第84話 神事の前の平和な時間
「僕に師匠がいるというのは知っているよね」
サウル殿下たちと別れてから、わたしたちは城の廊下を歩いていました。
わたしたちの目の前には、ミアとエウゲン様の背中があります。陛下は我々よりも先に廊下を歩いていってしまったため、もうその姿は見えません。
アルヴィ様とわたしが並んで歩き、お互いが聞こえる程度の囁き声で、彼は続けました。
「何だか、昔のことを思い出しそうになったよ」
「昔……お師匠様、グランヴィール様のことですか?」
「そう」
わたしはアルヴィ様の横顔を見つめ、目を細めて見せました。
何だかアルヴィ様は、困ったような表情で目の前を見つめています。
「子供の頃の僕はね、何でも拾ってくる人間だった」
「拾ってくる?」
「そう。動物とか」
そう言った瞬間、彼の肩の上にいたルークが小さく笑いながら言います。
「魔物とかもにゃ」
「魔物……」
「余計なことは言わなくていいよ」
そこで、アルヴィ様がおざなりに肩の上にいるルークを撫でます。すると、ルークは喉をごろごろ鳴らしながら目を閉じます。
「魔物、確かに拾ったよ。それは子供だったし、可愛かったし、育ててみたかったからね」
「魔物を?」
「まあ、すぐに師匠に『元いたところに返してきなさい』と叱られた」
「それは……」
――仕方ないのでは。
わたしが低く唸り声を上げると、アルヴィ様が苦笑しつつわたしに目を向けました。
「あの時の師匠の気持ちが解った。凄い圧力のある笑顔で言われて、泣く泣く元の場所に返してきたけれど」
「何だか……意外ですね」
わたしは思わず笑ってしまいました。
アルヴィ様の過去。
子供の頃の、それはとても親しみを抱くようなエピソードの一つ。
「今はね、言う立場になりそうだった。元の場所に返してきなさい、とね。相手はこの国の国王陛下だけれど」
「あー」
つまり、陛下が持ち出してきた『白銀の世界』を、ですよね。
言いたくなる気持ちも解らないではありませんが、何しろ相手が相手ですから、絶対に言えない言葉でしょう。
「おそらく、だけれど。きっと、この国の人間は根本的なところが無邪気なんだろうと思うよ」
「無邪気?」
「白銀の世界の力かもしれない。この国の人間は、あまり悪意とかそういったものに触れていない。だから、あまり悪いことは考えないんだろう。誰かを疑ったり、恨んだり、そういうことには無縁のまま生きていられる」
「そうかも……しれませんね」
わたしはミアの背中に視線を投げ、小さく頷きました。
男性らしさを失った彼が、あんなにも……可愛らしく思えるのは、そういった理由があるからなのかもしれません。
「そして、兄弟国とやらの彼らも似たようなものなんだろうね」
「彼ら?」
「サウル殿下とその側近たちだよ」
わたしはそこで、アルヴィ様に視線を戻して問いかけるように見つめたと思います。彼はそんなわたしに気づいて、そっと微笑むと続けました。
「さっきの彼――エリク・ライアーズという人間もね、きっと悪い人間ではないと思うよ」
わたしはその言葉に、一瞬だけ遅れて頷きました。
悪い人間ではない。
そう信じたいですけども。
「ただ、白銀の世界の穢れに触発されているだけだ。白いものは簡単に汚れるものだから、汚れがひどくなる前に何とかしないといけないな」
「何とか……」
わたしがそう小さく呟くと、アルヴィ様はわたしを見つめ直して言うのです。
「君はよくやってる。僕が考えていた以上に、上手く殿下を演じてくれた」
「え、あの」
何ですか、その唐突な誉め言葉は。
わたしが思わず驚いて身を引くと、彼はさらに続けました。
「もう少し、頑張ってくれ。もうすぐ終わるはずだから」
「はい、それはもちろん」
「報酬として、欲しいものはある?」
「報酬?」
わたしが困惑して首を傾げると、アルヴィ様は意味深に笑います。
「君の今回の労力を考えるとね、それなりの報酬はもらってもいいはずだよ。何か欲しいものがあったら、買ってあげよう」
「え」
――本当ですか?
わたしはびっくりして彼を見つめていましたが、その言葉が頭の中に浸透してくると、つい口元が緩みました。
「あの、あの! できれば、もっと料理に必要な鍋とか食器とか欲しいです」
「鍋?」
アルヴィ様が意外なことに、目を見開いてわたしを見つめ返します。「そんなものでいいの?」
「そんなものって! 重要ですよ、これは絶対!」
「そう?」
「はい。だって、アルヴィ様のお屋敷の台所、必要最低限のものしかないじゃないですか」
「必要なかったし」
「必要ですってば!」
「そうか」
「そうです」
わたしはさらに声に熱を入れて続けました。「できれば、パンを焼くのに石窯とかあったら幸せです」
「石窯?」
「はい。今までは鍋で焼いていましたけど、鍋より便利だと思うんです。石窯があれば、パンだけじゃなくて色々な料理にも活躍します」
「なるほどね」
そこで、アルヴィ様が小さな声を上げて笑いだしました。
何だか、この場の空気も緩んでいるような感じがします。緊迫感のない平和な時間。
「そこまで言うなら、君の希望を叶えてみよう」
「本当ですか?」
「ああ」
「約束しましたから!」
「解ってる」
笑い続けるアルヴィ様の肩の上では、ルークが呆れたように欠伸をしつつ、「安上がりな娘でよかったにゃ、ご主人」とか呟いています。
安上がり?
石窯は安上がりなんかじゃないですけど!
ものすごく高価だと思うんですけど!
そんな不満を胸の中に抱きつつも、わたしはそんなことが気にならないくらい嬉しかったんでしょう。自分でも気づかないうちに、口元が笑みの形を作っていたのですから。
そして、それから数日後。
とうとう、神事の日はやってきたのでした。
アルヴィ様は、もしかしたら神事までには白銀の世界の浄化が終わるかもしれないと言っていたのですが、それは間に合わなかったようです。
結局、わたしがエルネスト殿下を演じつつ、神事を行うことになりました。
でも、これが無事に終わればアルヴィ様とお屋敷に帰って、台所が色々充実するかもしれないと考えるとやる気も俄然湧き上がるというものです。
気合を入れ、神事のために準備をしようとしたのですが。
「まず、身を清めてもらわねばなるまい」
エルネスト殿下の部屋にやってきたエウゲン様がそう言って、わたしは首を傾げました。
彼の横に立っているミアも、どことなく心配そうにわたしを見つめています。
部屋には、使用人たちが持ってきてくれた純白の礼服があります。
それを着る前に、身を清める、ということは。
「単純に言えば、湯浴みじゃの」
わたしの横に立っていたコーデリア様が薄く笑いながら言います。「神事ともなれば、当然じゃろ。さっさと洗ってもらうがよい」
彼女がそう言い終わると同時に、わたしの前に複数の女性が取り囲みます。
彼女たちは使用人で、どうやらわたしのお風呂の手伝いをしてくれるということらしいですが。
「あああああ、あの、一人で入れますが」
お湯を浴びるくらい、一人でできます!
そりゃあ、男性の身体を直視するのは難しいですから、そんなに丁寧に洗うことはできませんけども!
毎晩、逃げるようにお風呂場から出てくるようなわたしですけども!
でも、お風呂に入るくらいはできます!
わたしが無言のまま辺りを見回し、そこにいたアルヴィ様で視線をとめると、彼は厭そうに首を横に振りました。
「僕は手伝わないから」
「もちろんです!」
「だったら早く済ませておいで」
と、無情にもアルヴィ様はわたしを使用人の女性たちに引き渡したのでした。
酷い。
――早く自分の身体に帰りたい。
わたしは、使用人の女性たちにいいように扱われながら、見たくもない男性の身体を長々と見ることになりました。
とりあえず、現実逃避で元の姿に戻ったらやりたいことを頭の中に思い浮かべつつ、苦行を終えて身支度を済ませます。
やっとの思いで白い礼服に身を包み、腰に神事用の美しい剣を下げて、鏡の前に立ちました。
こうして見ると、本当に男性らしい素晴らしい肉体をお持ちの方だと再確認できます。
まあ、そんなのはどうでもいいことですが。
「じゃあ、いこうか」
疲れ果てたわたしを促し、アルヴィ様は先に立って歩き出しました。
神事が行われる場所までは、どうやら馬車でいくらしく、もうすでに城の中庭には準備を終えた馬車が御者と一緒に待っています。
そして、その馬車を取り囲む人々の群れはちょっとした見ものでもありました。
国王陛下の姿はもちろん、城内にいる全ての騎士様たちが集められたのだろうと思われるほどの人数がそこにあります。
騎士様たちはそれぞれ馬を連れていて、護衛として付き従うのでしょう。
誰もが緊張した面持ちでこちらを見つめ、一斉に頭を下げました。
あ、頭は下げておくべきなんでしょうか。
わたしは内心、ものすごく慌てていましたが、何とか平静を装って静かに礼を返します。
それから頭を上げ、辺りを見回しました。
そして、数日の間姿を見かけなかったカサンドラとリンジーの姿もそこにあることに気づきます。
でも、わたしたちは会話することもなく、それぞれ神事の行われる神殿へと向かうことになりました。
早朝に出立して、お昼前に神殿に到着。
道のりはそれなりに長かったのでしょうが、それほど時間はかかったようには思えませんでした。
空は薄暗く、雲が青い色を覆い隠して薄暗く染めています。
馬車から降りて空を見あげ、わたしは軽く深呼吸をします。そして、視線を感じて顔をそちらへと向けました。
森の中、巨大な神殿の前で、こちらと同じくらいの人数の側近たちを連れたサウル殿下がそこにいました。
ただ、彼の視線はこちらに向けられてはいませんでした。
わたしに向けられていた視線。
それは、一人の女性によるものだと気づきます。
サウル殿下のすぐ横に立っていた女性。男装していると言っても間違いではない格好の美しい女性が、わたしを静かに見つめていたのです。




