第93話 神眼の一族
「子犬……?」
わたしはアルヴィ様の背中を見つめながら、そっと首を傾げました。
そして、どこに子犬のがいるのだろうと身を乗り出して玄関の向こう側を見つめます。しかし、どこにもそれらしい姿はありません。
そして、いるのは先ほどの少年――その場に正座し、ただまっすぐにアルヴィ様を見つめている彼だけです。
「そんなことより、飯、食おうぜ」
アルヴィ様の後を追ってきたルークが、その翼をはためかせながらわたしの胸の中に飛び込んできます。「どうせ、話は長くなるだろうし、そんにゃの聞いてたらせっかくの飯が冷めちまう」
「え、でも」
わたしは低く唸りました。
「そうじゃな、放っておけ。妾たちには関係のない話じゃ」
わたしの背後に立ったコーデリア様も、冷めた口調でそう言います。
「勝手に背後で話を決めないでくれないか」
すぐに、アルヴィ様が穏やかに、そして断固とした意志を伝えるような声音でそう言いました。
「義兄が亡くなり、母も倒れました。僕にはもう後がありません」
少年がその場で頭を下げたまま、急に話を始めます。
その途端、アルヴィ様がその声を遮りました。
「悪いけど、話を聞いてしまったからには協力してもらおうという流れに持っていかれるのは気に入らない」
「そんなつもりは!」
そこで少年ががばりと顔を上げ、泣きそうな表情で首を横に振ります。「ただ、どうしても僕は」
「話を聞いてしまうと、こちらとしても無碍にはできなくなる。ただ、こちらにも予定が色々あるんだよ」
「そう……なのですね」
少年はそこで肩を落とし、目を閉じて何事か考えこみました。そして、僅かな沈黙の後にゆっくりと立ち上がり、背筋を伸ばしてアルヴィ様を見つめ直して頭を深く下げました。
「申し訳ありませんでした」
その様子を見ていると、わたしは知らず知らずのうちに、胸に抱えていたルークを抱きつぶそうとしていたようでした。わたしの腕の中でもがくルークに気づき、慌てて両手に入っていた力を抜きます。
そして、アルヴィ様の背中に向かって小さく言葉をかけました。
「あの、ナイジェル様のご紹介だとか……」
「紹介……」
アルヴィ様がそこでわたしを振り返り、眉を顰めて続けます。「知り合いかい?」
「え、ええ。王都にお住いの……その、わたし、ものすごくお世話になったのですが」
確か、アルヴィ様もお会いしているはず。
ああ、でも、アルヴィ様は興味のない方のことは忘れると豪語していらっしゃるから、もう記憶から消えているのかも。
――忘れるのが早すぎるような気もしますが。
「ミアの知り合いなら仕方ないか」
そこで、アルヴィ様は深いため息をこぼし、それから視線を斜め下くらいに落として陰りのある微笑を浮かべました。「しかし、本当に忙しいんだよ。明日には王都にいる師匠のところに行って、リンジーを押し付け、その後で食器や鍋を見て回り、台所を改造するために必要なものも仕入れてきて――」
「え、あの、食器とかは別に急ぎでは」
「ああ、そうか」
ふと、アルヴィ様の目に無機質な輝きが灯りました。「全部師匠に押し付けてくればいいか。ああ、それでいい、それで解決だ」
「え?」
「よし、さあ君、面倒だから中に入りなさい」
急に、アルヴィ様は少年に向かって明るく微笑みかけました。「とにかく、これから夕食なんだ。君も食べていくといいよ」
唐突にそんなことを言われて、少年は目を白黒させています。
少しの間、どうしたらいいのか解らず、その場に立ち尽くしていた彼でしたが、さらにアルヴィ様に中に入るよう促されて、そっと頭を下げたのでした。
台所はそれなりに広い空間ではありましたが、さすがに大人数で入るには多少の圧迫感を感じさせました。
ですから、いつの間にかコーデリア様は蛇の姿になり、わたしの腕に巻き付いていらっしゃいます。まるで、それはそういう形の装飾品のようです。
テーブルを囲んで、アルヴィ様とルーク、カサンドラとリンジー、わたしと来客の少年。
少年は少し、居心地悪そうに身を小さくし、終始申し訳なさそうな表情をしていました。
「僕はイヴァン・ベルナルドと申します」
そう彼は名乗り、食事を目の前に椅子に腰を下ろした後も、ただ背筋を伸ばしたままの格好で話を続けました。「本当に、急にお伺いして申し訳ございません。助けていただける心当たりがなく、家同士のお付き合いがあるナイジェル様に声をかけさせていただいたのです」
「ナイジェル……」
アルヴィ様が飲み物の入ったグラスに手をかけたままの格好で、首を傾げます。すると、少年――イヴァンが言いました。
「ハイデッカー家は王都でも有名な貴族様でいらっしゃいます。ですからもちろん、ナイジェル様のそばには専属の魔術師様、オーランド様がいらっしゃいますが、そこで『厄介な問題を解決してくれる魔術師様の力を借りたい』と言ったところ、アルヴィ・リンダール様のお名前をお聞きしました」
「そう」
アルヴィ様は曖昧な微笑を浮かべます。
やっぱり覚えていらっしゃらないみたいです。
わたしはアルヴィ様の目の前に料理の皿を並べましたが、食事するという雰囲気ではなく、彼らは話に専念していました。
「家同士の付き合いがあると言ったね? ということは、君も貴族様なのかな。ごめんね、そうだとしたら僕は大変な失礼をしているわけだけれど」
「いえ、僕はそんな大層な立場ではありません」
少年は慌てたように目を見開いて言いました。「いえ、あの……確かにベルナルド家は……その、特殊な……というか」
「ベルナルド家」
そこで、アルヴィ様は眉を顰めて考えこみます。「聞いたことがあるような気がするのは、有名な名前なんだろう。すまないね、何しろ、こちらはずっとこの森にこもっているから王都の情報が全く入ってこないんだよ」
「いいえ、逆にその方がこちらとしても助かります」
「どうして?」
「ベルナルド家にも一応、守るべき世間体というものがありますから」
そこで、アルヴィ様は無言で首を傾げ、少年に話の先を促しました。
少年――ええと、イヴァン様とお呼びした方がいいのでしょうか――は、ぎこちない笑みを口元に作り、小さく言いました。
「アルヴィ様は、神眼の一族と呼ばれるベルナルド家の話は聞いたことがないようですね?」
「神眼の……ああ」
アルヴィ様はそこでやっと何かを思い出したかのように微笑み、小さく頷きました。「随分昔に聞いたことがある。何もかも見通す力を持つ一族。彼らの前ではどんな嘘もつき通せないと……君が、その一族の人間?」
「ええ、まあ」
そう応えた少年の言葉は、どこか歯切れが悪いものでした。「王都ではそれなりに有名な家ではあります。失せ物探しから、何でもやります」
「有能すぎる占い師みたいなものだね」
「……そうですね」
どこか他人事のように頷いた彼に、アルヴィ様はさらに尋ねました。
「君もその力を持っているわけではないのかな? 正直なところ、君から何も魔力らしいものは感じないけれど」
「はい、僕が力を持っているわけではなく……」
そして、その場に落ちる沈黙。
「……力を持っているのは、小さな鏡なんです」
少年は苦々しく微笑み、そして真剣な表情でアルヴィ様をまっすぐ見つめました。「ベルナルド家が特別な力を持っている一族だ、と言われていますが、ただ隠しているだけです。神眼の力を持つ不思議な鏡を持っているだけで……我々は本当に単なる一般人にすぎません」
「鏡、ね」
「でも、その」
少年はさらに声を潜めて続けます。「その鏡が、夜盗に盗まれたと思われるのです」
「盗まれた?」
「はい。ですから、それを取り戻していただきたく」
「夜盗から、ね」
そこでアルヴィ様は低く笑い声を上げました。「確かに、それは世間体を気にするかもしれない事件だね。何しろ、神眼を持つ一族が失せ物を探せないと知られたら都合が悪いだろうから」
「その通りです」
少年はそこで苦しそうに目を伏せ、やっとの思いで絞り出した声は掠れていました。「あの、どうかこれは内密に」
「もちろんいいよ。別に、話をする相手などこの場にいる人間くらいしかいないし。話が漏れたとしたら、僕じゃなくてそこの色気のある女を疑え」
突然、そう話を振られてカサンドラが肩眉を跳ね上げて笑います。
「やめてよね、そういうの。アタシだって誰にも言わないわよ」
「じゃあ、君がこの仕事を受けたらどうだい?」
「それもやめてよね。そっちの坊やはアンタに持ってきた仕事のつもりでいるのよ。名前も知らない他の魔術師なんてお断りでしょ」
カサンドラの視線が少年に向けられると、彼は返事に困ったように微笑みます。
ほらね? と言いたげなカサンドラの視線がアルヴィ様に戻ると、アルヴィ様は肩を竦めて見せました。
「まあ、いい」
やがて、アルヴィ様は少年に向かって言葉を続けます。「もう夜も更ける時間帯だ。さすがに、行動を起こすには遅すぎる」
「……はい」
少年は少しだけ唇を噛み、そっと頷いて見せます。
僅かな焦りの色がその瞳の中に見えたような気がしました。
「だから、今夜は泊っていきなさい。ミア、食事が終わったら部屋を準備してもらえる?」
「はい」
わたしは急に話を振られて慌てながらも、すぐに頷いて見せました。
すると、アルヴィ様がわたしに優しく微笑みかけてくださいます。
どうしよう、心臓が暴れます。




