第96話 飲み込んだ言葉の重さ
翌朝、わたしは何だか妙に早く目が覚めてしまいました。
朝食の準備のために野菜を収穫するために庭に出て、辺りを見回します。
空は快晴で空気は澄み渡り、とても綺麗な朝の光景です。木々の枝が時折風に揺れ、野菜の緑の葉の上には朝露が輝いています。
こんなに綺麗な朝なのに。
いつもと全然変わっているようには思えないのに。
空間が歪み始めている?
本当に?
わたしはぼんやりとそんなことを考えました。
何も異変など感じられない、そんなありふれた光景。
でも何となく、誰かに見られているような――首の後ろがちりちりいうような感覚につきまとわれました。
「コーデリア様?」
思わずそう囁くと、瞬時にしてわたしのすぐ横に彼女の姿が現れました。
「どうした、ミア」
「あの、何か変な感じがしませんか? 何かちょっと……厭な気配が」
すると、彼女は少しだけ鼻を鳴らして言いました。
「……ナメクジどもは追い払ったはずじゃが、いるのか」
「いいいい!?」
咄嗟にわたしは彼女の手首を掴んで引き寄せます。「いるんですか、いるんですか!?」
「離せ」
「やだ怖い」
「安心せい、いないはずじゃ」
「本当ですか!? 本当ですよね!?」
わたしは彼女を見上げ、きっと縋り付くような表情をしていたと思います。呆れたような彼女の表情を見つつ、それでも朝食の準備のために必要な分を収穫しなくてはいけなくて。
「そこで見ていてくださいね! 見捨てないでくださいね!」
そう必死に叫びつつ、コーデリア様のできるだけそばで地面に屈みこみます。急いで収穫を終えて立ち上がる頃には、さっきまで感じていた気配らしきものはすっかり消えていました。
気のせいだったのかな、と思います。
でも何となく、気のせいなんかではないと頭のどこかで考えていたのは事実でした。
これも――もしかしたら、空間が歪んでいるというのが原因なんでしょうか。
「朝食を終えたら出発しようか」
アルヴィ様が眠そうな表情のままおっしゃいます。
でも、温かいスープを飲んでいるうちにその瞳の輝きがはっきり浮かび始めました。眠気が覚めたのでしょう。
テーブルの上には、いつもより健康的な食事が乗ることになりました。よく言えば健康的、正直に言えば肉類が少ない食事ということになります。
温野菜のサラダ、卵焼き、ナッツの入ったパンとクリームスープ。
女性にはちょうどいいのかもしれませんが、アルヴィ様やイヴァン様にとっては物足りないのかもしれないと気になって仕方ありませんでした。
「出発って、王都に、よね? アタシたちはどうすんの?」
同じテーブルについているカサンドラが食事をしつつそう言います。
リンジーも行儀よく食事をしつつ、こちらの会話に耳を澄ませていました。
「むしろ、君たちが行かなきゃいけない」
アルヴィ様は苦笑しつつ応えます。「来客の依頼は、申し訳ないけど後回しになる。まずは、君たちを師匠のところに押し付けてからじゃないと僕が落ち着いて行動できない」
「押し付ける……って」
「ごめん、失言だった。預けてくる」
「それ、フォローになってる?」
カサンドラは目を細めてアルヴィ様を睨みつけます。でも、相変わらずアルヴィ様は飄々としていてつかみどころがありません。
「それでね、ミア」
唐突にわたしに微笑みかけたアルヴィ様に、わたしは慌てて背筋を伸ばして居住まいを正しました。カサンドラは自分の言葉を聞き流されたことに不満そうな声を上げていましたが、アルヴィ様は気にしていないようです。
「予定としては、リンジーを師匠に預ける。カサンドラを追い出す。その後、この……何とかいう少年の手助けをする。王都で君が欲しいと思えるものを買う。そしてここに戻る。これが今後の予定だ。簡単な流れだね」
「簡単……ですか」
わたしが眉を顰めると、アルヴィ様は軽く肩を竦めて見せました。
「多分」
「あの」
そこに、イヴァン様の控えめな声が響きました。「王都へはどうやって行かれますか?」
「どう? そうだね、魔術で一瞬のうちに移動するつもりだ」
「魔術で……」
イヴァン様が困ったように唇を噛んでから続けました。「僕は馬でここにきているのですが、一緒に行けるでしょうか」
「馬?」
アルヴィ様が困惑したように首を傾げます。
「はい、外の木に繋いであります。母が大切にしている馬ですので、できれば連れて帰りたいのです」
「大人しい馬なら魔術でも……いや、危険かな」
アルヴィ様は少しだけ考えこんでから、やがてイヴァン様に申し訳なさそうに微笑みかけました。「では、王都で待ち合わせとしようか。こちらとしても、その方が色々と都合がよさそうだ。一足先に僕たちは王都に入り、こちらの用事を済ませておくよ。その後で、君の屋敷とやらを訪ねよう。神眼の一族とやらは有名だから、訪ねる屋敷を間違うはずもないだろう」
「ありがとうございます」
イヴァン様は安堵したように息を吐くと、そのまま椅子から立ち上がり、軽く頭を下げました。「では、王都にてお待ちいたしております。僕も母の容体が心配なので、ここで失礼してもいいでしょうか」
「ああ、もちろん」
アルヴィ様の声は穏やかです。
足早に外へと向かうイヴァン様の背中を見送ってから、アルヴィ様はその笑みを消して少しだけ憂いのある表情を見せました。
「僕も、師匠に……何て挨拶したらいいのか考えなくてはならないな」
そして。
わたしは食事の後、王都へと向かう前に台所の掃除を急いで終わらせます。
それから、急いで身支度を整えるために自分の部屋へと向かいながら考えるのです。
アルヴィ様に言わなくて大丈夫なのか、と。
本当に、このまま外出していいのだろうか、と。
微かな罪悪感を心の奥に抱えながら、動きやすい服装に着替えてアルヴィ様の姿を探しにいきます。
アルヴィ様は応接間でカサンドラたちと一緒にいて、わたしの姿を見ると「さて、でかけようか」と微笑んでくださいました。
そして。
いつもとは違う胸の痛みを感じたのです。
赤い月。
死者の世界とつながる道ができる、確かそんな話をアルヴィ様とコーデリア様はしていました。
もしそれがただのおとぎ話じゃなく、本当に起こるのだとしたら。
アルヴィ様が待ち望んでいたことが現実になる。
もし、それが……もうすぐ起こるのだとしたら、それをアルヴィ様に言えば喜んでくださるのでしょうか。
でも。
隠しておけ、と言ったコーデリア様の言葉を理由にして、わたしはそれを胸の奥に飲み込みました。
でも何となく、自分が厭な人間になった気もしていました。




