第69話 大人と子供
「……いえ」
――好き、ですよ?
わたしはぼんやりとそんなことを考えます。
言葉に出すのは恥ずかしいけれど、アルヴィ様のことはお慕いしています。そう、好き……だと思うのですが。
「わたし……わたしは」
――あれ?
「自己暗示、って言いました?」
わたしはそうカサンドラに尋ねます。
そういえば、コーデリア様もアルヴィ様も、気になることをおっしゃっていたと思います。
アルヴィ様はわたしに『何をした?』と。
わたしはただ――ただ、厭だったんです。
アルヴィ様のそばに、誰か……別の女の子がいたりするのは。
たとえそれがわたしという肉体でも、中身は違うわけで。
その別の人格の人間が、アルヴィ様のそばにいたり、ルークを抱きしめたり、まるで何だか、ずっと前からそうしていたかのように。
そんなの、何だか受け入れられなくて。
そして多分、そう感じてしまう自分がみっともないと思ったんです。
だったら、そう感じなければいい、と。
そう、鏡に向かって自分に言い聞かせて。ただ、それだけなのに。
「あれが、自己暗示になった?」
と、小さく呟きます。
でも確かに、それから楽になったような気がします。何も気にせず、気楽にいられるような気が。
しかし、そんなに簡単に自己暗示にかかるなんて……あり得るでしょうか?
「あなた、結構魔力あるでしょ?」
カサンドラが楽しそうに笑いながら言いました。「気をつけなさいよ? そういう、単純な魔術っぽいのが一番厄介なんだから」
「魔術っぽい?」
「そうよぉ。だって、魔術の呪文があるなら、それを読み解けば他人でも解除できたりするけど。あなたがやったのは、ただの魔力による自己暗示。他人が解くのは難しいし、かけた本人だって、どうやって解いたらいいのか解らないこともあるの」
「そうなんですか」
わたしはそこで考えこみました。
どうやって解いたらいいか解らない自己暗示。
じゃあ、解けないことだってある?
もしそうだとしても、どうでもいい、かな。
今のままでも、全然困らないような気がします。楽に生きていけるなら、何でも。
アルヴィ様のそばにいて、生活していけるのなら何でも。
「でもね、忠告しておくわ」
カサンドラがニヤリと笑って続けました。「楽に生きていけばいくほど、後になって辛かったりするのよ」
「どういう意味でしょうか」
「人間ってね、きっと、若い時から色々苦しんで成長した方が、痛みが少ないんだと思う」
「痛み、が?」
「そう。痛みに慣れるから、じゃない? 大人になってから苦しむと、それが致命傷になることもあるし」
「致命傷……?」
どういう意味なのか、ちょっとよく解りませんでした。
わたしが眉間に皺を寄せて考えこんでいると、さらにカサンドラが笑います。
「いい女になるには、苦しみなさい、ってことよ。酸いも甘いも知るってのが、利口な女になる条件」
「んー……」
「子供なのね、あなた」
「大人ですよ」
「あらぁ。恋の痛みから逃げ出すあなたが大人?」
そこで、カサンドラの声にからかうようなものが混じりました。そして、彼女の手がわたしの頬に触れます。
とても、女性らしい手つきで。
わたしの目の前に迫った彼女の表情も、とても艶やかなもので。
「うう」
情けなくわたしが呻くと、彼女はさらに言いました。
「そのうち、大人になれば解るわよ。好きな相手と一緒にいるのが幸せなのか、それとも、自分を好きになってくれる相手といるのが幸せなのか」
「……何ですか、それ」
わたしが彼女を軽く睨みつけると、彼女の手がわたしの頬から離れました。
「解らないから子供なんでしょ?」
「うー」
不満を露にわたしが唸ると、彼女はくくく、と笑います。
「ただ一つ言えるのはね、好きになった相手が自分を好きになってくれるのは、奇跡のようなものってこと。何も努力しないで手に入れられる幸せなんて、小さなものなのよ」
「……わたし……努力していない、ですか」
「努力、した?」
「して、ない、かも」
「ほらね?」
何だかまた、不安が心の中に芽生えます。わたし、何か間違ってしまったのかもしれない、と思ったから。
「キャシーは大人、だよね」
ふと、わたしたちの会話を黙って聞いていたリンジーがそう言いました。
彼女は部屋の隅にある椅子に座り、ひどく真剣な表情でカサンドラを見つめています。
「どうしたの?」
カサンドラが少しだけ心配そうに彼女を見つめ、リンジーの方へ歩み寄りました。
リンジーは椅子に座ったまま、彼女を見上げて言葉を続けます。
「そしてわたしは子供なのよ、キャシー」
「リンジー?」
「キャシーは色々な経験をしてきたんでしょう? わたしが……ずっと眠っている間」
「それがどうしたの?」
「キャシーはわたしのことを友達と言ってくれるけど、もう立場が違いすぎると思う。あなたは、わたしの知ってるキャシーじゃないし、昔のわたしたちのようには戻れない。わたしはまだ子供のままで、あなたは大人。もう、対等な関係じゃない」
「ちょっとぉ、何それ」
そこで、リンジーが力なく微笑みました。
それは、とても大人びた表情に見えます。幼い少女が持つ無邪気さとは無縁の、苦しみに満ちたもの。
「キャシーだって、本当は解ってるんでしょう? わたしたちの関係は、歪んでる。キャシーはわたしに起きたことに責任を感じて、わたしと一緒にいるだけ。わたしはそれがとても悲しいし、つらい」
「でも」
カサンドラが彼女のそばに膝をついて、リンジーの小さな手を握りしめました。「友達なのは違いないのよ。アタシたちは、ずっと」
「ねえ、キャシー」
リンジーは一瞬だけ唇を噛み、思いつめたような瞳で続けるのです。「フェルディナンド王国に戻ったら、一度、離れてみよう? わたし、一人で生きていけるようにするから。あなたには迷惑をかけないようにするから」
「ダメよ。だって、アタシ」
「カサンドラ」
リンジーはそこで、『キャシー』ではなく『カサンドラ』と名前を呼びました。
それは、彼女を突き放すだけの力を持って響いたと思います。
「ありがとう。わたしを助けてくれて、本当に感謝してる」
――大人、なんだ。
わたしはそこで理解しました。
リンジーは確かに子供だけれども、わたしよりもずっと大人なんだ、と。
そういえば、シュタインが言ってたじゃないですか。わたしのことを世間知らずな子、と。
わたしは今まで、何も苦労しないで生きてきたと思います。小さな街に住んで、何も苦しむことなく育ちました。
だから……まだ、子供なんだ。
考え方も、何もかも。
そう気づいたら、胸が少しだけ苦しくなって。
でも。
こうやって悩むことが、大人になる一歩なのかもしれない、と思いました。
「と、友達がダメなら」
カサンドラが口早に、そしておろおろと続けました。「将来的に、恋人という形でも」
「やだ」
と、リンジーがカサンドラの言葉を一刀両断しました。
カサンドラはどうやら、地の底まで落ち込んだ、という様子でエルネスト殿下の部屋にいましたが、リンジーはそれを放置していました。
もちろん、わたしもその二人を見守ることしかできず、結果、放置という形になりました。
色々考えたいこともあったので、わたしも無言のままぼんやりと過ごして。
そして。
その日、アルヴィ様は忙しかったのか、夕食の場に姿を見せませんでした。
エウゲン様が夕食時に姿を見せ、エルネスト殿下のベッドで眠っていたミアを抱き上げ、連れて行ってしまうのを見送ります。
そして、それと一緒にカサンドラとリンジーも部屋を出ていってしまいます。
結局、わたしは一人きりでエルネスト殿下の部屋で食事をすることになりました。
一人きりの食事は酷く味気なく感じて、でも、ちょっとだけほっとしていたりもしました。
何となく、アルヴィ様にどんな表情でお会いしたらいいのか解らなかったから。
わたしには考える時間が必要でした。
コーデリア様に話を聞いてもらいたいとも思いましたが、まずは自分だけでゆっくり考えるべきだ、と。
そうしているうちに夜は更け、わたしはベッドに横になります。
そしてまた、夢を見ました。




