第85話 呼応する空
一目で解りました。
彼女がサウル殿下の妹君だということ。
青みがかった金髪も、灰色の瞳も、サウル殿下とまったく同じ色です。
痩せていて、身長はわたしより遥かに高い。一般的な女性の身長よりは、少し高いように思えます。
整った顔立ちは、唇を引き結んでいることから余計に人形めいて見せていましたが、一瞬だけその目元に朱が散ると妙に艶めかしく感じさせます。
年齢は十代後半なのだろうと思いますが、その大人びた表情から二十歳過ぎだと言われても納得できるような印象もありました。
彼女は呼吸を整えた後、足早にこちらに歩み寄ってきました。
その背後から、サウル殿下が引き留める声が響きましたが、それは彼女には聞こえていないようでした。
「お久しぶりです、エルネスト様」
彼女はわたしのすぐ目前で足をとめ、優雅に頭を下げてそう言いました。
わたしは素早く辺りを見回します。
困ったような表情のエウゲン様、ミア。
そして、馬車のそばにいたバシリス陛下もまた、何とも言い難い表情でこちらを見やります。
ここが気合の入れどころですよね。
だって、今回の件が上手く終われば、鍋とか食器とか買ってもらえるんです。
わたしはすぐに目の前の彼女に視線を戻し、小さく頷きました。
お名前……何でしたっけ。
そんなことを頭の中で考えつつも、必死に言葉を紡ぎだしました。
「小さいの、か」
確か、そんなことをエルネスト殿下がサウル殿下に言っていたはず。
笑顔のままそう言うと、彼女は顔を上げて不満げにわたしを軽く睨みつけました。
「その呼び方はおやめください、と前も申し上げました」
「……すまん」
わたしはそこで思わず笑ってしまい、何となく抱いていた緊張感が緩むのを感じました。
目の前にいる彼女の表情は、とても親しみを感じさせるものです。最初、こちらを真剣な表情で見つめていた時は他人を寄せ付けないような雰囲気だったのに、今は全然違います。
何だかとても……綺麗な人なのに、可愛いと感じる表情でした。
「テレジア」
そんなわたしたちの間に割りいるように、サウル殿下がこちらに歩み寄ってきました。少しだけ咎めるような目つきでサウル殿下は妹君を――テレジア様を見やり、その後でわたしに視線を向けました。
「悪い、兄者。これは連れていく」
「ああ」
「これって何よ」
テレジア様は何かサウル殿下に文句を言いたげでしたが、サウル殿下に促されるままにその場を離れ、自国の騎士様たちがいる方向へと歩いていきます。
その歩き方が、女性らしくない動きだと気づきます。
まるで、他の騎士様たちの立ち振る舞いによく似ていて。
そう気づいてしまえば、彼女の格好――動きやすそうなシャツとズボンといった姿も納得がいく気がしました。
「……ここ最近、妹の剣の腕はさらに上がった」
サウル殿下が苦々し気に続けました。「最近は、王女らしいドレスすら着ない。注意してやってくれないか」
「俺が、か」
わたしが苦笑すると、サウル殿下は真剣な眼差しをこちらに向けました。
「兄者の言う言葉なら聞くはずだ」
「それはどうかな」
わたしが首を傾げると、少しだけサウル殿下は気まずそうにわたしから視線をそらしました。でも、視線をそらした先にはエウゲン様とミアがいて。
さらに、サウル殿下が困ったように眉根を寄せます。
サウル殿下が何か言葉を探している気配がします。
でも、その時のわたしの視線はもうすでにサウル殿下から別のところに向いていました。
テレジア様と、騎士様たち。
その騎士様の中には、『あの彼』もいます。
わたしに対して敵意を抱いている、騎士様。エリク・ライアーズ様。
エリク様はテレジア様に近づき、軽く頭を下げてから何事か話をされたようでした。
すると、テレジア様の横顔が強張るのも解ります。
その後で、テレジア様の顔がこちらに向けられて。
エリク様もまた、こちらに視線を向けて。
テレジア様は、何か衝撃を受けたかのような表情をしていました。先ほどよりも少しだけ、顔色が白くなったような気がします。
そして、エリク様は明らかに憎しみのような感情をその双眸に乗せ、それから痛まし気にテレジア様のことを見つめました。
――ああ、そうか。
わたしは唐突に理解しました。
エリク様は、テレジア様のことが好きなんだ、と。
だからきっと、エルネスト殿下のことを憎んでいるんだ、と。
テレジア様がエルネスト殿下を好ましく思っているから。だからきっと……ミアという存在が疎ましいのでは?
「私は……離れていた方がよろしいですよね」
エウゲン様の隣で、ミアが身体を震わせながら小さく囁きます。
「そうですね」
アルヴィ様があっさりとそう言葉を返し、ミアを無造作にエウゲン様の背中の後ろへと押しやりました。曲がりなりにも中身はエルネスト殿下なのですから、もう少し丁寧に扱うべきでは……と思いましたが、とりあえず黙っておきます。
「婚約者というお話は本当ですか」
気づけば、いつの間にかテレジア様がわたしの目の前に立っていました。
いつの間に!
「そちらにいらっしゃる少女は……とても王族にも貴族にも見えませんが」
テレジア様は鋭い視線をエウゲン様の背後へと向けつつ、低い声で続けます。「しかし、エルネスト様がお認めになった女性なら……仕方はありません」
その気迫に押されるようにして、わたしは後ずさらないようにするのが精一杯でした。
「ああ、ええと……小さいの」
「だからその呼び方はおやめください」
「テレジア」
「はい」
「その件については、後で話そう。今は神事の前だ」
と、そこでわたしは彼女の背後へと視線を向けました。
そこには、バシリス陛下がいらっしゃいました。側近たちを引き連れて、クラーキン王国の国王陛下と思われる年配の男性と、談笑している光景。
彼らは挨拶を交わし合うと、それぞれ自国の王位継承者を呼び寄せようと声を上げました。
サウル殿下はすぐにクラーキンの国王陛下のところにいき、何か小声で話を始めます。
「準備はどうだ」
遠くからそう声をかけてきたバシリス陛下の表情は、少しだけ心配そうでした。
わたしは無言で頷いてから、傍らに立つテレジア様にもう一度微笑みかけました。でも、テレジア様は強張った表情で踵を返し、少し離れた場所で見守っていたらしいエリク様の近くへと歩いていきます。
そして、相変わらずの敵意――殺意をこちらに向けるエリク様の気配に、わたしはどうしたらいいのか解りませんでした。
「またお持ちになっていらっしゃるんですか」
わたしがバシリス陛下のところに近づくと、アルヴィ様の虚脱したような声が聞こえてきました。
どうやら、バシリス陛下は、乗ってきた馬車の中に白銀の世界を持ち込んだようです。その小さな輝きを放つ宝玉を手のひらの上に乗せ、アルヴィ様に見せています。
「見よ、魔術師よ」
小声でバシリス陛下がおっしゃいます。「光がこの世界と呼応しておる」
気づけば、バシリス陛下の周りにいた騎士様たちもそれぞれ、陛下の手のひらを覗き込んでいました。
わたしもそれに倣うように見つめると、陛下の手のひらの中で時折弾ける光と同時に、わたしたちの頭上の空も輝きます。
曇り空でしたし、それは雷が鳴っている光景としか思えない光の点滅です。
「これは危険ではないのか」
陛下が空を見上げつつそう言うと、アルヴィ様は笑顔のまま応えます。
「危険などありません」
「本当か」
「何度も申し上げますが、陛下」
ふ、とアルヴィ様の笑顔が冷えたような雰囲気をまといました。「今回の件は、放っておいても何事もなく解決する案件なのです。そのうち、この光も消えるでしょう」
「消える?」
「ええ、そしてそれが終わりの合図です」
そこで、アルヴィ様がわたしに向かって続けました。「さて、早く済ませてきてくれないか」
「あ、はい」
わたしはすぐに頷いて、心の中で続けました。
――目指せ、新しい鍋!
神事はつつがなく進行したと言えるでしょう。
教えてもらった流れ通りに、わたしとサウル殿下は神殿の前で神様への挨拶を済ませます。そして、たくさんの人々が見守る中で、決められた通りに剣舞を披露するのです。
お互いに礼儀正しく向き合い、礼をします。
そして、腰に下げた剣を鞘から抜きました。
真剣な表情のサウル殿下は、その整った顔立ちもあってとても美しいと感じました。
剣の動きも、立ち振る舞いも。
わたしは何だか、夢の中にいるような感じでした。夢の中、白銀の世界で戦った時と同じように、わたしの身体は軽く素早く動きます。
剣のぶつかり合う時の甲高い音が、少しだけ白銀の世界の住人の言語のようにすら思えました。
それは、あまりにも現実感のない時間でした。
それほど長い時間はかからなかったでしょう。
時折、頭上で雷のような光が弾ける中、わたしたちは決められた神事を終えたのです。
剣を鞘に収め、また頭を下げて。
わたしがバシリス陛下の元に戻り、サウル殿下もまたクラーキンの国王陛下の元に戻ると。
ひと際激しい光が辺りに瞬きました。
「一雨きそうな空模様だ」
わたしから少し離れた場所にいたサウル殿下が空を見上げています。
「そうだな」
わたしはそれに頷きましたが、空の輝きの理由を知っています。雷によるものではないのだ、と。
わたしが辺りを見回すと、バシリス陛下とクラーキン国王陛下がそれぞれ安堵したように微笑みつつ、何か話をされているのが見えました。
周りにいた人々は、いつでも帰れるよう準備を始めているようで、慌ただしい雰囲気が伝わってきます。
「妹と話をしてくれるんだろう?」
急に、そんな小さな声がわたしのすぐそばで聞こえました。
声の主――サウル殿下に視線を戻すと、どことなく顔色の悪い彼の姿がありました。
「大丈夫か」
体調が悪いのだろうか、とわたしが眉根を寄せると、彼は軽く頭を振って見せます。でも、頭痛でも覚えているかのように額を手で押さえ、苦し気に息を吐きました。
「何だろう、何か……変な感じだ。気分が……悪い」
「あの、大丈夫ですか」
そこに、恐る恐るといった様子で声をかけてきたのはエウゲン様の背後に隠れたままのミア――エルネスト殿下です。
何となく、辺りの空気が淀んでいるかのような感覚がわたしたちの周りにありました。
もう一度空を見上げると、空の色は先ほどよりも暗くなっています。
「殿下、お話はそのくらいにして城に戻りましょう」
そこに、アルヴィ様がそう言いながら、こちらに歩いてきます。
その表情は、少しだけ何か懸念しているかのようなもので、見ているこちらが不安になりました。
わたしはアルヴィ様の言葉に従って、自分たちが乗ってきた馬車の方へ歩き出そうとしたのですが、すぐにサウル殿下に呼び止められました。
「兄者」
わたしは一瞬だけ何て応えるか悩みました。でも、すぐに彼の方を振り向いて言います。
「雨が降る前に移動しよう」
その言葉が終わるか終わらないかといった時。
テレジア様と、エリク様もわたしたちのそばに歩み寄ってきていました。
それはどことなく、不穏な空気が流れた瞬間でもありました。




