第78話 不安要素が一つある
「……お前は何者だ?」
ドアの向こう側から低い声が響きました。
それは警戒しているようでもあり、怒っているかのようでもあり、硬質な響きを含んでいます。
「妾のことか?」
コーデリア様が低く笑い声を上げました。「お主は何か誤解をしたようだが、妾はお主が話をした魔術師の使い魔じゃ」
「使い魔?」
そこで、驚いたような彼の気配が伝わってきます。
「そうとも。この国の王子を守るために付き添いをしておる」
「付き添い? 兄者――エルネスト王子の護衛ということか」
「その通り」
コーデリア様はそこでからかうような口調で続けるのです。「妾は魔物よ。主と認めた人間しか相手にはせん。しかし、そなたら人間とは面白いものじゃのう? 勝手にこちらを見て、勝手に下賤な想像をする。一体、何を期待したのじゃ?」
「いや、期待はしていない」
そこで一瞬の間がありました。
コーデリア様は少しだけ彼の返事を待ちましたが、相手が何も言わないので苦笑します。
そして、彼女は目の前にある分厚いドアに右手を当てました。
その途端、彼女の手のひらから不思議な波動のようなものを感じます。人間が持っている魔力とは違って、どこか背筋がぞくぞくするような感覚がわたしを襲いました。
彼女の手のひらが触れている扉は、彼女の魔力によってなのでしょう、まるで透き通った水の壁のように向こう側が透けて見えるようになります。
向こう側にはサウル殿下が一人きりで所在無げに立ち尽くしていましたが、彼は驚いた様子もなくその視線をこちらに向けています。
彼にはこちらの様子が見えていないんだと思います。
だから、彼は少しだけ、無防備な表情で言葉を探していたようでした。
「……使い魔とやら、兄者はそこにいるんだろう?」
やがて彼は掠れた声でそう口を開きます。
「だからどうした?」
コーデリア様がそう返すと、彼の表情が緊張したように引き締まりました。
「いるのであれば、伝えてもらえないだろうか」
「引き受けよう」
「……神事には、我が父上もやってくる。そして……妹も、だ」
そして、また沈黙がやってきます。
「解った、伝えるとしよう」
コーデリア様は呆れたような声で話を切り上げようとしました。すると、彼は慌てたように言葉を続けました。
「待て。その、こうも伝えて欲しい。兄者は以前、強い女が好きだと言った」
「……?」
「だから、妹は……兄者の好むような、その、つまり」
「だから何じゃ。要点を話せ」
「ああ、そうだな」
サウル殿下は慌てたように頭を乱暴に掻き、少しだけ唇を噛んだ後に続けます。「兄者があのミアという少女のことを好きなら、妹は……、いや、その。兄者は女の好みが変わったということでいいのだろうか。本当に兄者は、ミアという少女のことが好きなのか」
「……それに応える権限は妾にはないのう。伝えておくから早く帰れ」
――ああ、そうか。
わたしはコーデリア様の後ろで身が竦むような思いをして立っていました。
わたしの考えなしのあの言葉が、余計に今の状況を複雑にしてしまったのです。
あんなこと、言わなければよかった。
エルネスト殿下が、ミア・ガートルードのことを好きだ、なんて。
「それと、兄者が沈黙の誓いを立てているということは聞いたが、やはり話す時間が欲しい。許されるなら、ぜひお願いしたい、と」
そう言ったサウル殿下の声を聴きながら、わたしはぎこちなく後ずさりします。
コーデリア様は一瞬だけわたしの方を振り返りましたが、すぐにサウル殿下に向かって言葉を返します。
「了解した。伝えよう」
「感謝する」
サウル殿下はそう言った後、踵を返して廊下を歩き出しました。その背中に向かって、コーデリア様は短く言います。
「ミアに夜這いするのはやめておけ。妾の主がそなたを殺すやもしれんからな」
「よば」
サウル殿下がその白い頬を一瞬遅れて赤く染め、忌々しそうにこちらを振り向いて首を横に振ります。「あの魔術師にも伝えておけ。自分の立場をわきまえろ、と。クラーキン王国の王位継承者に敬意を示せ、と」
「それも伝えておこう」
くくく、とコーデリア様の笑い声が響く中、今度こそ本当にサウル殿下はその場を離れていきました。
そして。
コーデリア様の魔力の気配が弱まって、透明な扉が元の姿を取り戻すと、彼女はわたしに言いました。
「さて、食事の続きをしよう」
翌朝、わたしはアルヴィ様の目覚めを待って椅子にじっと座ったままの格好でいました。
アルヴィ様の眠っているソファの前に椅子を置いて、まんじりともしないまま、夜は明けたのです。
下手に変な時間に眠ってしまったせいか、結局夜食を食べてお腹は満足したというのに、睡魔は一度もわたしを襲ってはくれませんでした。
そして、アルヴィ様は窓の外が明るくなる早朝にその目を開き、ものすごく厭そうな表情でわたしを見つめました。
「……おはよう、ミア」
「おはようございます」
「まさかとは思うけど、僕の寝顔を見てたのかい?」
「そのまさかです」
「そう。筋骨隆々の男性に寝起きを迎えられた僕の気分を理解してもらえるかな?」
「え?」
「とても、寝覚めが悪い」
「すみません」
「まあ、いいけど」
「いいんですか」
「揚げ足を取らないでくれるかい」
彼はそこで乱れた髪の毛を掻き上げつつ、ソファに座りなおして息を吐きました。
目を伏せているアルヴィ様の白い顔。
そして、変な風に軋む、わたしの心臓。
――心が動かない。
ときめかない、というのも厭な感じじゃないでしょうか。
わたしの心は、もう死んでしまったのかもしれない。
「コーデリアは?」
アルヴィ様がそこで表情を少しだけ和らげ、辺りを見回します。彼のすぐ脇で、丸くなっていたルークも目が覚めたようで大きく伸びをしていました。
「ここにおるわ」
その言葉と同時に、わたしの足元から唐突にコーデリア様が姿を現します。「面倒なことになっておるのう」
「同情してくれるかな」
「妾に同情心を求める方が間違っておる」
「そうだった」
そして。
コーデリア様が昨夜あったことをアルヴィ様に話している間、わたしは無造作にルークを抱き上げ、ぞんざいな手つきで彼を撫でていました。
ルークが不満げに「真剣に撫でろー!」とわめいていたような気もしましたが、とりあえず聞き流しておきます。
「……本当に、物事を丸く収めるというのも難しいものだね」
やがて、アルヴィ様はため息交じりにそう言って、ソファにもたれかかって天井を見上げます。明らかに疲れているその仕草に、申し訳なく思ってわたしは無言のまま彼に頭を下げました。
「不安要素が一つある」
恐る恐る顔を上げると、そこにはアルヴィ様の難しい表情がありました。
「不安要素?」
「サウル殿下の側近だ」
「ああ……」
わたしはそこで頷いて見せました。先ほど、中庭で感じたあの悪意。敵意。
若い騎士様がまとっていたあの気配は、確かに不安要素と呼んでもいいのでしょう。何だかものすごく、厭な感じでした。
「彼はね、おそらく影響を受けている」
アルヴィ様のその言葉に、わたしは眉根を寄せました。
「影響?」
「サウル殿下も若干……影響を受けているかな」
――何のことでしょうか?
わたしがさらに首を傾げると、アルヴィ様は苦笑します。
「白銀の世界の穢れ、だよ。この世界の浄化が追いついていないからね、何かと影響が出やすい。悪い方向にね」
「悪い方向……」
わたしの唸り声を聞きつつ、アルヴィ様は少しだけソファから身を乗り出してわたしを見つめます。
「ミア」
「……はい」
「眠れなかった?」
「え? はい」
「じゃあ、そろそろ眠いだろう?」
「え?」
「眠いよね?」
「え、あ」
何だか笑顔に圧力があります、アルヴィ様。「そ、そうですね! 眠いです、はい!」
「よし」
そこでアルヴィ様の顔にあまりにも明るい笑顔が浮かんで。
逆にものすごく不安になるわけで。
「じゃあ、朝食が済んだら眠って、少し様子を見ておいで。ほんの少しでもいいから、戦ってきてくれると助かる」
「解りました!」
わたしが何度も頷いて見せると、アルヴィ様はわたしから目をそらし、小さく呟きます。
「僕はサウル殿下を何とかしないと。まずは……」
その言葉に続いて、何かおっしゃったようでしたが、それはわたしには聞き取ることができませんでした。




