第67話 完全なるカオス?
「こりゃ、やべーんじゃねーの」
アルヴィ様の肩の上で、ルークが小さく呟くのが聞こえました。
何が? とわたしが彼の方に目をやると、アルヴィ様も複雑そうな表情で彼を見ています。彼――サウル殿下を。
サウル殿下は、怯えたように俯いているミアを見下ろしたまま、言葉を探しているようでした。
その表情は、何だか。
少しだけ、目元に熱を感じているかのように、赤みを帯びているようで。
「こりゃアレだろ、フォーリンラブってやつ」
ルークが続けてそう言うと、アルヴィ様が小さく舌打ちしたのが聞こえたような気がしました。気のせいでしょうか。
わたしがルークの言葉を信じられずに、何度もサウル殿下とアルヴィ様の顔を交互に見つめていると。
「名前……教えてもらえるか?」
サウル殿下がまたそう言って。
ミアがサウル殿下の手を何とか振り払い、カサンドラの背後に隠れました。
「申し訳ありません、サウル殿下」
そこに、アルヴィ様が静かに口を挟みました。「彼女は僕の弟子です。何か、お気に障ることでも?」
「弟子?」
サウル殿下の視線がアルヴィ様に向けられます。そして、その表情が強張ったようでした。
「ええ、僕は魔術師です。彼女は僕の大切な弟子ですが、あまり高貴な方たちとお話しするのに慣れていません。ですから、殿下……」
――大切な。
少しだけ、わたしの心臓が震えた気がしました。
でも、それだけです。
あれ、と思いました。
今までのわたしだったら、そんなことを言われたら鼻血とか出しててもおかしくないくらい、とんでもなく嬉しく感じたはずなのに。
わたし……どうしたんでしょうか。
「魔術師の弟子……」
そこで、サウル殿下が近くにいた自分の側近らしき騎士様に声をかけます。「魔術師という存在は、我が国にも重要なものだな?」
「ええ、殿下」
急に話しかけられて、その騎士様は困惑したように眉を顰めました。「しかし、それが何……」
「弟子というからには、それほど立場も上ではないだろうし……」
「あの、殿下」
「君、どうしてもこの師匠のところにいなくてはならないのだろうか」
と、またサウル殿下がミアの方へ目をやります。「我が国も、こちらと同じく平和で豊かな国だと言えるのだが」
そこで、カサンドラがミアを背後に庇いつつ、不満そうに顔をしかめます。
「あらぁ、女の子が怯えているのに、ちょっと押しが強すぎるんじゃないの?」
「カサンドラ」
アルヴィ様が鋭く彼女を制止しようとします。でも、カサンドラの言葉はそう簡単にはとまりませんでした。その表情も、明らかに敵意に満ちたものが混じり始めています。
「アタシ、女の子をいじめる男って敵としか思えないわ」
「女! 口を慎め」
先ほど、サウル殿下に声をかけられた騎士様が、一歩前に出てカサンドラに詰め寄ります。でも、カサンドラがそれに怖気づくはずもなく。
「何よ」
そう言いながら、騎士様を睨み返します。
「いや、いじめているわけでは」
そこで、サウル殿下が慌てたように二人の間に割り入って、申し訳なさそうに微笑むのです。「その……急に色々言いすぎたかもしれない。少し……その」
妙に歯切れの悪い口調のサウル殿下を見つめ、カサンドラが少しだけ口調を和らげました。
「ね、もしかして……好きなの?」
「え……」
そこでサウル殿下は少しだけ考えこみます。
驚いたようにカサンドラを見つめた後、小さく続けます。
「そう、なのだろうか」
「あらぁ」
カサンドラは楽し気に笑い、その口元を自分の手でたおやかな仕草で隠しました。それは、本当に女性らしい、色気のある動きでしたが。
「でもね、ダメよ?」
「え?」
「この子はね、先約があるから」
「先約?」
サウル殿下の声が急に沈んだように暗くなって。
カサンドラが、急に背後に隠れていたミアの腕を掴み、自分の前に立たせます。そして、背後から彼女を優しく抱きしめて微笑みました。
「そう、この子はアタシのお手付き、ってわけ。そりゃもう、やることやってるんだからね? アタシもこの子も、女の子にしか興味がないんだから、手を出しちゃダメよ?」
「な」
わたしが思わず、叫びそうになった瞬間。
アルヴィ様が無言で肩の上に乗っていたルークを掴み、その小さな身体をわたしの顔面に押し付けました。
「にゃ」
ルークが必死にわたしの顔にしがみついて、滑り落ちないように四つの脚を踏ん張っているわけですが。
それよりも何よりも気になるのは。
猫のふさふさした腹毛が口の中に入りそうだということ。
アルヴィ様はわたしに黙っていろ、と言いたくてこんなことをしたのかもしれません。
でも。
これって、ひどくないでしょうか。
「女の子にしか……興味がない」
サウル殿下が茫然としたようにそう呟いた後、その表情を引き締めました。「それは、間違っていると思う」
「何が?」
カサンドラがひどく艶めかしい手つきで、ミアの喉に手を這わせると、ミアがどうやら緊張と混乱で限界を迎えたのか、その場で意識を失ってカサンドラの腕の中に倒れこみました。
ぐにゃりとした少女の身体は、こうして客観的に見てみるととても無力で、可哀想に見えます。
そして、何だか退廃的な雰囲気が、カサンドラとミアの間に生まれたような。
――ま、まずいんじゃないでしょうか、これ。
わたし、どうすればいいですか。
「彼女を放してくれ」
そう言って不快感を露にするサウル殿下を前にしても、カサンドラは落ち着いた様子でミアの身体を抱え上げ、ニヤリと笑って続けます。
「イヤ。この子はアタシのだもの。あなたこそ、こんなことより重要なことがあってきたんじゃないの? アタシたちのことは放っておいてよ」
「しかし」
「そうです、サウル殿下。あなた様は――もっと重要な」
そこで、エウゲン様もやっと我に返ったのか、何とかこの場に流れる奇妙な空気を元に戻そうとしてくださったのですが、やはり成功はしませんでした。
「やはり、女性同士というのは間違っていると思う」
思いつめた目つきでそうサウル殿下が言って、エウゲン様のことは全く目に入っていないようでした。どことなく咎めるように、サウル殿下はカサンドラに言います。
「君が何者なのか解らないが、間違った道を進もうとする者を正しい道に導くのは、当然のことだ。だから」
「言いくるめるのは失敗だね」
アルヴィ様がそこで小さく呟いた後、軽く手を上げて大きな声で言いました。「僕の弟子たちがご迷惑をおかけして申し訳ありません。直ちに、僕の住んでいる国に追い返しますので、どうかお許しを」
「住んでいる国?」
サウル殿下が疑問に満ちた目をアルヴィ様に向けます。
「ええ、フェルディナンド王国に」
「この国の人間ではないのか」
「ええ」
「ならば、兄者やメリーライネンの国王陛下に気を遣う必要もない。彼女の身柄を引き受けたいのだが、許してもらえるだろうか」
「それは無理ですね」
「なぜだ」
「だから、僕の大切な弟子だと――」
もう、完全なるカオスというべきでしょうか。
アルヴィ様も呆れたようにサウル殿下を見つめ、その場にいる騎士様たちも似たような表情で、どうしたらいいのか解らない様子でした。
そして、わたしもどうすればいいのか。
思いつめた様子で、人の話を聞かないサウル殿下を、何て言えばとめられるのでしょうか。
っていうか、本当に、そうなんでしょうか?
サウル殿下は、本当にミアを――中身はエルネスト殿下なのですが、本当に好きなんでしょうか?
でも、それこそ間違ったことじゃないですか?
そりゃあ、身体は女性ですが、中身は……んんん、間違ってる?
サウル殿下は男性で、ミアは女の子。間違ってはいない?
でも、ミアの中身は男性で。
んー?
だんだん、わたしも訳が解らなくなってきました。
でも、どっちにしろ、わたしたちはいつか身体が元に戻るわけです。わたしが元の姿に戻ったら、わたしがサウル殿下にあんな風に言い寄られるのか、それとも、中身は別人だから興味がなくなるのか。
しかし結局、困ったことになっているのは間違いないのです。
とにかく、サウル殿下に諦めてもらうにはどうすればいいのか。
「あ、そうか」
わたしは思わず、顔にへばりついたままのルークを引きはがし、名案だと思ったことを口にしました。「彼女はわたしの――婚約者です」
あれ、エルネスト殿下の口調はこうじゃなかったはず。
そう、口調は。
夢の中でも見たし、エウゲン様からも聞きました。もっと男らしくて、特徴のある言い方をするはずで。
わたしは慌てて言い直しました。
「彼女は俺の婚約者なんだ、兄弟」
「……婚約者?」
サウル殿下が驚いたようにわたしを見つめて。
アルヴィ様が凄まじいまでの明るい笑顔でわたしを見つめました。
あ、まずい。
アルヴィ様、怒っていらっしゃる。




