第73話 これが悪夢?
「僕は少し、サウル殿下の様子を見てくるから」
やがて、アルヴィ様はそう言い残して、部屋を出ていきます。
わたしもカサンドラも、その背中を見送って。
――どうしよう。
アルヴィ様がお戻りになったら、夢の件は話すべきなんでしょうか。
でも。
何となく、言い出しづらい感じがします。
アルヴィ様の過去――いいえ。
そもそも、あれは本当に過去の光景だったのでしょうか。
夢なんですから、わたしの勝手な想像が夢となって……なんてことも考えられるのではないですか?
「何、難しい顔してんのよ」
カサンドラがわたしの顔を覗き込み、ニヤリと笑って続けます。「とにかく、そろそろ食事が運ばれてくるみたいだし、のんびりしてましょ?」
「食事……」
わたしはぼんやりと言葉を返しました。
すると、コーデリア様がいつの間にかそばに立っていて、奇妙な表情でわたしを見つめて言います。
「気分が悪いのじゃろう。寝ておるとよい」
「はい」
わたしは素直にそれに頷き、ベッドに歩み寄って腰を下ろします。
「あら、優しいじゃない。魔物にしては」
カサンドラがコーデリア様をからかうような声が聞こえて、わたしはそちらに視線を戻します。そして、つい言ってしまいました。
「コーデリア様は優しいですよ、あなたより、ずっと」
「あらぁ」
カサンドラは不満げに鼻を鳴らします。「言うじゃない」
「あなたも、もう少し優しくなってくれたっていいじゃないですか」
「えー?」
「友達の前で、くらいは」
そこでカサンドラが眉根を寄せて唸ります。
「あら、アタシはリンジーだけには優しいわよ?」
「その割には失敗してるじゃないですか」
「失敗?」
「はい。嫌われてるじゃないですか」
「何言ってんの、嫌ってなんかないでしょ、ねえ?」
カサンドラがリンジーの方へ目をやると、そこには困惑と気まずさの入り混じったリンジーの双眸があります。そして、そっとカサンドラから目をそらすのです。
「え、嘘! 違うでしょ!?」
「わたし、思うんです」
わたしの口は、何だか勝手に動いているような気がしました。
頭がぼんやりして、上手く意識がまとまらない。今にも倒れこんでしまいそうだと思うほど、眩暈もします。
「あなたは、男性だったら問題なかったんじゃないでしょうか」
「はあ?」
「そうすれば、恋愛だって問題なかったでしょう? そうです、性転換してしまえばいいんです! 身体を入れ替える魔術が使えるなら、性転換だってできるんじゃないですか!? そうすれば! 何も問題なく、その子と結ばれたり結ばれなかったりするわけですよね!?」
「ちょ」
「ミア」
コーデリア様が『落ち着け』と言わんばかりにわたしの手首に触れ、何か言おうとします。でも、わたしはさらに言いました。
「そうすれば、恋人になれる可能性はゼロではなくて! わたしとは違って、期待できる未来があって!」
そこで、コーデリア様の冷たい手のひらがわたしの額に押し当てられました。
「……熱がある」
――熱?
何それ。
わたしはコーデリア様をすぐ近くで見つめながら小さく続けました。
「わたしには、きっと期待できる未来なんてない……」
「ミア」
コーデリア様がそれに続けた何か言ったような気もしましたが、わたしの記憶はそこで途切れています。
――暗転。
そしてまた、夢の中にいる。
わたしはぼんやりとそう考えました。
ただの暗闇の中に、一人きりで立ち尽くしている。辺りには何の音もなく、耳が痛くなるくらいの静寂が身体を包んでいます。
――不安。
じりじりと侵食しているその不安な思いは、わたしの心臓の鼓動を少しだけ速めました。
そして、だんだんと暗闇が色を帯びていき、明るくなって。
気づくのです。
わたしの足元が、赤く染まっていること。
血の匂いが辺りに充満していること。
――ああ、これが悪夢? アルヴィ様がおっしゃっていた悪夢?
まるで、他人事のようにそう考えます。
地面に広がる血は、じわじわと広がっていき。
やがてわたしの周りを全て覆いつくそうとします。
そして。
「破門してください」
そんな声が聞こえました。
冷ややかな声。
アルヴィ様の声。
でも、見渡しても誰もいません。
血の海の中に、わたしだけがぽつんと立っている。
でも、声はどこからか続きます。
「僕は、自分の欲望のために人間を殺しました。師匠の教えに背きました。だから」
「お前を一人にしておけない」
そう返ってきた声にも、聞き覚えがありました。
ヴァイオレット様が話していた相手――確か、グランヴィール様、という名前だったはず。
静かな、そしてアルヴィ様を気遣うような優しさを持った声。
でも。
「一人になりたいんです」
アルヴィ様の声は、何の感情も感じられませんでした。
血の海がさざめきます。
何か、話をしているかのように。
「一人は――、孤独はお前の心を殺すだろう」
グランヴィール様がそう続けて。
「ああ、いいですね」
アルヴィ様が小さく笑う。「何も感じられなくなるなら、それでも」
きりきりきり、と音が響きます。
耳障りな甲高い音。
そして、急に辺りが明るくなりました。
目の前に広がったのは、真っ白な世界でした。
色のない世界。
わたしは、それを見たことがあります。アルヴィ様の魔術によって映し出された、白銀の世界と呼ばれる場所。
白い地面、白い木々。
見上げれば、そこには白銀の世界の住人が空を飛んでいるのが解ります。
綺麗な、夢。
空を見あげたままの格好でそう思った時です。
真っ白で、僅かに奇妙な模様の浮かぶ空が暗くなっていきます。
まるで、絵の具を水の中に落としたかのように、奇妙な染みが空に広がりました。
空を飛んでいた住人たちが、甲高い声を上げて地面へと降り立ちます。
彼らが喉から上げている声は、威嚇のように思えました。
暗闇が広がっていく。
空が一気に暗くなる。
――これは、ダメだ。
わたしは自然と、唇を噛んで思いました。
戦わなくては。
気づけば、わたしの右腕には大ぶりの剣が握られています。
わたしの肉体は、エルネスト殿下の身体のままです。鍛えられた腕、足。
戦えるだけの力を持っていると解る、大きな肉体。
大丈夫、戦える。
剣を握りなおし、呼吸を整えて、わたしは空を見上げます。
黒い闇が蠢いて、名状し難い恐ろしい『何か』に変化していきました。
形を持たない魔物。
とても勝てる気がしない、恐ろしい相手。
でも、何もしなければ殺される。
戦わなくては。
「熱は下げたよ」
それは唐突に、アルヴィ様の声と共に終わりました。
わたしの目の前には天井があり、自分がベッドに横になっていることを把握すると、身体から緊張がほぐれていきました。
「……あれぇ」
わたしの喉から、掠れた声が上がりました。自分の声ではない、エルネスト殿下の声。
「大丈夫かい、ミア。僕が見える?」
その言葉に頷いて頭を動かすと、エルネスト殿下の部屋の中にはアルヴィ様とコーデリア様しかいないようでした。それと、ルーク。
「すみません」
わたしは反射的にそう言って。
わたしの顔を覗き込んでいるアルヴィ様は、少しだけ困ったような表情をしていました。
アルヴィ様はベッドのそばにあった椅子に座っていて、ルークはわたしの胸の上に乗っています。
「重い」
わたしがそう呟きながら上半身を起こすと、ルークの小さな身体が転がり落ちます。何か彼が文句を言ったように感じましたが、わたしはそれどころではありません。
「ええと、わたし……」
頭を掻きながら言葉を探します。
何だか酷く頭の中がすっきりしていて、身体も楽になっていました。
「夢を見たんだね?」
アルヴィ様が苦笑交じりにそう言うのを、わたしは申し訳なく感じつつ頷きます。
どう説明したらいいのか――と考えているわたしを、アルヴィ様は少しだけ見つめていたようでした。その後、こう言いました。
「色々重なってしまったみたいだね。元々、レストリンゲの実を食べると、魔力が身体に馴染むまでは体調が悪くなったりする。それに付け加えて、君は『何かやってしまった』ようだし」
と、彼の指がわたしの胸元へと指し示し、意味ありげに笑います。
何か、やってしまった。
カサンドラが言っていた、自己暗示、のことですよね。
「熱を出したのは、負荷がかかりすぎたためだろうね。でもきっと、そろそろ楽になるはずだ。君の肉体への治療は終わったし……後は、君がやった『何か』さえ解決すれば」
「何か?」
「そう」
アルヴィ様はベッドの脇で毛づくろいをしているルークを撫でつつ、肩を竦めて見せました。「それに関しては、君に任せるよ。君が自分で解決できるはずだと信じているからね」
――信じている。
何だか胸が苦しいです、アルヴィ様。
わたしは変な顔をしたのでしょう。アルヴィ様はそこで楽しそうに笑い、そして話を変えました。
「さて、どんな夢を見たか話してもらおうか?」




