第87話 俺に幼女趣味はない
雷が落ちたのか、近くにある木々が悲鳴を上げるように震えます。
遠くでも驚きの声、悲鳴らしき声が上がっています。
「陛下、こちらへ!」
そのような緊迫感のある叫びと共に、馬車の中に両国の陛下も含め、側近の人々が乗り込む気配が感じられました。
そう、気配しか解りません。
そちらの方向に目をやることができなかったからです。
身体を叩きつける、冷たい大雨の中で。
エリク様の振り下ろした剣を、わたしが白く輝く剣で受け止め――た、と思ったのは幻のようでした。
わたしの剣は、彼の剣を受け止めることはできませんでした。相手の剣をすり抜け、そのまま彼の左肩へと。
そして、エリク様の剣もまた、わたしの――エルネスト殿下の左肩へと下ろされて。
「下がれ、下郎」
その抜身の剣を、いつの間にかわたしの前に現れたコーデリア様が素手で掴んで受け止めていました。
コーデリア様は不機嫌そうな口調でそう言った後、悠然とした仕草でわたしを振り返り、小さく笑います。
「使い魔は主を守る。それが契約じゃ」
――主を。
何て、頼りになる方だろう、と頭のどこかで思いました。
でも、それ以前に。
わたしの剣がエリク様の肩から胸へと叩きつけられた感触の生々しさで、言葉を失っていました。
エリク様が驚いたようにわたしを見つめ、自分の胸元を見下ろします。
血の一滴も見せず、ただ光の剣が自分の胸へ突き立てられた光景。
そして、わたしたちの目の前で、その光の剣がさらに光り輝き、彼の体内すらも発光させるような――。
浄化。
清浄の輝き。
「兄者」
その声に一瞬だけ遅れて、サウル殿下も剣をこちらに突き立てようと動きます。
どこか虚ろな目で、わたしだけを見つめたままで。
でも、その動きは奇妙なまでに鈍く、彼の表情も苦し気に歪んでいます。だから、簡単にアルヴィ様も彼の手首を掴んでとめることができたのでしょう。
サウル殿下は奇妙なものを見るかのようにアルヴィ様を見つめ、それからゆっくりと自分の手を見つめます。
「ミア」
アルヴィ様が低く、そして静かに口を開きます。「頼むよ」
わたしはエリク様から光の剣を引き抜き、彼がその場に膝をついて倒れこむのを見下ろした後で、サウル殿下の方へ向き直りました。
アルヴィ様に支えられるようにして立っている彼に、わたしはもう一度右手に握った剣を持ち上げて――。
剣の切っ先は、あまりにも簡単に彼の胸へと突き刺さりました。
そしてまた、凄まじい光が弾けます。
頭上でも雷光が煌めき、雨粒が地面を叩く音も騒々しいほど。
しかしその雨は、あっという間に弱まっていきました。通り雨だと言わんばかりに、空がゆっくりと明るくなっていきます。
その変化に皆が見入り、馬車の中にいた陛下たちも顔を覗かせて天を見あげています。
「もう少し、早く終われば楽だったのだけどね」
アルヴィ様が苦笑交じりにそう呟いてから、ふとわたしに目をやりました。そして、わたしの右手首をそっと掴みます。
気づけば、わたしの手のひらの中に白い剣はありませんでした。
サウル殿下も、そしてエリク様も驚いたように自分の胸と周りを交互に見回しています。
テレジア様は、青ざめた顔色を見せたままその場に立ち尽くしています。
我々の足元には、エリク様の剣とサウル殿下の剣が転がっていました。
そしてわたしはと言えば。
雨に濡れたアルヴィ様の姿があまりにも神々しく感じて、硬直しながら彼の顔を見つめるしかありませんでした。
だって、本当にアルヴィ様は綺麗な方で、その方の髪の毛を雨が伝い落ちると、言葉では説明できないような色気を感じるわけで。
――あああああ、ダメだ。
アルヴィ様を『好き』でいるということは、こういうささやかなことで心が乱されるってこと、忘れてはいけないんです。
平静が装えない。
心臓が暴れる。
でも、それは隠さないと。
挙動不審になりそうなわたしの耳元で、アルヴィ様は何か呪文の詠唱を始めました。
「あの」
と、わたしが口を開くのをその手で遮りつつ、彼は呪文の詠唱を終わらせ、彼の魔力がわたしと……ミアの方へと弾けるのを感じました。
急激な魔力の流れに驚き、思わず目を閉じて、それから恐る恐る目を開きます。
すると、目の前にアルヴィ様のものではない大きな背中があることに気づきます。
わたしを庇うようにして立っているその姿は、エウゲン様で。
エウゲン様の向こう側には、エルネスト殿下がアルヴィ様と一緒に立っていて。
「戻れた、戻れた、戻れましたよわたし!」
思わず、近くに歩み寄ってきたコーデリア様に抱き着きつつ、ぴょんぴょんと跳ねつつ喜びを露にすると、思い切りコーデリア様に身体を引きはがされてしまいました。
「煩い」
という、冷たい言葉もおまけについてきます。
「だって、コーデリア様」
久しぶりの自分の肉体なんです、嬉しいって言葉だけじゃ言い表せません。
でも、コーデリア様の声はただ静かでした。
「向こうはこれから修羅場じゃからの。巻き込まれないように離れるとよい」
「修羅場……」
そう言われて、わたしはそれもそうか、と頷いて見せました。
エルネスト殿下に視線を戻すと、彼は疲れたように首をぐるぐると回し、自分の手を握ったり開いたりして何か確認しているようでした。
その仕草は、ミア――わたしの肉体に入っていた時のような女性らしさの欠片などどこにもなく、男性らしい快活な動きです。
「助かった、魔術師よ」
そう言った殿下の楽し気な声もこちらに聞こえてきます。
少し乱暴にアルヴィ様の肩を叩き、それから目の前にいるエリク様とサウル殿下を見て、苦笑交じりに言いました。
「何か言いたいことはあるか、兄弟」
「ちょっとぉ、どうなってんの?」
そんなわたしたちの方へ、新しい声がかけられます。雨でぬかるんだ地面を慎重に歩いてきたのは、カサンドラです。遠くにある馬車の中にはリンジーが残されていて、心配そうに窓からこちらを見つめているのも解りました。
「何よ、終わったの?」
カサンドラはわたしの顔を覗き込むようにしてにやりと笑います。「よかったじゃない、もう帰れるわね」
「はい」
そう頷いてから、コーデリア様の服を掴み、アルヴィ様たちの方へ視線を戻します。
「一体……何が」
サウル殿下が何があったのか解らない、と首を横に振ってそう言うと、その横に立っていたエリク様がその場に膝をついて頭を下げました。
「申し訳ございません!」
悲痛な響きのある声。先ほどまで確かにあったはずの悪意や殺意といったものは全て消え去り、覚悟に満ちた真剣な顔がゆっくりと持ち上げられました。
「自分の罪は許されるものではございません。この首を差し出しますので、どうか」
「おい、兄弟。これをやめさせろ」
エルネスト殿下はサウル殿下の前に歩み寄り、明るく続けます。「皆、雨に濡れている。早いところ、着替えようじゃないか」
「兄者……」
「どうか、テレジア様に……その、お話だけでもしていただけないでしょうか」
茫然としたままのサウル殿下は、何を言われているのか解らないようで、ぼんやりとエルネスト殿下を見つめるだけで、エリク様は必死に頭を下げつつ言葉を続けています。
「テレジア様は、その、殿下のことが」
「おい、兄弟」
「僕は……兄者を殺そうと」
サウル殿下はそう呟いた直後、何をしたのか唐突に理解したようでした。
その直後、サウル殿下もエリク様の隣に膝をつき、頭を深く下げました。慌てたのはエルネスト殿下です。
「おい、やめろ」
そう言いながら、エルネスト殿下は辺りを見回しました。そこへ、エウゲン様が近づき、何事か耳打ちされました。
するとエルネスト様は頷き、エウゲン様の肩を叩いて明るく笑います。
「心配かけたな。もう大丈夫だ」
なんてことを言いながら。
「兄者」
「どうか、殿下」
「え、何が起きたの? エルネスト様、何?」
三者三様、混乱した声が上がる中、エルネスト殿下は肩を竦めて見せました。
「謝罪も首もいらん。そんなもの、何の役にも立たんからな」
「しかし、兄者」
「立てよ。俺たちの関係に上下はない」
「だが、僕は」
「まあ、なかなか面白かったぞ。女を巡ってのトラブルなど、兄弟神の神話みたいでな」
「女……」
エルネスト殿下が手を差し出すと、サウル殿下がそれを握り立ち上がります。そして、次にエルネスト殿下はエリク様にも手を伸ばしました。
エリク様はそれを必死に頭を下げることで拒否しましたが、どうやら無理やり立ち上がらせられたようです。エルネスト殿下の腕力は凄いと思います。
「女……というのは」
サウル殿下が言葉を探しているようで、悩みながら口を開きました。でも、すぐに我に返ったテレジア様がその言葉の続きを奪いました。
「彼女のこと、好きなの? だから婚約者にしたの?」
「やめろ、小さいの」
「だからその呼び方は」
必死に続けたテレジア様の表情は、限りなく真剣でした。だから、エルネスト殿下も困ったように言葉を選んだようでした。
「その辺は、ちょっと特別な理由があってな。国の一大事に関わることだから、下手に口には出せんのだ」
「国の?」
「でもな、小さい……いや、テレジア」
「はい」
「俺に幼女趣味はない」
「え?」
「こう言っては何だが……俺はな、女性というのはそれなりに」
と、彼は僅かに視線を宙に彷徨わせながら続けました。「緩急ある体つきの方が好きだ」
「何それ」
テレジア様が困惑するように言いました。
「まあ、胸と呼べるものはなさそうだものね」
そう、突然カサンドラがわたしの胸を撫でて。それがあまりにも、撫でるというよりも性的な動きを示すようなもので。
悲鳴を上げつつ、わたしはその場にしゃがみこんで両手で自分の胸を覆いました。
あああああ、そうか!
そうなんですか!
わたしがお風呂に入った時に、エルネスト殿下の裸を否応もなく見てしまったのと同様に。
エルネスト殿下もまた、つまり!
「み、見られた」
わたしは掠れた声で呟き、しゃがみこんだままコーデリア様を見あげました。呆れたように、疲れたようにわたしを見下ろす彼女の顔。
「見られたってことですよね、それって!」
胸、胸とか!
それ以外も、つまり、その!
見られたくないところも、全部、全部!
「見られてもカッティングボードだろ、気にすんにゃし」
そう慰めにもならない言葉を投げつけてきたのは、いつの間にかアルヴィ様の肩の上から飛び降りてきたルークでした。




