第72話 穴を掘って埋めたい記憶
「事後って何?」
リンジーがわたしの疑問を代弁してくれました。
わたしがのろのろと身体をベッドから起こしている間に、リンジーは部屋の中央にある椅子に腰を下ろし、ぶらぶらと足を前後に揺らします。
「事後っていうのはね」
カサンドラがリンジーのそばに立って何か言いかけそうになる前に、コーデリア様が呆れたような声を上げました。
「説明するな、女」
「女って」
カサンドラが不満そうにコーデリア様の方へと目をやり、少しだけ強い口調で続けます。「アタシの名前くらい覚えなさいよ。魔物はこれだから」
「ふっ」
コーデリア様がベッドに座ったままで、鼻で嗤います。「覚える価値のない名前などいらんわ」
「価値ねえ……。ま、いいわ」
カサンドラはそこで怒るかどうしようか悩んだようでしたが、すぐにその口元に笑みを浮かべて見せました。「で、あなたたち、やったの?」
「やった? 何をですか」
わたしは乱暴に頭を掻きつつ、何とかベッドから立ち上がろうとします。
でも、なぜか眩暈のようなものを感じて息をとめました。
何でしょうか、あまり気分が優れないというか。
「だって、今、あなた男でしょ? そばに女がいたら、そういう気分にならないの?」
「ちょっと意味が解りません」
わたしは素でそう返してから、少しだけ考えこみます。
そして、自分の身体を見下ろして、次にコーデリア様を見ると彼女の視線がわたしに向けられているのが解ります。そして、そこにあるのはコーデリア様の呆れ切ったような表情。
そして、カサンドラの言葉はさらに続きます。
「そりゃ、彼女は魔物かもしれないけど、見た目は美女っぽいし」
「っぽいとはなんじゃ」
そこですかさず、コーデリア様の声が部屋の中に響いて。
「いや、あの、待ってください。それはおかしくないですか」
わたしは急に彼女が言いたいことに思い当って眉を顰めました。そして、カサンドラを睨みつけます。
「中身は女同士ですよ、わたしたちは」
「でも、肉体は違うでしょ? 噂によると、魔物との性行為ってすごくイイらしいじゃない? もしまだなら、やってみるってのも」
「いいか、女」
コーデリア様が疲れたような仕草で髪の毛を掻き上げ、小さくため息をこぼします。「余計な一言で身を亡ぼすこともあるのじゃ。沈黙は一番の美徳だというじゃろ」
「んー……、まあ、そうかもね」
そこで、カサンドラは肩を竦め、そっと笑います。
そして、わたしが冴えない表情をしているのに気付いたのか、目を細めてわたしを見つめ直してきました。
「どしたの、ええと、あなた名前何だっけ」
「ミア、です」
「じゃなくて、王子様の名前」
「ああ、エルネスト殿下、ですね?」
わたしがそう返すと、彼女はわたしの隣――ベッドに腰を下ろしてきました。そして、わたしの顔を覗き込んで眉根を寄せます。
「エルネスト殿下、なるほど。で、もしかして、体調が悪いの?」
「……そうですね。よく……自分でも解らないんですが」
わたしはただ頷いて見せます。
何だか思考能力が低下していて、説明する言葉が見つかりません。
身体がだるい。でも、気分が悪いわけでもなく、頭痛がするわけでもなく。
ただ、身体を動かすのが難しいのです。
「他人の身体じゃからのう。上手く操れんのだろう」
コーデリア様がそう言って、カサンドラが不思議そうに首を傾げました。
「そのくらい、大したことないと思うけど。アタシがあの男の身体を使って色々やっていた時だって、そんなに苦労しなかったわよ?」
――あの男。
アルヴィ様のことですよね、それ。
わたしが低く唸りながらカサンドラを見ると、彼女は意味ありげな表情を作って見せました。
「まあ、好きな男の身体に入ったんだったら、別の意味で元気になれるだろうけど。仕方ないかしらね、今の状況じゃ」
「うう」
わたしはさらに低く唸って不満を露にしたつもりでしたが、カサンドラにそれが通じるわけもありません。
そして、わたしもこれ以上考えるのを諦め、ベッドに座ったまま俯いて目を閉じました。
すると、カサンドラがからかうように言ってきます。
「ねえ、今のあなたは男の身体だけど、トイレとか無事に行けた?」
「あああああ」
わたしは思わず、ベッドに倒れこんで枕に顔を埋めました。
それは全力で忘れたかったのです!
トイレとか!
お風呂とか!
そりゃあ、行きましたけど、行きましたけど!
でも!
きっとこれが噂で聞いたことのある『誰にも言えない黒歴史』ってやつですよね! 思い出したくない記憶ってやつです!
穴を掘って埋めたい記憶ってやつです、きっと!
「あはん、ご愁傷様」
カサンドラがわたしの身体にもたれかかり、くくく、と笑い声を上げました。
そして、その時。
部屋の扉が開く気配がありました。
アルヴィ様の気配ではないと解ります。だとしたら、エウゲン様か、それとも召使の女性たちでしょうか。
わたしが慌てて身体を起こそうとした時。
「……兄者。軽蔑はしたくないんだが……残念だ」
と、聞き覚えのある声が部屋に響きました。
棘のある声。そして、わたし――『エルネスト殿下』を兄者と呼ぶのは一人しかいないわけです。
わたしが顔を上げると、サウル殿下がそこにいました。
他に人の姿はなく、サウル殿下だけ。
しかも、その表情は硬く、どこか敵意を感じるような双眸もあって。
わたしはカサンドラを押しやって、何とかベッドから身を起こしたのですが、わたしが口を開く前にサウル殿下は踵を返してしまいます。そして、足早に廊下へと出ていく気配だけがこの場所に残りました。
「あら、誤解を受けたかしら」
カサンドラが気まずそうに頭を掻いています。
――誤解。
わたし――エルネスト殿下がベッドに横になっていて、そのすぐそばにカサンドラと……コーデリア様の姿まであって。
どんな誤解なのか、なんて聞かなくても解ります。
「ま、まずくないでしょうか」
わたしがコーデリア様の腕に縋り付くようにしてそう訊くと、コーデリア様はただ疲れたように笑うだけです。
「記憶消す魔術あるけど」
カサンドラが軽く手を上げながらそう言うと、リンジーが遠くから呟きました。
「王子様に魔術をかけるなんて……無謀だよね」
「そーね。さすがにアタシにもそんな度胸はないわ」
カサンドラもすぐに頷きます。ちょっと待ってください、自分の発言に責任は持たない主義ですか?
「まあ、まずはどうするか相談すべきじゃろ」
コーデリア様がベッドから立ち上がり、その視線を部屋の扉の方向へ向けました。
わたしにも気配で解ります。
廊下を歩いてこちらに向かってくるのは、アルヴィ様です。その魔力の波動の強さで解るようになったのはとても不思議なことなのに、それを当然のことのように受け入れている自分はおかしいのかもしれません。
「何があった?」
部屋に入ってくるなり、アルヴィ様は困惑したようにわたしたちの顔を見回しました。その肩の上には相変わらずルークが伸び切ってだらけた姿を晒しています。
「ちょっとね、まずいところを王子様に見られちゃったみたいでね」
カサンドラがわたしに寄り添うような格好のまま言うものですから、わたしは慌てて彼女の身体を遠くに押しやりました。
男嫌いって話じゃなかったでしたっけ、この人は!
「どうした、ミア」
アルヴィ様は少しだけ困ったように笑い、そして小さな声でわたしに尋ねます。「顔色がよくないようだけど?」
「大丈夫です。その……」
わたしは先ほどのサウル殿下との一瞬のやり取りをアルヴィ様に説明します。
カサンドラと身を寄せ合っていたような形になっていたところを見られたこと。
その結果、どうやら怒らせてしまったかもしれないこと。
怒らせた……というか、軽蔑された?
何だか少し、不安がわたしのお腹の中を駆け巡っているかのようで、あまり気分がよくありません。
「まあ、それは何とかしよう。ミアとサウル殿下との接触はこれからできるだけ減らす予定だしね」
わたしたちの話を聞いて、アルヴィ様は困ったようにため息をこぼしましたが、その穏やかな表情は変わりませんでした。
だから安心したというのもあります。
アルヴィ様に任せておけば、何も怖いことなんてない。そう思えたから。
「君は少し休んでいた方がいいね。食欲はある?」
アルヴィ様はやがてそうわたしに言います。そしてわたしはアルヴィ様に心配をかけたくなくて、にこりと笑って頷きます。
「はい、大丈夫です」
そう返すと、アルヴィ様も少し安堵したように口元を緩めました。
「何も悪い夢は見てないね?」
そこで、アルヴィ様がそう続けて。
わたしは反射的に「はい」と笑顔で頷きました。
でも。
――悪い夢?
ちょっとだけ、昨夜の夢を思い出して内心、焦っていました。
あれは『悪い夢』だったのでしょうか。昨夜、見たあの夢。
あれはもしかしたら、アルヴィ様に伝えなくてはいけない夢なのでしょうか。
でも、わたしが悩んでいる間にアルヴィ様はカサンドラの前に立って、色々話を始めてしまいました。
だから、さっきの返事を撤回する機会を失っていました。




