第77話 深夜の来客は
「心の底から言おう。本当に面倒くさい」
アルヴィ様が部屋に入ってくるなり、無表情のままそう呟きました。
無表情で、と言うよりは目が据わっていると言うべきでしょうか。空を睨んだまま、疲労をまとわせた雰囲気でしばらくドアの前で立ち尽くしています。
そして、その背後からコーデリア様が姿を見せ、手に大きめのトレイを持ってこちらにやってきました。
部屋の中央にあるテーブルを前に、椅子に座っておとなしくしていたわたしのところへ。
「この城の料理人に適当に作らせてきた。さあ、食べるとよい」
と、何だかもの凄く上から言われたような気がしましたが、空腹に悩むわたしにはあまり気になることではありませんでした。
「ありがとうございます」
そう言いながら、テーブルの上に置かれたトレイに視線を落とします。
薄くスライスされたパンに野菜と肉を挟んだサンドイッチ、豆と野菜のスープ、お酒が入っているらしい大きなグラスと、食べやすくカットされた果物。
心の底から感謝します。
「でも、わたしはお酒はいらないので、コーデリア様、いかがでしょうか」
そう言いながらわたしが空いている椅子をコーデリア様に指し示すと、彼女は悠然と腰を下ろして微笑みました。
「気が利く女はいいのう」
「元、女、ですけどね」
「おい、ご主人のことも思い出してやれにゃ」
わたしとコーデリア様が思い思いにトレイの上に手を伸ばしていると、アルヴィ様の肩の上からルークの低い唸り声が聞こえてきます。
「え、いや、忘れているわけでは」
そこでもう一度アルヴィ様の方へ目をやると、酷く真剣な表情でこめかみに手を置き、何事か考えこんでいる姿がありました。
そして、ぶつぶつと小さく呟いていらっしゃいます。
「ああいう、真面目な人間というのは本当に扱いにくい」
「え?」
「どう言葉を重ねても、どう言いくるめようと頑張っても、こちらの話を聞こうとしない」
「ええと……サウル殿下のことでしょうか」
「エルネスト殿下と腹を割って話したい、という彼の意見は解る。しかし」
「はい」
「沈黙の誓いがあると言っても引かず、こちらにも事情があると言っても聞かず、仕舞いには兄者は話し合いを拒否するのか、とこちらを責める」
「……はあ」
「しかも、ミアに会わせろとしつこい。体調はどうした、どこにいるのか、と」
「うーん……」
「ミアは僕の弟子で、誰にも……それがエルネスト殿下であろうと嫁に出すつもりはないと言っても、耳に届いてないらしい」
「嫁……嫁?」
「勤勉で誠実な人間であるという噂のサウル殿下だが、僕に取っては言葉の通じない男でしかない。あんな変人には、ミアには絶対に会わせられない」
「ええと、はい、ありがとうございます」
――変人? 変人かなあ。
わたしは内心、首を傾げる思いでした。変人と呼ぶほど変な方ではなさそうですが。
まあ、厄介な感じのお方ではありますけども。
彼はただ自分に言い聞かせるようにそれから何か口の中で呟いた後、黒い気配を感じさせる笑みを口元に浮かべて続けます。
「嫌がらせとして、『兄者』に懸想した弟分ということで、サウル殿下の噂を振りまいてやろうかと思うくらいだ」
「あの、アルヴィ様? それはちょっとやめていただきたく」
「それは冗談だとしてもだ、ミア」
「はい」
そこでやっと、アルヴィ様の瞳の焦点がわたしに合わせられました。
わたしは椅子に座ったまま居住まいを正し、背筋を伸ばしてアルヴィ様を見つめます。
「あの勢いなら、絶対に君に話しかけるだろう。チャンスがあれば、絶対に、だ」
「……はい」
わたしが眉根を寄せて低く唸ると、彼はさらに真剣な表情で続けました。
「ミアには絶対に接触しないように僕が守るつもりだけど、君まで守れるかどうかが怪しい。それに君はおそらく、沈黙の誓いをしているからと逃げ続けるわけにもいかない。何しろ、相手は君との手合わせを所望していて、神事の準備をしたいと言っている」
「はい」
わたしは少しだけ唇を噛み、考えます。
確かに、それは避けられないことなのでしょう。
神事は絶対に失敗してはならないからです。準備は必要ですし、剣技には決められた型があるとはいえ、本番だけやって成功させる自信はわたしにはありません。
つまり、サウル殿下との予行練習が必要です。
その際、彼と何も話さずに済ませることは可能でしょうか。エルネスト殿下として演技をしながら、彼を騙し続けることは?
「だから君は、最低限の知識を得ておいて欲しい」
アルヴィ様がそう言った途端、わたしの目の前にばらばらとどこからか分厚い本が次々に降り注ぎました。
慌ててそれを受け止めましたが、全てを抱えることはできず、何冊も床の上にばらまかれます。
一体どこからこの本は――と考えつつ、床の上にある本に手を伸ばします。
この国の歴史、神話、著名人に関するもの、雑学らしいものから帝王学らしき難しいタイトルの本まで。
全部読めとおっしゃるのでしょうか。
これを。
「サウル殿下に何か質問されても、答えられるように。王子らしい返事ができるように。読んでおいてくれないか」
「……は、い」
一冊読み終わるのに何時間かかるのだろうか、と冷や汗を流しつつ、何とかそう応えると。
「じゃあ、僕は疲れたし少し寝るから。面倒だからここのソファを借りるよ」
と、アルヴィ様は言いたいことを言い終えたらしく、そのままエルネスト殿下の部屋の隅にあるふかふかとしたソファに近寄り、倒れこむようにしてうつ伏せで横になります。
「俺様も寝るにゃ」
ルークもアルヴィ様の身体の脇に寄り添い、軽く伸びをしてからそこに丸くなって目を閉じます。
――自由だなあ。
わたしはそんな二人――正確には一人と一匹――の様子を見て、小さく笑いました。
そして、一瞬遅れて血の気が引く思いがやってきます。
「寝る、って! 寝るってどのくらいですか!?」
「うるさいにゃ」
ルークが薄目を開けてこちらを見あげました。「普通に寝るだけ! ご主人はここのとこ、あまり寝てないからにゃ、疲れてるんだよ。明日の朝には起きるから気にすんにゃ」
「明日の朝……」
そう聞いて、安堵の息を吐きます。
寝る、というとどうしても厭な記憶を思い出してしまうからです。
でも、明日の朝なら問題はありません。
アルヴィ様があっという間に寝息をたててしまうと、わたしは少しだけ、微妙にもどかしい感覚に捕らわれました。
ソファで寝るよりは、ベッドに行かれた方がよかったのに。
ベッドまで運びたいと思いますが、アルヴィ様に触れるのも躊躇われます。
わたしなんかが触れてはいけない方なのですから。
そんなことを考えていた時でした。
ドアが誰かにノックされる音が聞こえました。
わたしとコーデリア様の身体に、少しだけ緊張が走ります。
「扉にはこの男の魔術がかけてある」
コーデリア様がわたしのそばに立ち、小声で囁きます。「だから、誰もここには入ってこられん。この男が許した相手以外は」
「……安心しました」
そう言いつつも、ドアの向こう側にいる相手のことが気になります。
だって、そうじゃないでしょうか。
このタイミングでの来客。警戒するなというのが無理な話です。
「兄者。起きているんだろう」
案の定、ドアの向こう側から聞こえた声は聞きたくなかった相手のものでした。
サウル殿下。きっと、アルヴィ様にこの部屋には近寄るなと言われているはずのお方です。
「妾が応対しよう。お主はここにいろ」
コーデリア様が低い声でそう言うと、足音もたてずにドアの方へと近寄り、口を開きました。
「深夜の来客は断っておる。また明日、くるとよい」




