第89話 ルークになった気分
「ええと、あの」
わたしは必死に何て応えようか考えました。
未だに現実味のない状況です。だって、雲上人である王子様がわたしに――というのは、冗談にしか思えないのですから。
「もしも、君がよければ、なのだが」
と、サウル殿下はぎこちなく言葉を続けました。「君は魔術師の弟子という話だけれども、我が国に仕える気はないだろうか。魔術師としてでなくてもいい。我が城内で働くとしたら、今より裕福になれるだけの金額を払わせるつもりだ」
「……お城で働く、ということですか」
わたしが困惑して訊き直すと、彼は真剣な表情で頷きます。
「勝手な想像をして申し訳ないのだが、魔術師の仕事というのは危険が伴うのではないだろうか? それならば、安全な場所で働く方がずっといいと思う」
「いいえ」
わたしは思わず強い口調で否定します。「危険なことなど何もございません」
「そうなのか?」
「はい」
「……そうだとしても」
サウル殿下は一瞬の逡巡の後、囁くように続けました。「僕は、君を守れたらと思う」
まずいまずいまずい。
背中に厭な汗をかき始めていました。
あり得ないです、こんなの、絶対に間違ってます。これは悪い夢なんだと思います。
何とか断らないと!
じゃあ、何て言って断ればいいんでしょうか。
相手は王子様で、お気を悪くさせないように上手く断るにはどうしたら?
サウル殿下が『それなら仕方ない』と諦めてくださる理由って何がありますか?
わたしは辺りを見回すと、遠くでこちらを見つめているコーデリア様の視線とぶつかりました。彼女は面白がるような気配を放ちつつ、こちらを窺っています。
そうか、わたしが好きなのはコーデリア様です! 女性しか好きになれません!
そう嘘をついたらいい……。
と、そこまで考えて。
サウル殿下に視線を戻しました。
真剣な表情で、そして少しだけ青ざめた顔色を見せている彼の姿。
――ダメだ。
嘘は……きっと、よくない。
わたしは急に自分が厭になって、思わず俯きました。
サウル殿下は真面目に、そして真剣におっしゃってくださっているのだから、それをいい加減な言葉で拒否するのは失礼なことなのでしょう。
それなら。
それならわたしは、何て応えるべきですか?
「あの」
わたしはやがて、顔を上げてサウル殿下を見つめ返しました。
サウル殿下は無言のまま、わたしの次の言葉を待っています。
だから、彼にだけ届くくらいの小さな声で、何とか言葉を続けました。
「わたしは好きな人がいます」
「好きな?」
サウル殿下は僅かに眉を顰めます。
「はい」
「それは……兄者ではない?」
「はい」
「では、それは」
――それは。
「わたしのご主人様である、アルヴィ様のことが好きなんです」
そう言葉にしてしまうと、急に胸が苦しくなりました。
隠しておきたい思いです。
絶対に叶うはずもない思いです。
だからきっとわたしは自己暗示でそれを誤魔化して、でも結局誤魔化しきれなくて、一人で色々悩んだりしたのです。
「アルヴィ……。あの魔術師だな」
サウル殿下は静かにそう言いながら、遠くにいるであろうアルヴィ様の方へ視線を向けました。でももちろん、わたしはその視線を追うことはできません。
「あの、でもこれは……その、身分違いだと解っています」
何だか急に目元が熱く感じました。
まずい、ダメです、泣いたらダメ。
「身分違い? 彼と? 彼はただの魔術師なんだろう?」
サウル殿下の声は意外そうに響きました。
「ただのじゃありません」
わたしは俯いたまま続けます。「アルヴィ様はフェルディナンドでも有名な魔術師様です。わたしなどが近づくのも恐れ多いほどの方なんです」
「それでも、弟子にはなれた」
「はい、奇跡的に」
わたしは思わず口元に笑みを浮かべて顔を上げます。「本当に、運がよかったんだと思います。アルヴィ様はただの気まぐれでわたしをおそばに置いてくださったのだと思っていますが、それでも」
「……それでも?」
「一緒にいられるだけで幸せなんです」
そうなんです。
多くを求めるなんて、思い上がってはいけない。
一緒にいられるだけでも奇跡。
ずっと憧れていた方をすぐそばで見られるだけで、充分じゃありませんか。
どうせ、叶わない思いなのなら、それを受け入れなくてはいけないんです。
「本当に、それで幸せか?」
サウル殿下の声は、少しだけ痛まし気な響きが含まれていました。
でも、わたしは正直に続けました。
「少し、苦しいです。でも、アルヴィ様のそばを離れるよりもずっと、一緒にいる方が幸せです」
「……そうか」
やがて、サウル殿下は苦笑して目を伏せました。少しだけ彼は言いよどんでいましたが、すぐにわたしを見て微笑みかけます。
「君が幸せなら、それでいいと思う。本当は、僕が君を守ってあげられたら、と思ったけど」
「それこそ、身分が違いすぎて恐れ多いです」
わたしは慌てて首を横に振りつつ続けました。「わたしには学もありませんし、本当に普通の……村娘でしかありません。とてもお城でお仕えするほどの能力もありません。どうかお許しください」
「いや、気にしないでくれ」
サウル殿下はそこでやっと明るく笑い、躊躇いつつもわたしの肩を軽く、そして優しく叩きました。「いつも話そうとしても逃げられていたから、こうして真剣に話をしてくれて嬉しい。もうこれ以上は言わないが、ただ一つだけ覚えておいて欲しい。もし困ったことがあったら、いつでも頼って欲しい。その、あの魔術師に弟子を破門にされたりして行き場がなくなったりとか」
――不吉なことをおっしゃる。
わたしが茫然と彼を見つめると、サウル殿下はさらにわたしの肩を叩いて笑いました。
「それはないだろうけど、万が一、だ」
「あ……りがとうございます」
全くありがたくはないですが、とりあえずお礼を言っておきます。
その複雑な想いが伝わったのか、さらに彼は面白そうに笑いました。もう、その頃には最初に感じていたぎこちなさや緊張感は全くなくなっていて、本当に親しみやすい雰囲気だけが伝わってきます。
「こちらこそありがとう」
サウル殿下は続けてそう言って、軽く頭を下げました。
わたしも慌てて頭を下げ返し、彼がわたしのそばから離れようと歩き出したその背中を見送ります。
しかしふと、彼は何か思い出したようにわたしを振り返って問いかけます。
「そういえば、兄者は君の体つきとか胸の大きさがどうとか言っていたけれど」
ああああああ。
わたしはぎょっとして彼を見つめます。
「まさか、無理やり兄者によからぬことをされたわけではないだろうね?」
いやいやいやいや。
わたしは少しだけ硬直し、思考が停止するということを経験してから。
「そ、それについてはエルネスト殿下にお聞きください」
その場に座り込んで頭を抱え込みたい衝動と戦いつつ、何とかそう言葉を吐き出しました。すると、サウル殿下は酷く真剣に言葉を続けるのです。
「……解った。問い詰めてみる」
――よし。
わたしは背中に冷や汗をかくのを感じながら思いました。
もう、これ以上面倒なことになる前に逃げよう。
「ミア、そろそろ帰ろう」
わたしがアルヴィ様のそばに駆け寄ると、気配に気づいてアルヴィ様がわたしにそう言いました。
「帰れるんですか?」
「ああ」
アルヴィ様はわたしを見下ろし、少しだけ意味ありげに微笑みます。「報酬は手に入れたし、君の願いも叶えてあげられる」
「願い……」
「鍋。食器」
「あ」
わたしはそこで思わず手を叩いてしまいました。
そして、アルヴィ様のそばに立っていたコーデリア様の腕を掴み、ぶんぶん振り回そうとしてあっさり振りほどかれてしまいます。でも、そんなのは気にしません。
「聞きました? 鍋ですよ、鍋! 新しい鍋!」
「単純な女じゃの」
コーデリア様の声は呆れ果てているといった響きが含まれています。でも、そんなのはやっぱり気にしません。
「だって、嬉しいですから!」
「喜んでくれて、何よりだよ」
アルヴィ様は苦笑交じりにそう言った後、わたしをじっと見つめました。
そして、何だか唐突に頭を乱暴に撫でられました。
あああああ、どうしよう、嬉しい!
ルークになった気分です。
アルヴィ様に撫でられて、喉をごろごろ鳴らしているルークの気分。
「さすが猫コマシのゴッドハンド」
アルヴィ様の肩の上、定位置でルークが低く笑っているのも聞こえました。
「安上がりねぇ」
そこに、近寄ってきたカサンドラも声をかけてきました。「鍋程度で喜べる子で、助かるわよね?」
「そうだね」
アルヴィ様はカサンドラに目をやって、微笑みを崩さず続けました。「君と違って、ミアは純粋だからね」
「あらやだ」
カサンドラは不満を露に鼻を鳴らします。「アタシだってある意味純粋よ」
「欲望に正直だからかい?」
「そうとも言うわね」
「へえ」
「だからね、アタシのお願いも聞いて?」
カサンドラは僅かに小首を傾げ、両手をわざとらしく胸の前で組んで『お願いのポーズ』をしました。
「君のお願い?」
アルヴィ様の微笑が瞬時に凍り付いて。「断る」
「ちょっとぉ。何よ、ちょっとくらい聞いてくれたっていいでしょ?」
「却下だ」
何とも平和な光景だなあ、と思います。
アルヴィ様はカサンドラの言葉を全て拒否しつつ、帰る準備を始めました。
エルネスト殿下やサウル殿下たちも、それぞれ帰途につく準備を終わらせようとしています。先ほどの緊迫感もどこかに消え、まだサウル殿下やエリク様にはぎこちない雰囲気は残っていましたが、エルネスト殿下の明るい態度が彼らの表情を穏やかにさせているのも解ります。
――多分、大丈夫。
エルネスト殿下は大らかな方なんでしょう。
白銀の世界の問題に巻き込まれ、影響を受けたサウル殿下やエリク様に剣を向けられたというのに、それを許す心を持っていらっしゃる。
だから、きっと彼らは大丈夫。
そんな気がします。
そして少しだけ、エルネスト殿下の穏やかな微笑みはテレジア様にも向けられていて。
それがあまりにも――何というか、とても親しみやすい笑顔に感じました。テレジア様もすごく嬉しそうにエルネスト殿下を見つめ返し、何事か話をしていらっしゃるようです。
雨降って地固まると言いますものね。
わたしはそんなことを考えつつ、アルヴィ様のそばに立っていました。
そして、帰途につくことになりました。




