第8話 猫コマシのゴッドハンド VS ……?
「買いましょう」
ヒューゴ様はやがて思い切ったようにそう言います。
すると、アルヴィ様は手にしていた小さな瓶を彼に差し出し、それを恐る恐る受け取るヒューゴ様に優しく囁きました。
「きっと、あなた様の身体に変化が起こりますよ。後悔はないはずです」
「そ、そうですか」
不安混じりの瞳を手にした小瓶に向け、ヒューゴ様はそれを大切そうに握りこみます。
そして、アルヴィ様はルークを抱いたまま立っているわたしのほうへ目をやって、にこりと微笑みました。
「さて、帰ろうか」
「あ、はい」
何だか頭の中がぼんやりします。
ええと、終わった、わけですよね。
ああ、終わったんだ。
わたしはそこで、安堵の息を吐きました。
何だか、ヒューゴ様のお屋敷の中では色々とばたばたしている気配が感じられましたが、今のわたしには興味のないことでした。
アルヴィ様がお屋敷の外へ向かって歩き出すのを、慌てて追うことに精一杯だったので。
「あの」
ヒューゴ・エルマルのお屋敷から出て、暗い夜道を歩きながら、わたしはそっと目の前にある背中に問いかけました。「さっきの薬、そんなに高価なものだったんですか?」
「おいおい」
わたしの腕の中から、欠伸交じりの声が響きます。「信じるなよ、あんにゃの」
「え、だって」
「何というかね、信じる者は救われるんだよ」
アルヴィ様が小さく笑い声を上げています。
何だかどきどきして仕方ありませんでした。
だって、助けていただいた。
幼い頃からずっと憧れていた、アルヴィ様に。
「すごい」
わたしは思わず囁くように呟きました。「アルヴィ様、本当に素晴らしいおかただと思います」
「マジか」
ルークがわたしの腕の中で身じろぎし、バカにしたような声音で笑います。「お前、本当に変わってんなあ。ご主人はナチュラルに詐欺師なんだって気づいてるか?」
「え?」
「ナチュラルボーン詐欺師。解る? にゃ?」
「え、ああ、解ります」
「解ってねーだろが。テキトーに言うな」
「でも、助けてくださいました。わたしを。いきなり、こんな風に押しかけてお願いしたのに。断られても当然だったのに。……本当に」
――お優しいかたなんだ。
「おーい」
ルークの声が酷く遠くに聞こえるような気がしました。
何だか、熱を出してぼんやりしている時のように。
でも、アルヴィ様の声だけははっきり聞こえるなんて不思議です。
何だか、何だか。これは。
「あのね、ええと、ミア、だっけ」
「はい」
「とりあえず、君の願いは叶ったわけだね」
「はい、本当にありがとうございます。このご恩は必ず」
「別にね、僕は気にしないんだ」
「はい?」
「君のご主人様になるって話だよ」
「はい、精一杯お仕えいたします」
「いや、だからね」
そこで、アルヴィ様が小さくため息をついて首を傾げました。
「……本気かい?」
「本気ではないとお疑いだったんですか?」
わたしはそこで急に不安になって、暗闇の中、人気のない夜道で立ち尽くしました。そして、腕の中にある塊をぎゅっと抱きしめて俯きました。
腕の中のルークが奇妙な声を上げてじたばたと暴れているのも、何だか現実味がありません。身体の奥がどんどん冷えていくような感覚。貧血にも似ています。
そんなわたしを気遣うようなアルヴィ様の声が響いて。
「別に、家に帰ってもいいんだよ? いいの?」
「……家?」
「君の家。家族が待っているんだろう?」
「ああ、そうですね」
「君は自由になれる。もう何も問題はない。そうだね?」
「ええ、でも」
わたしはアルヴィ様を見上げ、できるだけはっきり聞こえるように言いました。「一千万ゴルト分の仕事だけはこなさなければいけません」
「……ええと」
若干、アルヴィ様は困ったように眉根を寄せました。
でも、絶対にこれだけは譲れないことなんです。助けていただいて、何もお返ししないで家に逃げ帰るなんて、そんな非人道的なことできません。
「まあ、君が言うならいいか」
やがて、アルヴィ様がぎこちなく微笑み、その手を伸ばしてわたしの頭を撫でてくれました。
その感覚は、確かに。
昔、幼いわたしの頭を撫でてくれた時のように、とても優しくて。
とても、嬉しい。
「待てーい」
わたしの腕の中から、じたばたと暴れていたルークがするりとわたしの腕の中から飛び出し、地面の上に降り立ちました。そして、地面に四つの脚を踏ん張るような格好で、わたしを睨みつけてきます。
「ちょっと待った! 俺様はまだ認めてないぞ!」
「え」
わたしはその場に座り込み、ルークの顔を覗き込みます。「あなた様の許可が必要なんでしょうか」
「当たり前だろー!」
「そうなんですか」
わたしが困惑した声を上げると、ルークはにやりと笑って続けます。
「いいか、うちのご主人は猫コマシのゴッドハンドを持っているんにゃ」
「何でしょうか、それ」
「あの手で撫でられると、ものすごく気持ちいい!」
「ああ、解ります」
わたしは唇を噛んで頷きます。確かにその通りだと思います。やはり、魔術師様というのは特別な力をお持ちなんでしょう。
「それに比べてお前! 娘ぇ!」
「はい」
「さっきの撫で方はなんだ! 手抜きにもほどがある! あんな撫で方の奴は、俺様は認めない! 認めにゃいのだ!」
「うー」
わたしは自分の手のひらを見つめ、唸り声を上げました。
まさか、こんなことでダメだと言われるのは納得がいきません。
撫で方……撫で方? どうすれば。
「ちょっと、ルーク」
困ったようなアルヴィ様の声。
「撫でれ」
挑むようなルークの声。
「ええと、僭越ながら失礼します」
わたしは思い切り息を吸い込んで、気合を入れてからその場に座りなおしました。
正座をして、ルークのしなやかな身体を抱き寄せ、そっと撫で始めます。
解りません。どうすれば一番気持ちいいのか。
とにかく、丁寧に頭を、喉元を撫でます。手抜きがダメだというのですから、こちらも本気です。
じっとルークの様子を観察し、どこを撫でたら反応が変わるのか見て、少しでも気持ちよさそうな場所があったらそこをじっくりと――。
「にゃ」
尻尾の付け根辺りを触れると、ルークの身体がびくりと震えるのが解りました。
「ここですか」
わたしはさらに気合を入れ、丁寧にその場所を撫でて。
「ちょ、おい!」
「ここですよね?」
だんだんとルークの顔から力が抜けていき、その双眸が気持ちよさそうに閉じられていくのを見守って、少しだけほっとします。
大丈夫そう。
そう思いながら。
「うにゃぁぁぁぁ……」
と、その小さな身体がだらけて伸び切っていく様を見つめました。
「あのね、君、ミア」
やがて、アルヴィ様が呆れたように言います。「うちの使い魔に、新しい性癖を教え込むつもりがあるのかい?」
「何でしょうか、それ」
「困ったね」
アルヴィ様は地面の上でだらしなく溶け切ったルークを抱き上げ、何事か彼に囁いたようです。すると、ルークが僅かにその目に光をきらめかせ、震える声で囁き返しました。
「やばい、ご主人。その娘、手つきがエロい」
どういう意味でしょうか。
わたしはその場に正座したまま、アルヴィ様とルークを見上げ、真剣に考えこんでいました。