第88話 悪さをしたのか?
「一体、どうした」
そこに、こちらの異変に気付いたのか側近を引き連れたバシリス陛下が声をかけてきました。その右手には、相変わらず小さな宝玉がありましたが、それは白く輝いてはいるものの、先ほどまでの光の明滅はありませんでした。
「父上」
エルネスト殿下が陛下に微笑みかけ、辺りの皆全てに聞こえるように明るく言葉を続けました。「まさか、このままクラーキンの方々を帰らせるなんてことは言わないでしょうね? 一仕事終えて腹も減ったことだし、城に戻って豪勢に食事といこうじゃないですか」
「――そうだな」
一瞬の沈黙の後、バシリス陛下はその言葉に頷きました。
そして、エルネスト殿下の耳元に顔を近寄せ、小声で囁きました。
「終わったか」
「おう」
にやり、と笑ったエルネスト殿下は、バシリス殿下の腕をぽんぽんと叩きながら意味ありげに言いました。「どうなることかと思った」
「それはこっちの台詞だぞ、息子よ」
そして陛下はそのままアルヴィ様の方へと歩いていきます。
陛下の周りにいる側近の人たちは、それぞれ安堵したような表情で陛下とエルネスト殿下を見つめていました。
クラーキン王国の国王陛下もまた、こちらの様子に気づいたようで怪訝そうな表情をしながら歩み寄ってきました。
「どうしたのだ」
クラーキン国王陛下は、眉根を寄せてサウル殿下を見つめています。
でも、サウル殿下は苦痛に満ちた表情で黙り込んだままです。そして、エリク様の表情も彼と似たようなものでした。
「食事を準備させます」
エルネスト殿下の快活な声が辺りに響き、近くにいた側近たちに来客をもてなすための準備をするよう指示を始めると、その場に慌ただしさが生まれました。
どうやらこのままメリーライネン王国へと戻ることになりそうだと気づいたのか、アルヴィ様が馬車へと向かおうとするバシリス陛下の後ろを追いました。
礼儀正しいアルヴィ様の声が微かに聞こえます。
「恐れながら、陛下」
「おお、魔術師よ」
バシリス陛下が足をとめ、笑顔でアルヴィ様を振り返ります。「そなたには感謝するぞ。神事も何もかも無事に終わったのでな、最初の約束通り、謝礼を出そう。食事もしていくとよい」
「ありがたいお申し出ですが、もう自宅をずっと留守にしておりますので、ここでお暇させていただきたく存じます」
「帰ると申すか」
「はい」
バシリス陛下はそこで眉間に皺を寄せ、不満げに鼻を鳴らしましたが、アルヴィ様の静かな笑顔には何も変化が現れませんでした。
やがて陛下はため息交じりに頷きます。
「仕方ない。謝礼はすぐに準備させる」
「ありがとうございます」
そんな会話を、わたしはその場にしゃがみこんだままで聞いていました。
足元にすり寄ってきたルークを抱き上げて撫でていると、頭上からカサンドラの呆れたような声が響きます。
「いい加減、立ち上がりなさいよ」
「んー……」
地面が雨で濡れてさえいなければ正座していたのに――などと、どうでもいいことを考えつつ顔を上げました。
カサンドラだけではなく、コーデリア様もそこにいて、それぞれ微妙な表情でわたしを見下ろしています。
「慰めてくれたっていいじゃないですか……」
わたしが不満を口にしつつコーデリア様をじっと見つめると、彼女は首を傾げて皮肉げに笑います。そして、その横でカサンドラがからかうように笑いました。
「慰めるって、どこを?」
「どこを……って」
わたしはのろのろと立ち上がりながら、腕の中で喉を鳴らしているルークをさらに強く抱きしめました。「誰を、の間違いじゃないんですか。言葉の選び方がおかしいです」
「あらぁ。間違ってはいないわよ? そりゃ、胸がないのは残念だけど、アタシは気にしないでヤれると思うし」
「最・低!」
わたしは鼻の上に皺を寄せつつ彼女を睨みつけます。「女の子だったら誰でもいいんですか? ケダモノ! 女の敵!」
「ケダモノ……って、どこでそんな言葉を覚えてくんのよ」
「っていうか、リンジーはどうしたんですか」
「言わないでよ。散々フラれてへこんでるんだから」
「そーですか」
わたしは低く唸りつつ、抱きしめていたルークを乱暴に彼女に押し付けました。「じゃあ、抱くのだったらわたしではなく、猫にしておいてください」
「つまんないの」
カサンドラは受け取ったルークを乱暴に撫でます。しかし、思い切りルークが暴れてカサンドラの腕の中から逃げ出そうとしているのが見えました。明らかにこちらに飛んでこようとしている気配。
「娘ぇ! 俺様はお前の手のほうが好きだにゃ! ほら抱け! 今すぐ抱け!」
「うるさいです」
「娘!」
「ミアですっ」
わたしは噛みつくような口調でそう言いながらルークの方へと振り返りました。
でも、思わず驚いて動きをとめてしまいます。
意外なほど近くに、エルネスト殿下がいらっしゃったからです。
さっきまで、サウル殿下やエリク様と会話をされていたはずなのに、と彼の背後へと視線を投げます。
すると、随分と離れた場所で、サウル殿下とエリク様、テレジア様が会話をしているのが見えました。誰もが複雑そうな表情で、でもその口元には安堵が見えたような気がしました。
「すまんな。大丈夫か」
エルネスト殿下は苦笑しつつ、わたしの前に立ってそう言いました。
ああああ、この場合、膝をついたほうがよろしいんでしょうか。どうしたらいいんでしょうか。
おろおろと辺りを見回した後に思い切り頭を下げると、エルネスト殿下が「面倒だ、そういうのはいい」とわたしの肩を叩きました。
「しかし……」
恐る恐る顔を上げると、彼は無邪気なまでに明るい笑顔で続けます。
「なかなか面白い経験だった。誰かに守られる立場になるというのは奇妙だが、もう二度と経験できるとは思えん」
「ええ……と」
確かに、そうかもしれません。
わたしだって、もう二度と経験することはないと思います。
王子様の肉体の中に入って、彼を演じるようなことになるなんて。剣を振り回すことだって、もう二度とないのかも。
「どうだ、お前は俺の身体を使って悪さをしたのか?」
ふと、エルネスト殿下がわたしの耳元でからかうように囁きます。
その意味深な笑みは、『共犯者の笑み』ってやつなのかもしれません。同じ経験をしたからこそ出てくる微笑。
「悪さなんてとんでもございません」
そう応えながら、わたしの頭の中に質問がぐるぐると駆け巡ります。
悪さをしたのか、なんて訊いてくるということは。
エルネスト殿下は、わたしの身体を使って何かよくないことを――。
「俺もしていないから安心しろ」
まるで、心を読まれているかのようです。
きっと、不安げな様子をしていたのか、彼はまるで子供でも撫でるかのようにわたしの頭をぐしゃぐしゃと掻き回しました。
その後で、さらに彼は声を潜めて言葉を続けました。
「兄弟……サウルのヤツは、お前のことが好きらしいぞ」
「うう」
でもそれは違うと思います。
サウル殿下が好きになったのは、わたしではなくて。
「中身は違う状態でしたので、その」
その辺りは、想像すると色々と怖い状況だとは思います。ある意味、男同士じゃないですか、それ。
同性同士で色々やるとかは、カサンドラだけでもうお腹いっぱいです。
勘弁して欲しいです。早く平和な生活に戻りたいです。
唸り続けるわたしに何を思ったのか、エルネスト殿下は心配そうに首を傾げて続けました。
「俺のほうは上手く誤魔化すつもりではあるが、お前に接触するようだったら相手してやってくれ」
「接触?」
「ああ、噂をすれば、だ」
と、エルネスト殿下はわたしの背後のほうへ目をやり、薄く微笑みました。
そしてのろのろと振り向くと、そこにはサウル殿下が所在無げに立ち尽くしていました。
彼はエルネスト殿下を気まずそうに見つめた後、わたしに視線を向けます。
酷く緊張した様子で。
やめてください。
本当、もう逃げたい。
わたしは救いを求めようと辺りを見回しましたが、アルヴィ様はバシリス陛下のそばでたくさんの側近の方々に囲まれていましたし、カサンドラもこちらに興味を失ったのかルークを乱暴に撫で回しながらコーデリア様とお話ししていました。
テレジア様もエリク様と何か難しい表情で会話をしていましたし、誰一人としてこちらに注意を払っている人はいませんでした。
しかも、エルネスト殿下もわたしのそばから離れ、バシリス陛下のもとへ向かって歩いていってしまいます。
――あああああ、もう!
わたしが諦めて深呼吸し、サウル殿下に向き直ると、彼は小さく尋ねてきました。
「さっき兄者から聞いたのだが、君は兄者の婚約者ではないそうだね?」




