第90話 加護を与えよう
「急ごうか」
アルヴィ様が遠くにいるエルネスト殿下や他の方々を見つめ、ふと笑みを消してそう言いました。「どうも、のんびりしているとまた厄介なことに巻き込まれそうな気がするしね」
「わたしもそう思います」
すぐにわたしがそう言葉を返し、コーデリア様の方へ顔を向けようとした時でした。
意識が途切れた、ような気がしました。
誰かがわたしの名前を呼んだ気もしましたが――それどころではありませんでした。
目の前が、あまりにも眩しくて目を開けていられません。目を閉じていても、目の前が明るいと感じるのです。
それでも、何とかゆっくりと目を開けて、その光景を見ました。
「また、夢の世界?」
わたしは茫然としながらも、辺りを見回しました。
白銀の世界。真っ白と呼ぶよりももっと――透明感のある、無機質な輝きを放つ世界がそこにはありました。
夢の中で見たよりもずっと、限りなく純白に近い世界。
穢れのない世界。
「アルヴィ様?」
わたしは一体どうしたのだろう、と思いながらその名前を呼びました。さっきまで確かにすぐそばにいらっしゃった、ご主人様の名前。呼ぶと少しだけ、心が温まるような気にさせてくれます。
でも、もちろんのことですが返事はありません。
辺りはとても静かで、そして美しくて。
まるで、夢のような――という表現が相応しいほどの素晴らしい世界。
目を覚まさなくては、と唇を噛んだ瞬間でした。
「人間よ」
彼は唐突に、わたしの目の前に姿を現しました。
白銀の世界の王様。
巨大なその体躯を屈めるようにして、わたしを覗き込んできた彼の姿に、慌ててわたしは膝をついてその場で頭を下げました。
真っ白な地面を見下ろす形になりましたが、わたしの目は彼の巨大な足を視界にとらえています。人間とは違う、硬質な輝きを放つ爪先。
「姿は違うが、そなたは我が武器を与えた人間だな?」
彼は静かにそう続け、わたしはすぐにそれを認めました。
「はい。ミア・ガートルードと申します」
「それは以前聞いた」
「はい」
「協力に感謝しよう、人間よ」
「ありがとうございます」
そう言いながら、恐る恐る顔を上げると、やはり何の表情も読み取れない彼の顔がそこにはありました。
あまりお役には立てなかったかもしれないけど……なんて頭の中で色々考えていると、そういえば、と思い出したことがありました。
「あの」
わたしは彼に向かってもう一度頭を下げました。「お借りした武器ですが、お返ししなくては」
そう言いながら、わたしは右手を前に差し出しました。
そして、意識するだけでわたしの右手の中には白く輝く剣が現れるのです。重さなど感じない、不思議な剣。
そして――夢の中だけではなく、現実の世界でもわたしを助けてくれた剣です。
サウル殿下やエリク様の穢れをも祓ってくださった。
そう言えばわたしは、何の疑いも持たなかったな、と思い出します。
この剣でサウル殿下やエリク様を傷つける可能性とか、そういったことを考せずにただ振るったこと。一歩間違えば、とんでもないことになっていたのかもしれないのに。
普通、剣とは相手を攻撃するためのものなのだから。
そんな考えを読んだかのように、王様が声を発しました。
「浄化するためだけの武器だからな」
彼はそう言いながら、わたしの手の上に自分の巨大な手をかざします。すると、瞬時にその剣は空気に溶けるかのように消えました。
残ったのは剣がそこにあったと思われる、清廉な空気のような残滓。
「何故、そなたが我々に関わることになったのかは不可解ではあるが、これも何かの縁であろう」
「縁……?」
わたしは首を傾げながら彼を見上げます。すると、彼は大きな羽を揺らしながら鈴の音のような甲高い音を立てました。
――笑い声?
「我が一族は、大禍と戦う時には人間に力を借りる。それは理解しておるだろう」
「はい」
だから、エルネスト殿下が『あんなこと』になってしまったわけで。あんなことさえなければ、わたしも今回の件に関わることなどなかったはずです。
「そして大禍を浄化させ、借りた力は元の人間に返した。我が加護の力と共に」
「加護?」
「そうだ」
彼は頷くような仕草をして続けました。「あの人間の男には、穢れが近づかぬよう加護を与えた。そして、そなたにも与えようと思う」
「えっ?」
「これが縁というものだろう。そなたは大禍と戦い、穢れを祓う役目の一部を担った。その礼を払おう」
「でも!」
わたしは慌てて首を横に振りました。「そんなに大したことはできませんでした。わたしはほとんど何も」
「よいのだ」
そう短い言葉の後で、王様の腕がわたしに伸ばされて。
その長くて冷たい爪がわたしの額へと触れました。
その途端、目の前に光が弾けたような気がして、目を閉じます。
――そして。
「起きたか、ミア」
ぼんやりと天井を見上げているわたしを、コーデリア様がベッドの端に腰を下ろしてこちらを見下ろしていました。
「あれ?」
わたしは一瞬の戸惑いの後、思い切り身体を起こして頭を押さえました。微かな頭痛を覚えたような気もしましたが、それは一瞬で消え去って、妙にすっきりした気分になりました。
「わたし、何をしていたんでしたっけ」
そう呟きながら、辺りを見回すと、そこは紛れもない自分の部屋です。アルヴィ様のお屋敷の中で、わたしに与えられた一室。いつもと変わらない、平凡な光景。
窓の外は明るく、まだ昼間なのだと教えてくれています。
「よく眠っておったな。疲れていたのじゃろうが」
コーデリア様が苦笑交じりにそう言いました。わたしが彼女を見つめると、コーデリア様はベッドから立ち上がり、部屋を出ていこうとします。
「え、あの、待ってください」
わたしはベッドから降りて、コーデリア様の背中を追いかけました。
そして気づくのは、そういえば今の自分の格好は、意識が途切れる前と同じ服のまま。
あのまま……眠っていた、ということ?
「お主はあの国を出ようとした時に気を失ったのじゃ」
コーデリア様がわたしを振り返り、そう言います。
「え、やっぱり」
わたしが唸るように小さく呟くと、コーデリア様はさらに続けました。
「気を失ったそなたを、あの男が抱き上げて連れて帰ってきたわけじゃが」
「あの……男」
「それからずっと眠っておったから、腹も空いたのではないか」
「え、あの」
――あの男。
抱き上げて?
え?
「こ、コーデリア様、ちょっと詳しくお話を聞かせていただきたく! ええ、それはもう、逐一細かいところまでぜひ!」
「煩い」
相変わらず、わたしが縋り付く勢いで彼女の腕を掴んだというのに、あっさりと突き放すコーデリア様です。冷たい。もうちょっと優しくしてくれたって罰は当たらないと思うのに。
「聞きたいなら本人に聞くとよいわ」
「え、でも」
そんなことを言い合っていると、どうやらこの騒ぎに気付いたのか、廊下の方から足音が近づいてきました。
思わずわたしはまたコーデリア様の服の裾を掴み、身体を硬直させて足音が扉の前に立つのを待ちました。
「起きたかい?」
軽いノックの後に、アルヴィ様が扉を開けてこちらを覗きこんできました。そして、コーデリア様がわたしの手を振り払うのを呆れたように笑い、彼は優しく続けました。
「ミア、もう大丈夫? 目が覚めたばかりだし、今日はゆっくりするといいよ。明日は街に買い出しにいこう」
「買い出し」
わたしは自分の口元が緩むのを感じました。「あの、その」
「約束だからね。何でも買ってあげるよ」
――嬉しい。
何だかもう、色々聞きたいことはあったのに、どうでもよくなってきました。
夢で見たことをアルヴィ様に報告した方がいいのだろうか、と頭のどこかで考えましたが、きっとそんなこと些細なことなんでしょう。
やっぱりわたしは、アルヴィ様と一緒にいられたら何でもいいのかもしれない。
そんなことを考えつつ、アルヴィ様が廊下を歩いていってしまうのを見送りました。




