌の肩で軽い音が鳴る。
「うだうだ言ってると叩くよ」
「今もう叩きましたよね!?」
雫は無言で手をグーにした。威力は段階的に上昇するらしい。
それでも凌の抵抗の意思は変わらなかった。
「僕のことは凌でいいので、僕からは雫さんと呼ばせて下さい。お願いします」
なかなか折れない凌に、やがて雫は大きなため息をついた。
「しょうがない。取り敢えず今日はそれでいいよ」
「ありがとうございます、雫さん」
「本当は敬語も止めて欲しいけどね」
雫は不満げに唇を尖らせる。その横顔を一瞥して、凌は口元を緩めた。初めに話しかけた時よりも彼女が自然な表情をしているように思えたからだ。少しは打ち解けることが出来たということだろうか。
「ところで、雫さんはどうしてこの車に乗ろうと思ったんですか?」
幽霊といえば生前縁のあった場所や人の前に現れるのが普通だが、凌と雫を結びつけるものは何もない。彼女はなぜここに現れたのか、凌はそれが気になっていた。
しかし雫から返ってきたのは想像以上に軽い返事だった。
「別に。ただのきまぐれ」
「じゃあ……どこか向かう場所があったり?」
「そういうのも無いよ。散歩してたら動き出しそうな車が見えて、あードライブも良いかなーって思って乗っただけ」
雫はあっけらかんとそう言った。本当にさしたる理由もなく飛び乗ったらしい。
もしちょっとでも車を出す時間がずれていたら。雫が通った道が違っていたら。たったそれだけで、凌と雫が出会う可能性は失われていたかもしれない。
だとしたらこの偶然に感謝しなくてはいけないな、と凌は思った。
彼女と話すのは心地良く、久しぶりに気分の高揚を感じていた。いつも一人で乗っている車が全く違う空間に感じられるほどだ。
今夜のことは、きっと何年経っても忘れられない思い出になる。そんな予感がした。
凌が感慨に耽るなか、雫が「ねえ」と切り出した。
「凌はこんな夜中にどこ行くの? ただのドライブ?」
「いえ、仕事です」
「ふーん、何の仕事してるの?」
「僕は──」
凌は頭の中で言葉を整理した。彼の仕事は少々特殊で、端的に言い表すためには言葉を吟味する必要があった。
「僕は人を不幸から守る仕事──不幸祓いです」
「フコウ、バライ」
反芻するように繰り返す雫。その瞳にぎらりと妖しい光が灯った。
「ふーん、面白そう」
出会ったばかりの二人を乗せて、車は闇夜を進んでいく。その先に待ち受ける運命を、今の彼らはまだ、知る由もない。
これは──救いの物語。