第7話 いいじゃないですか、健康だと思っていれば
「いや、確かにその壺は高価なものなのですよ!」
ヒューゴ様は、唾を飛ばすような勢いで叫びます。そして、どたどたと召使の少女たちのほうへ歩み寄ると、その布に包まれた壺の破片を奪い取ろうとしました。
そして、布の間から破片は滑り落ち、硬い床の上に落ちて耳障りな音を立てます。
「あ」
少女たちがそれぞれ、驚いたようにそれを見下ろしています。
さらに、破片は細かく床に四散したからです。
「ところでですね、ご主人」
アルヴィ様は穏やかに続けます。「あなた様とお会いして、気づいたことなのですが、体調はいかがでいらっしゃいますか?」
「……は?」
ヒューゴ様の表情は、何とも言い難い微妙なものでした。見下ろしていた壺の残骸を、どうしたいいのか悩んでいたようです。
しかし、すぐに我に返って顔を上げた途端、そんなことを言われて動きをとめました。
「体調、とは」
「いえ。随分と顔色が悪いようでいらっしゃいますから」
「それはこの壺が割れ」
「最近、動悸など激しくないでしょうか? 呼吸が苦しいことは?」
「いやだから、あなた様がミア嬢をですね」
「眠っていて、息苦しさに目が覚めることは? 記憶力の低下、五感の鈍りなどは?」
「は?」
「ああ、そうか」
そこでアルヴィ様は何かに気づいたように言葉を切り、申し訳なさそうに笑います。「もう、かかりつけの医師がいらっしゃいますか。あなた様のような裕福なかたでしたら、それも当然。しかし、あまり腕はいいとは言えないようですね」
「いや、あの、何の話を」
「いえ、あなた様の肉体を蝕む病の話ですが。他に何の話をしろと?」
「病?」
そこでヒューゴ様が眉根を寄せてアルヴィ様をまじまじと見つめました。
わたしはこっそりと、アルヴィ様の背後から顔を覗かせ、二人の様子を窺います。
あまりにも自然体で、悠然としたアルヴィ様の言葉に、だんだんヒューゴ様は不安を感じられたのか、困惑混じりの声を上げました。
「いや、私は全くの健康で」
「まさか」
アルヴィ様はそこで笑顔を消したようでした。その声が少しだけ低くなります。
「かかりつけの医師、いらっしゃいますよね? 以前、診てもらったのはいつですか?」
「かかりつけの医師は確かにいますが、そんな……あの、一体」
「何もお聞きになっていらっしゃらない? ……なるほど」
「リンダール殿?」
一瞬の間。
アルヴィ様はふ、と笑いました。
「ミア」
急にアルヴィ様がわたしのほうへ振り向きます。
「え! あ、はい!」
わたしは慌てて背筋を伸ばして応えます。
「少し時間を引き延ばせば、問題ないことだったね」
「え?」
わたしもヒューゴ様と同じような表情をしたことでしょう。それは困惑顔。
だって、一体、何をおっしゃっているのか。
「面倒だから放っておくという手もあるよ。どうやら、こちらのご主人はもう長くはないだろうから、君の件はもうどうでもいいだろう」
「え、えええ?」
「ちょ、ちょっとお待ちください」
ヒューゴ様がおろおろとした様子で――むしろ、挙動不審といっても間違いではない動きでアルヴィ様の前に駆け寄ってきます。その足元がふらついて見えたのは気のせいでしょうか。
「私は健康です。健康ですよね?」
アルヴィ様の胸元を掴むようにして、ヒューゴ様は縋る目つきでそう言います。
アルヴィ様は少しだけ彼から目をそらし、何事か考えこんだ後にこう返します。
「ああ、うん、健康ですね」
「長くないと言ったじゃないですか!」
「ああ……」
そこでアルヴィ様はヒューゴ様の手を自分の服から引きはがすと、微かに微笑んで見せました。「まあ、信じる者は救われると言いますし。いいじゃないですか、健康だと思っていれば」
「ちょっとお待ちください!」
「それとも」
そこでアルヴィ様は笑顔を消しました。その右手を軽く上げ、魔術の呪文の詠唱らしき呟きが形の良い唇から漏れ始めます。
何かの蒸気が立つかのように、白い光がゆらりとその手のひらから生まれます。それはやがて炎のように揺らめき、その中に小さなものが『生まれ』ました。
それは小さな小さな瓶でした。
透明な瓶の中に、緑色の液体が入っています。その液体は水が沸騰している時のようにごぼごぼと泡を吐き出していて、まるで生き物のようにも思えました。
「あなたの命を救う薬があると言ったら、あなたはどうされますか?」
「薬?」
そこで急にヒューゴ様の眼に疑惑の色が浮かびました。
でも。
「あ、ああ」
ヒューゴ様が目を見開いて、驚いたように続けました。「リンダール、思い出した、思い出しましたよ! あなた様は確か、国王陛下の命を救ったとされる魔術師様ではありませんか!? そして、莫大な報酬を得た……と。え、ええ?」
「え? そうなんですか?」
わたしも驚いてアルヴィ様を見上げます。
アルヴィ様はわたしを見ることはありませんでした。その視線はヒューゴ様に向けられたままで。
でも、その笑顔があまりにも穏やかで。
それなのに、迫力があって。
思わず、息を詰めて見つめることしかできません。
「受け止めろ、娘」
急に、ルークが翼をばたつかせてアルヴィ様の肩から離れ、わたしのほうへと飛んできました。その小さな身体を抱き留めると、ルークが呆れたように口を開きます。
「商売モードのご主人の気は苦手にゃ」
「商売……」
わたしはおざなりにその小さな身体を撫でました。
「手ぇ抜くな。真面目に撫でれ」
「そんなことを言われても」
「さて、ご主人。どうされます?」
アルヴィ様の声はさらに低く、この場の空気を引き裂くかのような力を放ち始めます。
その笑顔は限りなく美しいもので、わたしの視線はどうやってもそちらに向いてしまいました。
「どう……?」
ヒューゴ様が促すように声を上げると、アルヴィ様はとんでもないことを言いました。
「この薬の値段は一千万ゴルト。あなた様がミアの父親に請求した、壺の値段といきましょうか?」
「何ですと!?」
さすがにヒューゴ様が凄まじいまでに不満を露にした悲鳴を上げます。
でも、アルヴィ様は穏やかに、そして突き放すように冷ややかに続けました。
「長生きするための値段。お高いですか?」
「当たり前でしょう!」
「しかし」
アルヴィ様は困ったように床の上の破片を見下ろして首を傾げました。「その壺と交換なら、安いと思うのですが」
「あ」
ああ、そうか、と言いたげなヒューゴ様の気の抜けたような声が響きました。