第80話 大禍は強大だ
返事はなかなかありませんでした。
それは、わたしが不安になるくらいの間でしたが、それでも、ほんの一瞬だったのかもしれません。
空から降り注ぐ、住人たちの砕けた身体が地面に落ちる音を聞きながら、だんだんそれが美しく……そして、恐ろしく感じていくのが自分でも解ります。
仲間が死んでいくのに、目の前にいる王様の表情も気配も、ただ静かなまま。
そして、じっとわたしを見下ろしていました。
「あの」
わたしが居心地の悪さに思わず口を開きかけた時、やっと相手は言いました。
「人間には戦えない相手だ」
「……それでも」
わたしは必死に続けます。「どうか、お願いします」
だって。
アルヴィ様のお願いだから。
だからわたしは、その命令に従いたいと思います。
「そうか」
彼はそこで少しだけ顔を動かし、わたしの右手に握られたままの剣を見つめました。「それでは戦えない。役に立たない」
「これでは?」
わたしも彼の視線を追って自分の右手を見下ろしました。
多分これは、わたしの意識が作り出した剣。夢の中でだけ使える剣。
「人間よ。名前をもう一度聞こう」
彼のその言葉に、顔を上げてわたしは何とか笑みに見えるであろう口元を作りました。
「ミア、です。ミア・ガートルードと申します」
「ミア・ガートルード」
そこで、彼がわたしの方へ身を屈めてきました。巨大な身体は滑らかに動き、そしてわたしの眼前に迫ります。
その凄まじいまでの圧迫感に身が竦む思いでしたが、必死にとどまって彼を見つめ返します。とても綺麗に輝き、何の感情も映さない白銀の双眸。
「そなただけに使える武器を渡そう」
「わたしだけに、でしょうか」
今にも喰われそうなほど近い場所に彼の口はあります。それは人間とは違う構造でしたし、限りなく硬質であると目で見てとれるものでした。
でも、恐怖は感じませんでした。
「そうだ、ミア・ガートルード」
彼がそう言って、細い腕を伸ばしてわたしの額に触れました。
昆虫に似た細い指。それが一瞬だけ、額に刺さったような気がしました。
でも、その微かな痛みなんかよりも。
その途端にわたしの身体全体に走った、全身の血が泡立つような感覚の方が衝撃的でした。
「手を上げよ」
彼がそう言って、わたしは右手を上げようとしました。
その時、手に持っていた剣はすでになく、何も持たない手のひらだけがわたしの目に映ります。
「扱いに気を付けよ。それは悪しきものを浄化する」
「それ……」
って、何?
と訊こうとした時でした。
何も持たない右手の中に、白い光が生まれました。
小さな光はみるみるうちに大きくなり、思わず目を閉じたくなるほど激しい明るさをもたらします。
でも、わたしはそこから目をそらすことができませんでした。
手のひらの中から、小さな剣の切っ先が生まれた、と思ったすぐ後で。
その剣が、ぐぐぐ、と天を目指して持ち上がります。わたしの腕の中から生まれるように、伸びていく。育っていく。
そんな、不思議な光景。
そして、大きな剣の柄がわたしの手のひらの上に生まれたところで、わたしはそれを握って軽く宙を切ります。
すると、鈴が鳴るような高い音が響きました。
――何て、綺麗。
そんな、場違いな想いを抱いた後で、わたしは王様を見あげて頭を下げました。
「ありがとうございます。感謝いたします」
「感謝はいらぬ」
すぐに、そんな言葉が返ってきました。「大禍は強大だ。あれと戦うのは我々の使命である。人間には関係のないことだ」
「タイカ……?」
わたしはその言葉に眉をひそめ、一瞬だけ考えこみました。「タイカとは、あの闇のことでしょうか」
「闇? そう見えるかもしれんが、我々はあれを大禍と呼ぶ」
「大禍……」
「本当ならば、そなたは戦わなくてもよい相手だ」
「それは」
――そうかもしれませんが。
わたしは何て言おうか悩みます。わたしがここにいる理由など説明する時間なんてないはずです。
そして、彼はすぐに言葉を続けました。
「我はこの世界の主であり、僕たちを従える。我は壊れるわけにはいかん。だから、戦えぬ」
「戦えない……」
「僕たちが壊れるのを、見守ることしかできん。だから、そなたのことも」
「わたしも、助けていただかなくて大丈夫です」
わたしはそこで精一杯胸を張り、笑顔で応えました。「わたしは自分のために戦います。だから」
――これは、自己責任ってやつですよね。
もし、敵に負けたとしても、それは仕方のないこと。
それに。
いざとなれば、逃げだすことができる、無責任な立場にある人間なのですから。
だから、守っていただかなくてもいいのです。
そこで、わたしは天を見上げます。
さっきよりも恐ろしいまでに空は闇の色に染まっていました。
この世界の住人たちが、空を飛んでその身体を闇の中に散らせると、空はそこだけ輝くような白色へと染まります。
でも、焼け石に水なのでした。
たくさんの住人たちが死んで――いえ、王様の言葉通りなら『壊れて』いくたびに、少しだけ世界は白くなったとしても、すぐに闇の色に汚染されていくのです。
そして、その暗闇は生き物のように空をうねり、まるで触手のように地面へと身体を伸ばしてきます。
それは醜悪な動きであり、嫌悪という感情をわたしに植え付けようとしているかのようでした。
でも、わたしは戦うためにここにいるのです。
だから、わたしは地上へと触手を伸ばす黒い塊――大禍に向かって、大地を蹴って走り出しました。
右手に持った剣は、まるで羽根のように軽く、身体の一部のようにやすやすと扱うことを許してくれています。
――大丈夫、やれる。
夢の中の世界にいるわたしの身体は、いつもよりずっと軽い。
ほんの少し大地を蹴っただけで、凄まじい跳躍をしてくれます。
王様からいただいた剣があれば、何でもできるような気すらしました。
その剣は、おぞましい動きをする黒い触手を簡単に切り裂き、美しい光を放つのです。
――本当に、綺麗。
それは幻想的で、妙な高揚感すら与えてくれて、そして……わたしの唇はいつの間にか、笑みの形を作っていました。
わたしの身体は疲れを知らず、空から降りてくる大禍の巨大な腕を切り裂き、跳ね返すことができています。
どのくらい剣を振り回していたのか解りません。
ただ、無数の黒い腕を切り裂いているうちに、少しずつ暗かった空が明るくなってきていました。
それは、わたしだけの戦いだけが理由ではありません。
住人たちの捨て身の動きがあったから。
彼らのたくさんの犠牲があったから。
大禍が撤退する、と思った時でした。
逃げる前の、最後の悪あがき、といった様子で、黒い触手が仄暗い空に無数の腕を四方八方に散らしました。
そして、空を飛んでいた住人たちをその触手で絡め取り、締め上げていきます。住人たちの身体が軋み、砕ける音が連続して響いて。
それを何とかして助けることができないか、と辺りを見回して。
そして、わたしの身体もまた、黒い触手に掴まれてしまったのです。
咄嗟に、剣でその腕を切り裂き自由になった――と思っても、次の攻撃がありました。次々に細い触手が襲ってくると、やがてわたしの身体は酷く重く感じるようになります。
そう、重い。
まるで、普通の人間のように、体重を感じるようになって。
さっきまでは軽くて人間とは思えない動きをしていた身体だったのに、とにかく重くて。
――わたしは。
その黒い触手に締め上げられた部分から、寒気のようなものを感じて声を上げそうになりました。
寒気。
いいえ。
何て説明したらいいのか。
それは、明らかにわたしの皮膚を食い破り、身体の中に入ってこようとしている。
恐怖を忘れていたはずのわたしの心が、悲鳴を上げた気がしました。
心の中の、弱い部分に触れられた。
自分の中にある厭な部分を、否応なく思い出させられた気がして、心が搔き乱されました。
――逃げなきゃ。
そう、逃げ出すなら今だと思います。
アルヴィ様に教えてもらった魔術で、夢から醒めなきゃ。
そうしなきゃ、ダメだ。
そう、頭のどこかで考えていたのに、何だか自分が自分でないような感覚に襲われ、身動きが取れなくなりました。
大禍は、わたしの肉体だけではなく心を破壊するかのように、まるで病のようにわたしの中へと入り込んできたのです。




