奴隷だった俺に、お嬢様は無関心をくれた。
奴隷だった俺に、お嬢様は無関心をくれた。
奴隷という身分の俺に対して、ほとんどの人間は無関心だ。ただその無関心というのは、自分の世界の外側の人間だから、あるいは主人のように俺個人のことに関してという意味だ。
主人の娘であるお嬢様の世界の中に、俺という奴隷は確かに存在していた。
奴隷という身分の俺を自由に扱う権利を、お嬢様は持っていた。
奴隷という身分を取っ払って、お嬢様は時折俺個人を見る。
鏡に映ったその無関心な目を見つけた時から、俺はお嬢様に興味を持ち始めた。
奴隷を無慈悲に扱う人間の娘でありながら同じような見下した目で見ることも気分屋で暴力を振るうこともなく、同等の人間として、屋敷で働く使用人たちを見る目と同じ無関心さで、一場面の風景として映している。
それがお嬢様にとっての処世術なのだと、お嬢様の奴隷になって四六時中一緒にいた俺が気付くのは早かった。
お嬢様は、俺と同じように不遇な扱いを受けていた。
けれど暴力を振るわれることもなければ、鞭で叩かれることもない。
お嬢様は主人の大事な娘なので、そこにはもちろん程度の差がある。そんなことは学の低い俺でもわかっている。お嬢様と俺では身分差があり、不遇な状況であっても同じような待遇をお嬢様が受けるはずはない。
俺がお嬢様付きの奴隷になる前、主人の家に買われた直後のことだ。
馬小屋で傷だらけになって倒れる俺を、お嬢様は一度だけ真夜中に見に来たことがある。この頃からお嬢様が部屋から出ることは少なく、俺があの家に来た初日に出会ったのは本当に偶然のことだった。
その時、正確には俺ではなく、夜中にただ徘徊していたところだったのだろう。その奥に積み上がった藁に倒れている俺を一瞥して帰っていった。
傷の手当てをされたこともなければ大丈夫かと声をかけられたことも、心配そうな表情で見られたこともない。
お嬢様の無関心さが、当時の俺には心地好かった。
主人から見放された奴隷は、今や平民として街で一部屋借りて日々を暮らしている。
職業は、ファロティエ。
夜が更けると、街角や舞踏会などが開催される屋敷の前でファロ(ランタン)を持って歩いている。騎士と協力して防犯にも努めるため、騎士団の犬とも揶揄されることもある。
国が崩れ、それに伴い周辺諸国で唯一残っていた奴隷制度も崩れたのはもう2年前のことだ。
隣国の統治下に置かれ、腐敗していた多くの貴族が粛清された。
その中には、俺が仕えていた主人の家もあった。
分家の当主だった主人は本家の人間によって好きなように扱われていた。小心者だからこそ、本家には逆らえなかったのだ。本家の人間は全員処罰され、本家の悪事の一端を担っていた主人もまた処罰された。
そして、主人の家で働いていた者はみんな散り散りになり、俺は奴隷ではなく平民として生きている。
屋敷の人間が逃げ去った日。
部屋に取り残されていたお嬢様は、俺の首に嵌められた奴隷の証である首輪を外した。
夜が更けると周囲にファロティエたちがぽつぽつと現れる。
いつもと同じ場所でファロを持って立っていると、俺と同じように身なりの汚い一人の男が近寄ってきた。
その男は帽子を目深に被り、少し俯いたまま、ファロを持っている俺の隣に並んだ。
遠くで喧騒が聞こえる。
「首尾は?」
短く、男が問う。
俺にしか聞こえない低く小さな声で、ファロを持っているとしても薄暗く人気もないので男が口を開いたとは誰も気付かない。
「すぐに終わる」
目線を遠く向こうに向けたまま、同じように短く答える。互いに核心部分をわかっている。
男は静かに笑うと、さっとその身を翻して闇夜に消えた。
ファロティエは夜に必要な人間だ。灯りがなければ道を歩けない。満月であれば明るいが、遠い空の光などあってないようなものだ。だから、とても重宝される。
しかし、ファロティエの仕事は危険だ。夜はならず者が多く行き交う。国が崩れ、新しい国王の元で治安が良くなったとはいえ、それでも犯罪がなくなることはない。酒に飲まれた者たちが暴れだし、先程の男のように暗闇は姿を隠しやすい。
路地裏などは、ファロティエたちも避けるからこそ特に。
2年前から始めたこの仕事で、他所の喧嘩やいざこざに巻き込まれたことは数えきれないほどある。繁華街付近で立っていると、酔っぱらいに難癖をつけられて絡まれることは日常茶飯事だ。
奴隷という身分から解放されても、安定しているとは言い難い生活を今も送っている。
それでも、奴隷だった時よりもずっと今の生活の方がいい。
まず、給金が出る。次に、そのお金を自分のためだけに使うことができる。そして、自分自身の意思で動くことができること、自由を手に入れたことだ。
いつどこで何をどうしようとも、俺の自由だ。
俺は、ずっと欲しかったものを手に入れた。
暫く建ってから、ランタンを持って通りを歩く。
同じファロティエがふと顔を上げるがすぐにうつむき、ただひたすらに夜が明けるのを待つ。
ランタンの灯りがいつの間にか消え、太陽が顔を出したところで俺は足を止めた。黙々と歩いている内に随分と遠くまで来てしまったらしい。元いた街の中心部から離れた港場まで来てしまったようだ。
走って帰ったとしても、いつもより帰宅は遅くなる。
たくさんの船が海に浮かんでいる様子をぼんやりと見つめ、自宅に帰るために踵を返した。
3階建ての古い集合住宅、2階の角部屋が俺の帰るべき場所だ。
ファロティエを始めた当初から住んでいる部屋は、元奴隷だった俺にとっては十分広く、家賃が安い割には住人のマナーも良い。まあ、ここでマナーの悪い住人がいるはずもない。ここの大家は厳しく、お眼鏡に叶った人しか入ることができないからだ。
外観は古くて汚いのに、中は新築のように綺麗で部屋の内装も最新のものばかりだ。ここに住んでいる住人たちしか知らないことではあるけれど。
鍵は取り出さず、ドアノブをひねって部屋に入り、静かに扉を閉める。そのまま扉近くに立ち止まり、物音一つしないことを確認してから奥に進んだ。
閉め切っていたカーテンを微かに開けて日差しの強さに目を細める。異変がないことを確かめて、すぐにそれを閉めた。
そろそろと足を運び、隣の部屋に繋がる扉をノックするが中からは何も聞こえない。
「・・・・・」
暫くそのまま待っていると、足音が聞こえて扉が開いた。
その扉から姿を現れる前に、自然と笑みが浮かぶ。
「おはようございます」
「・・・おはよう、ございます」
身仕度を既に終えていた彼女は、それでも少しだけ眠そうな表情をして現れた。
「朝食はどうされますか?」
毎日毎食同じような問いを繰り返す俺を、彼女は一瞥して目を逸らす。そして、いつもと同じ言葉をその口から。
「あなたがそれを望むなら」
「かしこまりました」
精一杯柔らかく見えるように微笑み、頭を下げる。視界の端に映る長い黒髪が消えて、扉が閉められる音が聞こえるまで腰を折って頭を下げ続ける。
頭を上げ、向こう側にいる彼女に想いを馳せながら、扉に描かれている紋章を指でなぞった。
まだ国が崩れる前の、とある日。
まるで下げ渡されるようにお嬢様の奴隷になった俺は、一日中部屋に閉じ籠るようになった彼女に付き従っていた。
といっても、特に何かを命令されることはなく、そもそも言葉を発すること自体が稀だった。窓際の席で静かに本を読む姿を、扉近くの壁際からそれとなく窺うだけの日々だった。
お嬢様は貴族なのに、男と二人きりにさせ、しかも奴隷と密室にいさせることに疑問を持たなかったわけではない。
日に何度かお嬢様の食事を持ってくる使用人は、いつも嫌悪感丸出しでやって来ては汚らわしいと言わんばかりの目で俺を見てきた。そして、お嬢様にはなるべく関わりたくないと言わんばかりに素早く用事を済ませる。
お嬢様は、時折壁際にいる俺を視線だけで呼んだ。そして、手づから俺の口元に食べ物を運び、食事をさせた。
それが終わる度に、俺の首に嵌められていた奴隷の証である首輪を指でなぞった。
そんな日々が続いた2ヶ月後。
俺は奴隷という身分から解放され、はめ殺しの窓から呆然と外を眺めていたお嬢様を引き取った。
何かを勘違いさせている。
それはわかっているのに、その勘違いを全否定できないから何も言えない。あながち間違いでもない、けれど俺はそんなつもりでお嬢様を引き取ったわけじゃない。
決して、お嬢様を取引材料や囮として利用するために、2年経った今も共に暮らしているわけではないのだ。
「これで大丈夫ですか?」
彼女から恐る恐る渡された紙に書かれた内容を元のものとしっかり確認する。一言一句間違いがあってはならない。
元は身分の高い、教育をしっかり受けた貴族令嬢であるお嬢様の字はとても綺麗だ。
身分を失い、平民として共に生活する彼女は代筆の仕事をしている。いや、手持ちぶさたにしていた彼女にこの仕事を進めたのは俺だ。
基本的に依頼は俺が受けていて、彼女がこの部屋から出て仕事をすることはほとんど無い。
「はい、大丈夫です。今回もありがとうございます」
傍らに立つ俺を見上げていた彼女は、ほっと安堵したように表情を緩め、椅子に座り直してまた机に向かった。急な仕事が入ったと無理を言って、それまで作業していたものを中断させていたのだ。
彼女が代筆したものと他の書類をまとめ、筒に入れながら軽やかに動くペンを目で追う。
どうやらラブレターの依頼を今はこなしているらしい。害の無いものは中身まで確認していないが、宛名を見ると知り合いの名前だった。
堅物な男なのだが、代筆を頼んでまでラブレターを送りたい、恋をしている相手がいるとは知らなかった。これにもまた原本があるらしく、そっと見てみると・・・確かに代筆を頼んだ方がよさそうだ。むしろ彼女が読めていることが不思議なほどだ。
用事は終わったはずなのに離れない気配に気付いたのか、手を止めた彼女が振り向いて俺をじっと見つめる。
純粋無垢な瞳が、不思議そうに俺を映している。
「・・・髪、邪魔でしょう。俺が結って差し上げます」
筒を近くの寝台に置き、否やを言わせないように肩を掴んで前を向かせ、背中の中ほどまで伸びた長い髪に優しく触れた。
昔ほど艶を失った、けれども今も綺麗に手入れをされた彼女の髪。
奴隷だった頃は触れたことのなかったこの髪に初めて触れたのは、彼女を引き取ってから少し経った時だ。
あの時、同じようにはめ殺しの窓から外を眺めていた彼女は、言葉もなく入ってきた俺に驚いて窓から身を離した。そして、険しい目をした俺に腰まであった美しい髪を肩まで切り取られ、寝台に座り込んで目を丸くして俺を見上げた。
2年経ち、彼女の髪はやっとここまで伸びた。
彼女が普段、髪を結っている姿は見たことがない。その方法を知らないのかもしれないと、俺は秘かに勉強し、身に付けていた。
櫛で丁寧に慎重に梳き、簡単なようで難しい三つ編みに前々から用意していた髪紐を編み込んで最後を結び終える。
「終わりました。女性の髪で実践するのは初めてなので不恰好ですが・・・仕事には邪魔にならないと思います」
そろそろと、彼女が手を後ろに回して三つ編みにそっと触れる。確かめるように上から下へと触れて、ありがとうございます、と小さな呟きが聞こえた。
以前まではめ殺しにしていた窓は、今はもう片側だけは開けることができる。しかし、明るいうちでも彼女の部屋はカーテンすら閉じられていて、だから俺も昼間はカーテンを閉じるようになった。
夜は仕事でいないことが多いので、その間どうなっているのかはわからないが。
部屋からも家からも自由に出ていいと伝えてあるが、彼女が一人で家から出たことはない。
俺が誘っても、数回に1度は断られる。
「今度、外に出かけましょう」
彼女の肩が微かに揺れる。
彼女の横に移動して跪き、タコやマメができてしまった手を取っていたわるように撫でる。
「もう大丈夫ですから」
「・・・あなたが、それを望むなら」
硬い声音で返された返事。
あなたがそれを望むなら私は従順に従いますと、そんな風に聞こえるのはあながち間違いではないのだろう。
俺は彼女の横顔を見て、手の甲に口付けて微笑む。
支配者の変わった王宮に向かった俺が通されたのは、大きな黒い魔石が部屋の真ん中に置かれた部屋だった。
「やっと」
「来たね」
その魔石に触れていた双子の魔術師が、俺に気付いて振り向いた。
隣に立ち、忌々しげに魔石を睨み付ける俺を見たアレクシスがため息をつく。
「ある種、君と同じ魔石だよ」
「知ってます。ちゃんとわかってますよ」
「奴隷だった時は何も思ってなかったくせに」
俺を奴隷に落とした当人、アレクシアが声を上げて笑った。
「大切な人ができたんだもの。その人を蝕んでたものを忌み嫌うのは仕方ないでしょ」
「そうだよね。それで、君のお嬢様は元気?」
アレクシスの問いに無言で返していると、双子のじとーとした嫌な視線が突き刺さる。
「君ってば大切にしたいんだかどうだかわからないね」
「違うわ、アレクシス。大切にしたい、だけどその方法がわからない、だからこれ以上傷つけたくないからあらゆる危険から守りたい。そう考えているのよ」
「でも、アレクシア。それならお嬢様を僕達のところで引き取った方が良かったじゃないか。それなら魔術の扱い方もきちんと学べて、身の振り方だって幾つかの選択肢はあった」
「だから、自分自身で守りたかったのよ。ねぇ?」
この双子の魔術師はお喋りで、明け透けに物言うところがあまり好きではない。けれど、同い年である彼等に部下として付いていこうと決めたのは自分自身だ。
今回の任務も、アレクシア以外の者に術をかけられると提案されていれば即断っただろう。
「・・・さあ、どうですかね」
アレクシアが悲鳴に近い声を上げた。それがわざとであることはわかっている。
「うわ!鈍感!無自覚!それともわからない振り!?上司の命令を無視してまで隠そうとしたくせに!?」
「職務に忠実な君が、命令に背くほど心惹かれたのかと僕達は後始末に奔走したのになぁ」
アレクシスの言葉に、思い当たる節が多くある俺は思わずそっぽを向いた。
奴隷として、俺がこの国に紛れ込んだのは3年前のことだ。
上司にあたる双子の魔術師から下された命令は、奴隷を操る核である魔石を維持している者を見つけること。そして、繋がりのある家を把握すること。
この国の奴隷たちに嵌められていた首輪は当然のように闇の魔術が使われていて、その力が元は一つの大きな塊であることまではわかっていた。その核を壊せば、自動的に奴隷全ての首輪を壊すことができる。
核自体は比較的早く見つけることができたが、近くに術者がいなかった。痕跡を追おうにも、魔力の扱いがよほど上手いのか、ふと気付けば跡がわからなくなる。
ならば実際に探すしかないと、闇の魔術に詳しい双子によって、闇の魔力を持っていて尚且つ特殊な訓練を受けていた俺が選ばれた。
奴隷の一人から首輪を付け替え、大体の目星をつけていた家に買われるようにと動いた結果、偶然にもその家にお嬢様がいた。狙っていたのは本家だったが、分家に買い取られ、探していた術者を見つけた。
それが、お嬢様。
本家の娘であるにも関わらず、闇の魔力を持って生まれてしまったがために幼い頃から家に国に利用され続け、いつしか分家に押し付けられ、そこでもまた畏怖されて周囲から避けられていた。機嫌を損ねないように、けれども世話をするために、お嬢様が俺の主人になった。
意図せずして、俺は魔石の核を維持している術者に近付くことに成功した。そして、お嬢様自身も隷属の身であることを知った。
俺がお嬢様を引き取るにあたって、この双子が随分と融通を聞かせてくれたことは知っている。この件について、双子から一生とやかく言われることは間違いない。
「俺はお嬢様を守っている。ただそれだけで、いいでしょう?」
お嬢様を思い出し、自然と笑みを浮かべた俺を見て双子は顔をひきつらせた。
気持ち悪いと、アレクシアが吐き捨てる。俺自身も、気持ち悪いと思っている。自分が、誰かを想って笑うなんてことはあり得ないと思っていた。
アレクシスが何か言いたげに口を開きかけ、ため息一つ吐いて、やっと本題に入った。
「お嬢様の身を狙ってる奴らはもういないよ」
「囮として、出歩いてもらってよかったわ。やっぱり2年前の髪だけでは証拠不十分だと、探しだして利用しようとする奴等が沸いてきたから」
握り締めた拳に気付いているのか気付いていないのか、2年前の残党を処分するためにお嬢様を利用することを決めた双子は言葉を続ける。
「お嬢様の筆跡の書類を奴等に回して、お嬢様の幻影でおびきだして住み処も全部洗いざらい吐かして全員捕まえたわ」
「君にとっては、お嬢様を危険な目に少しでも合わせたくなかったんだろうけど」
「それでも根本的な解決をしていないことに気付いたのは君で、この問題を解決するにはお嬢様に登場してもらわなければいけなかったのよ」
「ほら、2年前に見つけられなかった隷属のイヤリング。これを壊せば、この魔石とお嬢様の繋がりは消える。お嬢様の中に燻ってる魔術も完全に消えてなくなるよ」
アレクシスが差し出したものを、俺は奪うように受け取って懐に入れる。
そして、背を向けて帰ろうとする俺にアレクシアが言い放った。
「彼女はもう自由の身なのよ」
彼女に与えた部屋には、俺以外の人間の侵入を許さない術と中にいる彼女が出た際に俺にそれを知らせる術がかけてある。もしお嬢様が逃げ出した時、真っ先に知ることができるように。
この集合住宅に住んでいる住人は俺と同じ双子の魔術師の部下ばかりなので、本来はそんな術をかけなくても監視としては十分だった。
しかし、お嬢様を引き取る代わりに受けた条件があったために夜はどうしても一人にさせてしまう。ファロティエとして夜の街を監視し、異変を察知して報告する役目が。
「お嬢様」
ノックすることなく扉を開けると、寝台に座っていたお嬢様が俺を見た。その手にはこの前の髪紐が握られていた。
どこかぼんやりとしたお嬢様に近付き、跪く。そっと髪を掻き分け、右耳に付けられたイヤリングに触れた。すると、まるで触れられるのを嫌がるかのように、指に刺すような痛みが走る。
それに呼応して、無表情だったお嬢様の顔が歪む。
「大丈夫、大丈夫です。もうすぐ、自由にしてあげますから」
魔石からも、俺からも。
対となるイヤリングの抵抗を受けながらも、自身の魔力を込めてそれを粉々に砕いた。お嬢様が怪我をしないように、左手で覆っていたイヤリングも同じように砕け散る。万が一にもと双子に渡された魔力封じの特別な布で残骸を包んだ。
比較的口の軽かった本家の人間の一人が吐いた。
お嬢様が生まれ、闇の魔力があるとわかった時から、奴隷たちを従わせる魔石の力を維持するように暗示をかけて、こちらに害が及ばないように遠ざけたのだと。余計なことは考えないように、こちらに危害を加えないように。
それまで国の魔石を維持していた魔術師が命を終えようとしていたので、ちょうど代わりの者を探していた。その魔術師に暗示をかけさせ、術者が死んでもその暗示が消えることのないように、隷属の証を残させた。
「これで、お嬢様は自由ですよ」
お嬢様にはこれからも監視がつくが、一応の危険が無くなった今、これまでのように一緒に暮らす必要はなくなる。
俺はお嬢様の側を離れなければならない。
それが、お嬢様の為だ。
立ち上がった俺を見上げるお嬢様の目は、まだぼんやりとしている。
映っているようで、何も映っていない目。
その目を、隷属の証によって意識を妨げられ、思考を放棄した目を俺は気に入っていた。
そして、その目が俺の介入によってどの様に変化するのか、興味を持った。同等な無関心の目を気に入りながら、いつまでも同じような目で見られてやがて離れてしまうのかとふと考えると、嫌だと思ったのだ。
誰も寄り付かない日常の中で、俺だけがずっと側に居続けた。お嬢様の意識の中にはなくても、物理的な視界の端に居続け、やがてそれを認識してぼんやりと見るようになった。そして、ご飯を与えられないそれに自身の魔力を少しずつ込めながら餌付けをするようになり、首輪を何度もなぞって幾重にも術をかけては他人に見破られないように外そうとしていた。
意識の混濁していたお嬢様の中で、俺という奴隷がどんな存在に映っているのかなど知らない。そんなことはどうでもいい。
それでも彼女の行動の意図に気付いた時、いや、彼女の魔力が身体に入ってきた時、彼女の一部が身の内にあることに俺は歓喜に打ち震えたのだ。
そして、俺の中で初めて欲が芽生えた。
力尽きたように俯くお嬢様の指が、震えながら俺の服を握っている。
まるで、すがりつくように。
それに思わず口角を上げ、けれどもその手を握ることはしない。
お嬢様にとって、宛がわれた奴隷が俺であったことは不幸だっただろう。
何故なら俺がただの奴隷として仕事を淡々とこなしていれば、俺に引き取られることはなく、軟禁されるかのような生活を送ることもなく、弱っていた心につけこまれることもなかった。
双子の魔術師の元で、身の安全を確かに保証された普通の生活を送ることができたのだ。
「シャルル」
上司の命令に逆らい、お嬢様と一緒に暮らすことにした日に一度だけ伝えた俺の名前が、救いを求めるように紡がれた時。
俺の醜い心を知ったお嬢様がどのような感情をその目に映すのか恐ろしく思いながら、これからもお嬢様と一緒にいられるのだと安堵し、酩酊に似た感覚で心はひどく満たされた。