第86話 その剣じゃない
「エルネスト様」
彼女の鋭い瞳は、まるで炎のような煌めきを放っていました。
一直線にわたしの前にやってきて、真剣な表情でこちらを見上げた彼女の腕を、サウル殿下が掴んで引き寄せようとしました。
「放して、お兄様」
そのサウル殿下の手を乱暴に振りほどき、彼女は自分の兄を睨みつけて――そして、一瞬だけ眉根を寄せました。
それは多分、サウル殿下の顔色が酷く青ざめていたからだと思います。
でも彼女はすぐにわたしに視線を戻し、言葉を続けました。
「お話ししてくださいますよね? 神事は終わりましたし、時間はたくさんございます。エリクに大体の話は聞いておりますが、ぜひともエルネスト様の口から説明を」
そう言った彼女の背後には、エリク様が付き従っています。
刺すような視線をわたしに向けて、表向きだけは礼儀正しく。
「やめろ、テレジア」
サウル殿下が低い声で彼女の言葉を遮ろうとします。
でも、それは成功しませんでした。
「お兄様は黙ってて」
そこで、テレジア様がきつく唇を噛みます。苦悩にも似た感情が彼女の目に浮かんだようでしたが、それはすぐに怒りのような色に変わりました。
「お兄様も、彼女のことが好きだって本当? 一体、何があったの?」
不穏な空気を感じて、エウゲン様がわたしの隣に立ちました。必然的に、彼に寄りようようにして立っていたミアもその背後に立ちます。
そして、テレジア様や他の皆の視線がミアへと向かい、彼女は怯えたように身体を小さくしました。その顔色が瞬時にして白くなります。
「私は、その」
彼女は何か言いかけましたが、すぐに周りからの視線を受けて俯きました。
「申し訳ございませんが、サウル殿下」
そう言ったのはアルヴィ様です。
いつの間にかわたしを庇うように立ち、その背中をこちらに見せています。
それを見ると、何だかわたしの心にも安堵が生まれます。びりびりと空気を震わせる緊張感も、気にならなくなりました。
「もしお話されるようでしたら、どうぞ馬車の中へ。空模様も怪しいですので」
そう彼が言いつつ、離れた場所にある馬車の方へ視線を向けました。
今にも雨が降り出しそうな空。轟く雷鳴。誰もが慌てて帰る準備をしているため、こちらの様子に気づく気配もありません。
「あなたは誰かしら」
「僕は」
「名前など聞く価値はある? わたしが望んでいるのはあなたとの会話ではない」
「王女……殿下」
アルヴィ様は僅かにその声に皮肉じみた響きを含ませました。「そして、サウル殿下。エルネスト殿下もお聞きください」
アルヴィ様はそこでわたしの方をちらりと見やり、意味深な笑みを見せます。
まるで、話を合わせろと言わんばかりの表情。
「エウゲン様の後ろにいる彼女は僕の大切な弟子ですので、たとえ誰に命令されたとしても手放すつもりはありません」
そう言いながら、彼は踵を返してミアのすぐ横に立ちます。
怯えて顔も上げられない彼女の様子は、誰が見ても痛ましい姿だと感じるでしょう。
「魔術師の弟子……」
そう呟いたのは、エリク様です。
疑念に満ちた瞳でアルヴィ様を見つめて、首を横に振りました。
「失礼を承知で申し上げます。色々な噂が出回っているのはご存知でしょうか」
「噂?」
アルヴィ様が冷たい声でそう返すと、エリク様も冷たい声で応えます。
「エルネスト殿下は、その幼い少女も含め、大勢の女性を」
「そこまでにしていただきましょう」
アルヴィ様がすぐに彼の言葉を遮りました。「エルネスト殿下を貶めるような噂を立てたのは一体、誰なのでしょうね」
そこで、頬に冷たい感触がぽつり、と当たりました。
見上げれば、空の色は暗さを増し、とうとう本物の雨が降り出したのでした。
「……誰が噂を立てたか?」
エリク様の声はさらに低く、我々にしか聞こえない程度の音量で続けられます。「逆に申し上げますが、噂を立てられるようなことをしたのは一体どなたでいらっしゃいますか」
「騎士殿、言葉を選びなさい」
さすがにエウゲン様も黙って聞いていることができなくなったのでしょう、怒りを露わにした口調でそう言いました。それでも、エリク様の言葉は止まりませんでした。
「エルネスト殿下のことを信頼し、敬愛していると言っても過言ではないサウル殿下を傷つけるようなことをされたのは一体どなたでいらっしゃいますか。サウル殿下は話し合いをされようとしているのに、それから逃げ回っていたのは」
「騎士殿、言葉が過ぎる」
「失礼は重々承知しております」
「エルネスト様、何か……あったのですか。何が。大勢の女性と……いうのは」
テレジア様の掠れた声。
――これは……わたしも何か、言わないといけないのでしょうか。
わたしはアルヴィ様に目をやり、何か言いたげな瞳と視線が合わせて。
アルヴィ様が小さく頷くのを確認しました。
「俺のそばにいたのは、魔術師と使い魔。それが女性であるから問題か」
できるだけ平静を装い、余裕の笑みに見えるであろう形を口元に作りそう言うと、エリク様の憎々し気な双眸がわたしに向けられました。
「しかし、女性にうつつを抜かしていたのは事実でいらっしゃる」
「騎士殿」
エウゲン様がわたしの前に立ち、苛立ち交じりの声を張り上げようとした時。
さらに雷鳴が轟くのです。
黒い波動のようなものが、辺りに落ちてきた、と思いました。
だんだん落ちてくる粒を増やしてくる雨と同時に、我々の心を黒く染めるものが増えていく。
「噂では、エルネスト殿下はとても誠実な男性だと」
エリク様の歯がぎりぎりと立てられるのが聞こえます。「しかし、それは……サウル殿下とテレジア様に誠実なわけではなく」
「やめておきなさい」
ふと、アルヴィ様が彼のすぐ前に立って手を伸ばしていました。
エリク様の手首を押さえ、彼の耳元で続けます。静かに、この場にいる人間にだけ聞こえる声で。馬車のそばにいる両国の国王陛下や、側近たちには気づかれないように、密やかに。
「剣を抜いたら、後には戻れません」
――そう。
アルヴィ様の手は、エリク様の手首を掴んでいます。
そしてエリク様の右手は、腰に下げた剣の柄を握りしめていたのです。
「例え戻れなくても」
エリク様がそう呟きました。
「兄者は……誠実ではない」
そう、サウル殿下が奇妙な響きのある声で呟くのが同時でした。
白銀の世界の浄化が追い付いていない。
その影響が。
きっと、彼らにも。
エリク様の手に、さらに強い力がこめられるのが見えました。
アルヴィ様の横顔が、緊張に引き締まるのも見えました。
魔術師であるアルヴィ様と、身体を鍛えているエリク様の腕力の差は当然で。
アルヴィ様の手が振り払われて、雷鳴の光がエリク様の抜かれた剣が反射するのが見えました。
「テレジア様を傷つけたその罪は、万死に値する」
エリク様の低い声。
「兄者は、彼女のことが好きではない?」
虚ろな声。
それを聞いて、心臓が厭な音を立てます。
息苦しい。
緊張感が胸を震わせる。
わたしの視線がその声の主に向きました。
雨に打たれ、青白いを通り越している肌の色が際立つサウル殿下の手も、神事用に腰に下げていた剣に伸びていました。
「婚約者だと、最初は言った。何が事実で何がそうでないのか……」
今にも倒れそうになりつつ、ぐらつく頭を必死に持ち上げようとしている彼。
伝い落ちる雨の色も、それは透明ではなく薄汚れている、と感じました。
そして、こちらを見つめてきたその瞳には黒い感情が。
――殺意が。
ダメだ。
どうしよう。
サウル殿下の腰から、剣が抜かれる音。
咄嗟に、わたしも腰の剣に手を伸ばそうとしながら、アルヴィ様を見ました。
「ミア」
アルヴィ様はこちらを見ないまま言いました。「違う。その剣じゃない」
その剣じゃない。
その言葉に、わたしは手をとめました。
そして唐突に頭の中に蘇る言葉。
――扱いに気を付けよ。
それは白銀の世界の王様の声。
――それは悪しきものを浄化する。
それを意識した瞬間、何もなかったはずのわたしの右手の中に、硬い感触が生まれました。
ぞわぞわと背筋を震わせる感覚と共に、冷たい剣の柄がある。
夢で見た時と同じように。
夢の中で戦った時と同じように。
何もかもが一瞬でした。
エリク様の剣が一閃するのと、サウル殿下の剣が抜かれるのと、エウゲン様が素早く地面を蹴るのと、アルヴィ様が何か呪文の詠唱をするのと。
テレジア様の小さな悲鳴。
「おやめください!」
ミアの悲鳴じみた声。
わたしが、魔力によって白く輝く剣を握り直した瞬間。
辺りにひと際激しい雷鳴が轟きました。




