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ご主人様と呼ばせてください!  作者: こま猫


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第81話 馬鹿は僕の言葉に従え

 黒い――穢れた悪意が自分を侵食する。

 それは今まで感じたことのない恐怖でした。

 わたしにはもう、怖いものなんてない。そう言い聞かせても、それが嘘であることをわたしは理解していました。

 それほどまでに、わたしに入り込んできた悪意は想像を絶するほどのものだったのです。

 わたしの心の中で、黒い感情が爆発する。

 それも、わたしのものではない、誰かの意識が途切れ途切れに頭に浮かびます。


 誰かが誰かを罵る光景。

 そこら中から聞こえてくる、罵倒、非難、悲鳴交じりの絶叫。


 誰かが誰かを殺す光景。

 泣きながら、笑いながら、目の前に飛び散る赤い飛沫と、血生臭い霧を浴びる。


 笑顔の裏に潜む悪意。

 大好きだよ、と誰かに言いつつ、その誰かを羨み、妬み、不幸を願う。


 優しい言葉で本心を隠し、心の中で誰かを憎む。

 あなたのため、と言いながら相手が道を踏み外すのを手伝う。

 悲惨な状況に陥るのを見守り、そしてまた嗤う。


 理解したくはない、恐ろしい言葉の羅列。

 それがわたしの中に満たされていく。


 そして否応なく思い出させられる。

 わたしの中の、厭な部分。

 汚い部分。


「やめて」

 そう言いながらもがこうとしても、腕が重い。身体が動かない。

「厭なの、違うの」


 自己暗示。

 わたしは自己暗示をかけました。

 そう、そうなのです。

 わたしは、自分を受け入れたくなかった。

 必死に無邪気さを装っても、どうしても気づいてしまう。


 アルヴィ様が好きです。

 理由なんて解りません。

 サウル殿下がミアを好きになった、と聞いた時に浮かんだ疑問。そんな簡単に誰かを好きになるだろうか、ということ。

 本当は自分が一番よく知っているんです。

 誰かを無条件に好きになるということが、本当にあるんだってこと。

 わたしがアルヴィ様の優しい笑顔に心を奪われたように。


 今よりずっと、感情の起伏があるような頃のアルヴィ様。

 わたしが初めてアルヴィ様にお会いしたのは、きっと……ヴァイオレット様が生きていらっしゃった時なんだ。

 誰かのことを愛していらっしゃったアルヴィ様なんだ。


 そんなアルヴィ様のことを一目で好きになって。

 最初は、それだけで幸せでした。


 ただ、憧れていた時には思わなかった。

 こうして一緒にいられるようになって。

 本当に偶然、おそばに置いていただけるようになって。


 わたしは、欲張りになっていたのかもしれない。

 期待していたのかもしれない。


 でも、アルヴィ様の心の中には今でもヴァイオレット様がいらっしゃる。


 気づきたくなかった。

 嫉妬という感情は、本当に醜いんだ。

 汚いんだ。


 綺麗でいたかった。

 アルヴィ様に迷惑をかけたくなかった。

 今はどこにもいない、ヴァイオレット様を恨みたくなかった。


 だから、何もかも消してしまいたかった。

 好きなんかじゃない。

 わたしは……アルヴィ様のことを、これっぽっちも好きなんかじゃない。

 そうすれば、今まで通り……心穏やかに暮らしていける。誰も妬みもせず、恨みもせず、綺麗なままで。


 子供のままで。


 どうしたらいいの。

 わたしは、どうしたら。


 ――憎めばいいよ。

 殺せばいいよ。

 邪魔なものは全て排除して、欲しいものを手に入れればいいよ。

 あの男が好き?

 恋敵がいないなら、男を殺してしまえばお前のものになる。

 殺してしまえば。

 殺してしまえば。


 そう、わたしの頭の中で黒い言葉が渦を巻く。

 穢れがわたしを侵食し、心の奥に隠しておいた厭な部分を引きずり出してくる。


「厭なの。ダメなの」

 そう言っても、その穢れ――大禍はわたしの心を食い荒らし、綺麗な感情だけで埋めようとしていたところを空っぽにしていって。

 その空いた穴に、黒い感情を埋め直していく。

 いつものわたしだったら考えもしないことを考えてしまう。


 殺してしまえばいい?


 ダメ、だ。

 わたしは唐突にそう思いました。

 目を開けても、目の前は真っ暗です。どこまでも闇が広がって、明り一つない。

 ここから逃げる?

 どうやって?


 アルヴィ様の魔術。

 そう、目を覚ませば元通りに――。

 いいえ、きっと元通りなんてならない。

 わたしはもう、無理だ。

 どうやっても、どんなに頑張っても、もう無理。

 この感情は――この殺意はきっと消せない。


「ああ、そうか」

 わたしは唐突に気づきました。

 この黒い感情を消す方法がある。

 一番簡単な方法が。


 わたしは暗闇の中、何とか首を動かして自分の右手を見下ろしました。

 そこには、少しだけ色のくすんだ大剣がありました。あれほど綺麗だった穢れなき剣も、この大禍に飲み込まれたことで汚れつつあるんだろうか、と悲しくなります。

 でも、まだ穢れを払う力を持っているはず。

 今ならきっと、間にあう。

 そう、ですよね。


「ごめんなさい」

 思わずそう呟くと、自分の眦が涙で濡れるような感覚が生まれました。

 誰に謝る言葉なのかは自分でも解りませんでした。

 でも、何とか腕を動かして、剣の切っ先を自分の胸元に向けました。

 夢の中で死んだら……わたしも死ぬんでしたっけ?


 わたしが死んだら……何か、困ることあったでしょうか。

 あったような気もするけど、何だか思い出せない。

 頭が働かない。

 だからもう、どうでもいい。


 そしてわたしは、そのまま剣の切っ先を自分の胸へと突き立てました。


 その途端、剣がひと際美しく輝いて。

 白銀の住人たちが壊れていく時と同じように、辺りを白く染めていくのを見て。

 他人事のように、その光景を綺麗だと感じた瞬間。


 身体が壊れるような破壊音が響きました。

 そして。


「ミア! この、馬鹿!」

 と、凄まじい怒りに満ちた声が辺りに轟きました。

 それはまさに、轟音と言っていいほどの強烈な声。


 意識が消えると思いながら、何とか目を開くと、暗闇に少しだけ切れ目ができていました。その向こう側には白い世界が見えました。白い……でも、白銀の世界ではなさそうな空間が。

 一瞬だけ意識がはっきりしたのですが、その状態を保つことができず、もう一度目を閉じます。

 すると、とても心地よくて。

 深い眠りにつく前の、緩やかな時間が流れそうになりました。


 でも。


 いきなり、腕を掴まれた、と思いました。

 骨が軋むほどの痛みと共に、眠りから引き戻されました。

「何?」

 そう言いながら、必死に目を開けて、辺りを見回します。すると、わたしの身体は――エルネスト殿下の肉体は、まるで硝子が破壊されようとしているかのようにヒビが入り、あるべきはずの両足は砕けて飛び散っているのが解りました。

 そのヒビはさらに進み、わたしが見ている間にも美しい音を立てて壊れていきます。少しずつそれは両足から太腿へ、お腹の方へと進んできていました。

 ああ、さっきの破壊音はこれだったのか、と遠く意識のどこかで自分が理解します。

 血が出ないから、綺麗。

 そんなバカなことすら考えていると。


「掴み返せ」

 慌てたような声がさらに辺りに響きました。


 ここにはいないはずの人の声。


 アルヴィ様の声。


「……何で?」

 そう返すと、アルヴィ様の声はさらに強く響きます。

「馬鹿は僕の言葉に従え!」

「……馬鹿じゃないですよ」

「馬鹿に決まってるだろう! いいから! 早く!」

 その切羽詰まった声は、アルヴィ様らしくなくて思わず笑ってしまいました。

 それでも、右手を見ればそこには空間の何もないところから細い腕が伸ばされていて、わたしの手首を掴んでいるのが解りました。

 相手が必死になってわたしの手を引っ張っているのですが、今にも外れてしまいそうです。空間が歪んでいるのか、相手の手は酷く苦しそうに思えました。

 その手には人間の体温はありません。

 現実味のない感触がわたしの手首にあって、それはじりじりと元の空間に戻っていきそうになっていて。

「ミア!」

 急かされるように言われ、わたしは何とかその手首を掴み返しました。

 そして、凄まじい衝撃がわたしの身体を突き抜けました。


 目を開くと、そこは見慣れた天井がありました。

 エルネスト殿下の部屋の天井。

 そして、わたしはベッドに横になっていたのですが。


「自分の判断を一生恨むところだった」

 その声に、わたしは恐る恐る首だけ動かして声の主を見ます。ベッドの端に腰を下ろしたアルヴィ様の背中。

 アルヴィ様は疲れたように、両手で自分の頭を抱え込むようにして俯いています。

「す、すみません」

 わたしが掠れた声でそう言いつつ身を起こすと、アルヴィ様の前に立っているコーデリア様の姿も目に入ってきました。

「愚か者」

 コーデリア様が冷ややかにわたしを見つめ、そう言います。「無茶をしたのじゃろう」

「無茶……しましたねー」

「他人事のように言わないでくれないか」

 アルヴィ様がそこで勢いよくこちらを振り向き、わたしを睨みつけます。

 うう、綺麗な方に睨まれるって、迫力あるからやめて欲しいんですが!

「いや、あの、わざとじゃないんですよ!」

「わざとであってたまるか」

 アルヴィ様はそこで立ち上がり、いつになく乱暴な口調で続けます。「危険だと思ったら目を覚ますことができるように魔術を教えただろう? 忘れたのか」

「いや、忘れたわけでは」

「じゃあ、何だ。僕の命令を無視したのか。それとも単なる馬鹿かな? そうか、君のことは今度から馬鹿と呼ぼうか」

「いや、あの」

 流れるように次々と彼らしくない言葉が並び、わたしは困惑しておろおろと辺りを見回しました。すると、ベッドの下にいたらしいルークが翼をばたつかせつつ、ベッドの上に飛び乗ってきます。

「心配してるんだにゃ、ご主人は」

「心配……」

「うるさい、黙れ」

 アルヴィ様がルークの身体を乱暴な手つきで抱き上げ、自分の肩の上に乗せます。そして、ルークは呆れたようにやれやれ、と言いたげに首を振りました。

「いいか、ミア、じゃなかった馬鹿」

「言いなおさないでください」

「僕の命令は絶対だ。君は僕に従わなくてはならない」

「え、あ、はい」

「本当に、解って、いるのかな」

 と、アルヴィ様は一言一言ゆっくりと発音して、さらにわたしの頭を両手でつかみ、ぐいぐいと揺らします。激しい、激しい!

「ちょ、ちょ! わ、解りました!」

「ならばよし」

 そしてまた唐突に、わたしを解放してアルヴィ様は意地の悪い笑みを浮かべます。

 綺麗な方がそういう笑い方をすると、何とも邪悪な感じがするんですけども!


「……本当に、心配したんだ」

 やがて、アルヴィ様は笑みを消してそう小さく言いました。

「……すみません」

 心が軋むような音を立てました。

 そんな顔をされてしまうと苦しいです。わたしはただ、アルヴィ様のために――。


 そして唐突に気が付きます。


 よく解りませんが、自己暗示……解けてる気がします。何がきっかけなのか解りませんが、以前と同じように心臓が暴れます。アルヴィ様の一挙一動に惑わされる気がします。


 だって、わたしは。

 やっぱり、わたしはアルヴィ様が好きで。

 誰よりも好きで。

 だから、心臓がこうして変な音を立てるんです。


「アルヴィ様は優しいから」

 思わずそう口を突いて出ました。「……好きなんです」


 まずい!

 何を言ってるんでしょうか、わたしは!


 わたしが一瞬の後に慌ててそれを打ち消そうとしたのですが、アルヴィ様は酷く真剣な表情で先に口を開きました。

「ああ、優しいと言ってくれると嬉しいけどね」

 そこでまた、アルヴィ様に頭を掴まれてぐいぐいと揺らされます。

 ちょ、ちょっと!

「筋肉隆々の男性に好きと言われても全く嬉しくないから、それは聞かなかったことにするよ」

「す、すみませーん!」

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