第91話 幕間<アルヴィ視点>1
――そうか、犬だ。
僕は唐突にそう気づいた。
ミアという少女を自分の屋敷に入れることになったのは、ただの気まぐれだ。
ルークとの生活は穏やかであったし満足もしていたが、毎日が平凡で何も変化がないものだった。だからなのだろうか、彼女が「ご主人様になってください」などと言い出した時には呆れもしたけれど、好きにすればいいと思った。
ここのところ退屈すぎて、時には生活に変化も面白いとも考えたからだ。
正直なところ、他の人間には特に興味もない。
だから、どうでもいい少女が何をしようと、適当に話を合わせて流しておけばいい。
そう考えていたのに、今はどうだろう。
彼女は見た目とは裏腹に……優秀だ。
いや、優秀というのとはまた違うのだろうか。
偶然の積み重ねなのだろうか。きっかけはおそらく、レストリンゲの実を食べたこと。
彼女は僕と同じく魔力を手に入れたけれど、得た魔力の強大さに惑うことなく平凡な生活を送ろうとしている。自然体のまま、出会った時と同じ笑顔のままで。
普通なら――もう少し、浮足立ってもおかしくない状況だと思うのだけれど。
僕が考えていた以上に、彼女は大物になるかもしれないと感じ始めている。
そう思わせてくれたのはコーデリアの態度の変化だ。
僕の知らない間にルークだけには飽き足らず、コーデリアまで手なずけた。あの、気難しい魔物を恐れもせず、むしろ自分から彼女の冷えた腕の中に飛び込んでいく勇気は――いや、勇気ではないな。
彼女は無邪気で、真面目。よく言えばそうだろう。
絶対に口には出せないが――言えば彼女は立ち直れないほど落ち込むだろう――、単なる馬鹿なのかもしれないという疑念も拭いきれない。
そして、ついさっき、寝起きであろう彼女に向けて言った「買い出しに行こう」という言葉の後に返ってきた満面の笑みを見て思う。
――犬だな、と。
その無邪気さも、主と決めた相手に対する忠誠心も。
何というか、この世界の悪いところも何も知らず、無邪気に走り回る子犬のようだな、と。
「あの、少しいいでしょうか」
僕が応接室で本棚の前に立ってそんなことを考えていると、廊下の向こう側から控えめなノックの音が響いた。
すると、僕の肩の上で静かに眠っていたルークがぴくりと身体を震わせ、そのまま床へと降りた。そして、ゆっくりと窓際にある椅子へと歩いていき、その上に乗ってまた丸くなる。
どうやら、厄介なことには関わりたくないという意思表示らしい。
僕の小さな使い魔は、椅子の上で目を閉じてまた眠ってしまう。
いいね、猫は気楽なもので。
「……どうぞ」
僕が廊下へ向かってそう言葉を返すと、やはり控えめな音を立ててドアを開けたのは、その存在を時折忘れてしまいそうになる少女がそこに立っていた。
名前は……そう、確かリンジーだ。
彼女は緊張した面持ちで僕の前に立ち、深く頭を下げて小さく言った。
「そろそろ、お暇したいと思います。今まで本当にお世話になりました」
メリーライネン王国から帰ってきて、一晩が明けた。
相変わらずカサンドラとリンジーもこの屋敷にいたけれど、どうも彼女たちの関係はあまりいいものとは言えないらしい。
カサンドラはリンジーに近づこうと努力はしていたようだったが、リンジーの態度はカサンドラに和らぐことはなく、それどころか拒否する色が強まってきている。
まあ、当然のことだろう。
「出ていくということかい?」
僕は笑顔のままそう訊いた。「行く当てはある?」
「大丈夫です」
強張った表情のまま、リンジーは続けた。「元々、わたしもキャシーも孤児でしたし、子供だけで生きていく術も知っています。これ以上、アルヴィ様に厄介になるわけにはいきませんし、それ以上に……わたしは早く自立しなくてはいけないと思うのです」
「自立ね」
――つまり、カサンドラとも離れて、ということか。
「でも、君が生きていた世界とは少し違うんじゃないかい? 君はずっと眠っていたわけだ。この今の世界に、カサンドラ以外に知り合いはいないだろう?」
「はい。だからこそ、早く色々な状況を見て回らないと生きていけません」
――大人だ。
この子は、確かに肉体的には子供だと思う。
でも、孤児だからこそ苦労してきただろうし、世の中の厭な部分も見てきている。
僕がそうであっただけに、彼女の気持ちはよく解る。自分を守ってくれる家族がいないと、頼れる相手は自分だけしかいない。早く大人にならなければ、生きていけないのだ。
「そうか。出ていくのは別にとめないよ。でも、カサンドラはそれを受け入れるかな?」
「それについては、随分と話し合いました」
リンジーは少しだけ唇を噛んだ。苦し気な表情は、まだ何か悩んでいるようにも思えた。でも、少しの沈黙の後、硬い表情のまま続ける。
「でも、キャシーは……わたしの知っているキャシーじゃないんです。もう、一緒にいるのはおかしいと思います。だから、一緒にいたくないと言いました」
「……はっきり言うね」
僕はそこで苦笑する。
何となくだけれど、それを聞いたカサンドラの表情が目に浮かぶような気もした。
「わたしは……その」
そこで幼い少女は言い淀み、泣きそうな目で僕を見つめた。「わたしはいつだって、暴走するキャシーをとめる立場だったんです」
「暴走ね」
「はい。彼女は本当に無謀で、すぐに無茶するからわたしがそれを引き留めながら上手くやってきていました。でももう、そういう関係には戻れない。目が覚めたら……わたしが彼女に守られる立場にあって、それに……キャシーは大人すぎて……どうにもならない。わたし……わたしは、キャシーが怖い」
――これは相当なものだな。
僕は彼女の言葉に頷きながら考えた。
二度と戻れない関係もある。それがどんなに懐かしく、綺麗な思い出でも。
修復できないものは確かに存在する。
リンジーは、カサンドラとの過去を切り捨てることを選んだ。
カサンドラがそれをどんなに受け入れたくなくても、これは変えられない現実だ。
「ま、仕方ないわよね」
そして唐突に、魔力のうねりと共に応接室に姿を現したのはカサンドラだ。どうやら、我々の会話を盗み聞きしていたのだろう。
かといって、この小さな屋敷の中で魔術を使われるのはごめんこうむりたいものだが。
彼女はソファに腰を下ろし、唇を歪めるようにして笑うと言葉を続ける。
「アタシはリンジーの気持ちを大切にするわ。諦める」
「意外だね」
僕は心の底からそう言った。「もっと食い下がると思ってたよ」
「もう充分食い下がったわよ」
彼女は僕を睨みつけ、そして小さなため息をこぼした。「でも、しょうがないじゃない? 怖いなんて言われたら……無理でしょ」
「ごめんね、キャシー」
リンジーが眉根を寄せてそう言うと、カサンドラは苦笑しながら手を軽く振った。
「いいのよ。確かに、アタシはもう昔のアタシじゃないしね。歪んだ形に育った木を元に戻すことはできないの」
「歪んだ……」
それを聞いて、リンジーが何か言おうと口を開きかける。しかし、カサンドラは露悪的な笑みを浮かべて彼女の言葉を封じた。
「悪いことばっかりやってきたもの、アタシ。自分の欲望に忠実に、誰かを殺すことだって簡単だったわよ?」
その言葉の後、カサンドラは僕を見つめ直して目を細める。「そういえば、アンタはどうなの?」
「何がだ?」
「アタシはシュタインの狙い通り、こうして歪んだ性格に育っちゃったけど。アンタだったら、あの子をどんな風に育てるの?」
「あの子――ミアを?」
僕が首を傾げて見せると、カサンドラは声を小さく立てて笑った。
「そ。自分好みの形に歪めることだってできるでしょ?」
「冗談だろう」
僕も笑う。「ミアは君が思っているほど柔らかい素材でできているわけではないよ。僕が何をしようが、彼女はまっすぐに育つだろう。そういう性格だ」
「あらぁ。それはどうかしらね?」
カサンドラは笑みを消した。「結構ね、師匠の存在って大きいわよ」
――師匠。
主人。
犬だからな、とも納得する。主に忠実な彼女は――もしもシュタインを主としたら、やはり歪まずにはいられないだろう。
考えたくもないことだが。
「師匠、か」
僕はそこでリンジーに目をやった。居心地悪そうにそこに立っていた少女に、僕はふと思いついたことを言った。
「たった一人だけ、僕が紹介できる魔術師がいる。リンジーは魔術師の弟子としては将来有望だろうし、彼が受け入れてくれるかどうかは解らないけれど、連絡してみよう」
「え?」
困惑するリンジーの声。
「あらやだ、やっぱ、アンタってホントは優しいんじゃない?」
からかうようなカサンドラの声。
「ただ、随分と不義理なことをしてしまった相手だ。あまり期待しないでくれ」
そう言って、僕は窓際にいるルークのそばに歩み寄った。
「めーずらしー」
ルークがそこで薄目を開け、にしし、と奇妙な笑い声を上げた。「ご主人のためなら、俺様だって伝書鳩になってやんぜ!」
そう言いながら欠伸をしつつ身体を起こして伸びをする。やはり、長い付き合いだけにルークには僕の考えていることがよく解るようだ。
「グランヴィールのおっちゃんに会うのは久々だからにゃ、ちょっと時間がかかるかもしんねーぞ」
そう言いながら、ルークは僕の手に向かって頭をこすり付けた。
そう言えば、ルークはお師匠様の手も猫コマシと呼んでいたな、と思い出した。




