第92話 幕間<アルヴィ視点>2
台所に向かっていると、近づくにつれて人の声が聞こえるようになる。これは以前は経験しなかったことだ。
どうやらミアとコーデリアが話をしているらしく、わざと気配を消して廊下を歩くと、微かに彼女たちの話が聞こえてきた。
「気を失っていたのじゃから、それはどうにもなるまい」
「あああああ、でも覚えていたら一生の思い出になったわけですよ!?」
「お主の一生の思い出とは、随分とささやかな」
「当たり前じゃないですか! 人間、ささやかなことに幸せを感じる生き物なんです!」
「ほう」
「あ、コーデリア様、そっちのお鍋、取っていただけませんか」
「それと、お主は使い魔の使役の仕方を大きく間違っておる」
「コーデリア様はパンとか野菜とか食べられます? ずっと留守にしていたから、そろそろお肉とかなくなりそうなんです。買い出しいかなきゃ」
「話を聞け、娘」
「ミアですってば」
「楽しそうだね」
僕が台所のドアを開けて中を覗き込むと、ミアがびっくりしたように硬直した後、その口元を緩めてふにゃりと笑う。
「誰かと一緒に料理するのは楽しいですから」
「料理はせんぞ」
そのすぐそばで、明らかに不本意といった表情のコーデリアが鍋を持って立っていた。いや、全くもって似合わない光景だよ。
「料理してくれるのは助かるけど、君も疲れているんだろうから、あまり無理しなくていいよ? 体調はどうだい?」
僕がそうミアに訊くと、痩せた少女が右手を握りしめ、力こぶを作ろうとしつつ表情を引き締めた。
「随分眠っていたようで、体調はもうすっかり大丈夫です!」
「そう?」
「はい! あの、今夜の夕食はニョッキにしようと思うんですが、アルヴィ様はクリームソースとトマトソースならどちらがお好きですか?」
「いや、僕は別にどちらでも――」
と、言いかけたものの、ミアのきらきらとした期待に満ちた光を放つ瞳を見てしまうと、こう続けずにはいられない。「クリームソースで」
「はい!」
何だろう、ものすごく不本意だ。
負けた気がする。
そして気づくと、コーデリアが意味深な目つきで僕を見つめ、そっと皮肉げに笑う。そうか、類は友を呼ぶ。きっと僕の姿も、コーデリアには『そう』映っているのだろう。似合わない、と。
「そういえば、ルークはどうしたんですか?」
料理する手をとめずに、ミアはそう訊いてきた。
僕は全然使っていなかった貯蔵庫から、彼女は食材を取り出してくる。いつの間にか、台所は彼女の使いやすいように色々と物が並べ替えられている。そういえば、肉類がないと聞こえたから、明日、買い出しにいかなくてはいけないだろう。
「ああ、使いに出したんでね。そのうち帰ってくるよ」
僕は何も乗っていない自分の肩に目をやってから、台所にある椅子に腰を下ろした。
必要なものしか乗っていないダイニングテーブルというのは綺麗だと思う。おそらく、この屋敷にあった布の端切れを使ってミアが作ったのであろうテーブルクロス。
住む人間が違うと、こうも違うのだろうか、と感心する。
穏やかな生活。
ルークと二人きりだった時とは違う、心の静かさ。
「そうですか。一応料理、残しておきます」
元々、使い魔は主の魔力を糧としているから食事などしなくても生きていける。
それでも、ミアはルークやコーデリアに気を遣う。ルークは確かに食い意地が張っているような気もするが、コーデリアは――。
「使いとは何じゃ。また何か問題でもあったのか」
コーデリアはミアに言われるままに鍋を竈に置いてから、僕の向かい側にある椅子に腰を下ろした。
彼女の様子も随分と変わった。
魔物らしい雰囲気はあるが、以前とは違ってその表情は穏やかだ。
「問題と呼べるものではないよ。うちの居候を追い出すための手段を思いついたからね」
「居候」
「そう、カサンドラは追い出すよ。このまま居つかれたら困る」
「ふむ」
「リンジーもですか?」
少しだけ眉を顰め、ミアがこちらを振り返って首を傾げる。
「カサンドラはともかく、彼女だけは可哀想だしね、行き先が決まってからではないと追い出せない」
「そうですよね」
ミアが安堵したように笑う。そして、また料理の手を動かし始めた。どうやらパン生地の準備ができたらしく、鍋の中に生地を入れて竈に火をつける。
確かに、鍋でパンを焼くのは面倒そうだ。早く何とかしてやらないといけないだろう。
窓の外が暗くなり、食事の準備ができた頃。
意外なことに、ルークが屋敷に戻ってきた。もっと遅くなるかと思っていたが――。
「さっさと帰れと言われたんだにゃ」
不満そうに鼻を鳴らしつつ、ルークが咥えていた手紙を僕の手元にぽとりと落とした。「撫でろとアピールしたのに! おっちゃん、久々なのに冷たいぜ!」
ルークはそう言って、僕の胸元に身体を預け、撫でろアピールをしてくる。仕方ないので撫でてやると、何とも簡単に喉を鳴らし始める。
僕は台所の椅子に座ったまま小さく苦笑して肩をすくめると、ミアがルーク用にと食事を鍋から取り分け始めた。
「お帰りなさい」
ミアがルークにそう言って、料理の乗った皿をテーブルの上に置くと、ルークはあっさりと僕の手から離れて皿に目をやった。単純だね、うちの使い魔は。
「手紙か」
僕の向かい側にいるコーデリアがそう言って、興味を惹かれたといった表情をする。
「まあね」
僕は相槌を打って、その手紙を手に取った。
そこに感じる魔力の気配は、紛れもなく師匠のものだ。
見覚えのある封蝋には、僕だけが開けられるように魔術をかけてあるらしい。何とも仰々しいことだ。
封を開け、中身を読む。
師匠らしい、几帳面な字。懐かしい字だ。
『連絡をもらって驚いた。お前の活躍は色々と噂で聞いているし、元気でやっていると信じている』
そう、何の飾り気もない文章で始まった内容。
『他人との関わり合いを避けて森にこもったわりには、面白い状況になっているようで興味深い』
――なりたくてなっているわけではないのだけれど。
『だが、幼い少女の扱いに困るであろうことは簡単に想像できる。私の方で受け入れは可能であるし、食事と寝床は提供できる。しかし何故、そのような状況になったのかお前の手紙にはほとんど書いていなかったので、詳しく話を聞きたい』
――受け入れ可能。
それを読んで、安堵した、が。
「ミア、耳を塞げ」
僕は手紙に感じていた魔力の気配が、封蝋だけが原因ではないと気づいてそう言った。
しかし、ミアが困惑して動きをとめた瞬間に『それ』は起きた。
「だから、たまには顔を見せにこい、この馬鹿息子が!」
屋敷中に響き渡る大声が手紙の中から弾けた。それはまるで、雷鳴のようだった。
手紙が僕の手から落ちて床の上でかさり、と音を立てる。
ミアはいきなりの大きな音に身をのけ反らせ、それから遅れて両耳を手で塞いだ。残念、遅かったね。
そして、僕も耳の中で反響を続ける師匠の声に頭痛を覚えて額に手を置いた。
ルークは一足先に窓際に逃げていたけれど、さすがにその大きな声に耳を攻撃されて参ったのか、床の上にだらしない格好で伸びていた。
ただ一人、悠然としているのはコーデリアだけ。
「息子、ね」
僕はやがて苦笑する。
まだ、僕のことを息子扱いしてくれるのか、と思う。
ヴァイオレットが死んで、自暴自棄になっていた自分は、随分と攻撃的な言葉を師匠に吐き捨てて袂を分かったというのに。
優しい人だ。
それが解っていたから、リンジーの今後を頼めると期待していたけれども。
それでも、心が痛む。
今更、どんな顔をしてあの人の前に立てばいいのだろう。
いや、誠心誠意、頭を下げるつもりではあるけれど。
「何なの、今の騒音」
屋敷を震わすような音に驚いたのか、カサンドラが台所のドアを開けて覗き込んできた。そして、彼女の登場に遅れてリンジーも姿を見せる。
「色々とあるんだよ」
僕がため息をついて椅子から立ち上がり、そしてさらに言葉を続けようとして動きをとめる。
何かの気配を感じる。
そしてその瞬間、屋敷のドアのノッカーが音を立てるのに気付いた。
そういえば、来客を追い返すような魔術などかけていなかったな、と唇を噛んで考える。
「お客様ですね。いってきます」
と、ミアがぱたぱたと足音を立てて台所を出ていくのを見送り、僕は何とも厭な予感がして仕方なかった。
「あの、アルヴィ様にお会いしたいと……男の人が」
すぐにミアがそう戻ってきて言う。眉根を寄せ、とても困ったような表情で。
その表情の理由はすぐに解った。
僕が玄関にいき、来客の前に立つと。
「ナイジェル・ハイデッカー様のご紹介でやって参りました。お願いしたいことがございます」
そう言ったのはミアとほとんど年齢が変わらないであろう、少年だった。明るい茶色の髪の毛と暗褐色の瞳。真面目そうな顔つきで、そして必死といった声音で続ける。
「できるだけの謝礼は払いたいと考えています。どうか、助けていただけないでしょうか、お願いします!」
彼はそう言ってから、深く頭を下げる。
しかも、この光景は前に見たことがあるような気がする。
「何で正座してるのかな」
僕は笑いながら、そしてできるだけ拒否の感情を露にしてそう言うと、少年は地面に額を押し付けるようにしてさらに言葉を続けた。
「僕などがお会いしていただけるのも恐れ多いほど、有名な魔術師様とお聞きしています。でも、どうしても助けていただきたく、その意思表示です」
「全く有名ではないよ。人違いじゃないかな」
「いいえ! エーデルマン王国でのご活躍は伺っております。恐ろしい蛇の魔物を調伏したというお話です」
「いや、そんな記憶はないよ。やっぱり間違いだね」
エーデルマン王国。
ナイジェル・ハイデッカーというのは誰の名前だったろうか。聞いたことがあるような気もするが、思い出せない。
エーデルマン王国で会った誰か。
まあ、そんなことはどうでもいい。しばらく、厄介なことには関わりたくない。やっと平和な生活に戻れると思ったのだから。
「お願いです」
正座したまま、その少年は必死に僕の顔を見あげる。
くそ。
「……子犬が増えたか」
僕は思わず、そう呟いた。




