第63話 封じ込めてしまえばいい
「自分の気持ちが一番よく解りません」
わたしはコーデリア様の向かい側に置かれた椅子に座り、テーブルに突っ伏して低く唸ります。
わたしは……おかしいのかもしれません。
だって。
「一度決めたことも、こんなに簡単に揺らいでしまいます。わたしの願いは……アルヴィ様のそばにいられるだけで充分だったと思うのに。何で今、こんなに不安なんでしょうか」
そう。
やっぱり、そうなんです。
何だか不安。何も心配することないはずなのに、どうして?
「お主はあの男が好きなんじゃろう?」
コーデリア様のその言葉に、わたしは顔を上げて彼女の静かな微笑を見つめました。
コーデリア様はわたしをからかう様子もなく、テーブルに気だるげに頬杖をつき、優しく続けます。
「あの男、アルヴィ・リンダールを」
「そうです」
わたしは反射的にそう言って。
わたしを助けてくださった方だから。尊敬もしていますし、それに。
「恋、なんじゃろ?」
その言葉が、胸に突き刺さりました。
「ちが」
――違います、と言いたかった。
でも、言えない。それにどうせ、コーデリア様にはこんな嘘は通じない。
「……そう、なんだと思います」
わたしは必死に目を瞬きして、涙がこぼれないようにとしたのにそれは無駄な努力でした。
頬に伝い落ちていくそれを慌てて手の甲で拭い、そして男らしいその手を見て苦笑します。
――みっともない。
今のわたしは、涙なんか見せてはいけない人間だと思うのに。
「ずっと、好きでした」
「好き『でした』?」
コーデリア様は意地悪だと思います。
わたしは小さく首を横に振って続けます。
「好きです」
「そうじゃろうな」
「でも、解ってます。これは、無理な想いなんです。アルヴィ様には……」
「想い人がいるからのう」
「はい」
「妾は思うのじゃがな」
「はい」
「お主はあの男から離れるべきじゃ」
「え?」
「あの男から離れ、家族と暮らした方が幸せになれる」
わたしはコーデリア様に言い返そうとしました。
でも、言葉が見つかりませんでした。
「一番楽な方法がそれだと思うがどうじゃ? あの男のそばにいる限り、そなたは苦しみ続けることになる。何しろ、今、そなたの身体と入れ替わった輩があの男のそばにいるだけで落ち着かんのだろう? これがもし他の女ならどうじゃ」
「それは……それでも」
わたしはアルヴィ様のそばに――置いていただくだけで。
そう、思ってたはずなのに。
わたしは唇を噛んでコーデリア様を見つめ返します。
すると、彼女はくくく、と笑い声を立てました。
「そなたにとっては、忘却こそが治療かもしれんな。もしも我慢ができないようであれば、そなたの記憶を――あの男に関する記憶を消してやってもよい。そうすれば、万事解決じゃ」
「解決なんかじゃありません」
わたしは力なく首を横に振ります。「それは逃げです。ダメです」
「それならば、どうしたいのじゃ」
「記憶も……宝物なんです。きっと、そう。わたしにとって、アルヴィ様への想いとか記憶は消されたくないもの……なんです」
「ならば、記憶は抱えたまま、その恋は諦めるしかないじゃろ」
コーデリア様の口調は優しいのに、どうして言葉は凶器になるんでしょうか。
解ってるんです。
この想いが無駄なことは。
アルヴィ様にとっても迷惑だってことは。
アルヴィ様は優しいから、わたしをそばに置いてくださっているだけで。
それ以上のことは何も起きるはずなんかない。
解ってるのに。
「正直に言おうか、娘」
「ミアです」
「お主はどうやら、料理が上手いらしい。だから今のところ、あの男もお主を手放すのは惜しいと感じている。じゃが、それだけじゃ。それ以上の魅力はない」
「正直すぎませんか」
わたしのその声は震えていたと思います。
「魅力は他にないのか、娘」
「ミアです」
「人間には忘却という便利な機能がついておってな。それはおそらく、あの男も例外ではない」
「あの、何の話を」
「あの男が、あの女を忘れるまで待つか?」
「……そんなの」
現実的ではないと思います。
アルヴィ様は、きっとヴァイオレット様を忘れることなんかないと思います。あのお屋敷の二階の部屋を見れば。
絶対に……そんなことは。
「ならば、どうする?」
「……どうする、とは」
「ミア。妾は思うのじゃがな、結論が出ていない限り、お主はいつまでも悩むじゃろう。あの男から離れるのが厭なら、どうするのじゃ」
「どう……」
わたしは少しだけ言葉を探しました。
どうすれば、いいんでしょうか。
アルヴィ様のそばにいるためには。一体、どうすれば。
料理を気に入ってくださっている?
それはおそらく、勘違いではないはずです。アルヴィ様はわたしをほめてくださっています。
でも、今のわたしの価値は、それだけ。
だから、不安になるのかもしれない。無意識のうちに、それを理解していたから。わたしの価値がアルヴィ様にとって、あまりないことを。
簡単に取り換えのきく人間であるということを。
だから、コーデリア様の言葉は事実です。
では、どうすればいいのか。
「レストリンゲの実」
わたしの唇が動きます。そして、急にそのことに思い当って胸が熱くなりました。
そうでした、可能性はあるじゃないですか!
ほんの少しでも、アルヴィ様がわたしを必要としてくださるかもしれない方法が!
「わたし、少しでもアルヴィ様のお役に立てるのだとしたら。それで、少しでもアルヴィ様が喜んでくださったら、一緒にいる意味ももう少しできますよね? もっと、自分に自信が持てるはずですよね?」
「何?」
コーデリア様がそこで呆れたように首を傾げます。
「わたし、コーデリア様が苦労して手に入れてくださった、レストリンゲの実を食べました。だから、魔力を持つことができたんです」
「ああ、確かに」
「だとしたら、頑張って魔術を習得して……アルヴィ様に必要としていただけるくらい、すごい魔術師になれたら……きっと、自分に自信を持って生きていけるんじゃありませんか?」
そうしたら、わたしはきっと、今よりずっと幸せになれるような気がします。
きっと、そう、きっと。
「本当に愚かじゃのう」
コーデリア様の口調は多少、嘲るような響きを含みましたが、奇妙なことに今のわたしにはそれが響いてきませんでした。
「とにかく、わたしは頑張らないと! アルヴィ様のお役に立つために!」
「そうか?」
「はい!」
わたしはそこで椅子から立ち上がり、背筋を伸ばして辺りを見回します。「まずは、今のこの状況です。神事というのを無事に終わらせて、早くお屋敷に帰って……アルヴィ様に魔術をもっと教えていただかないといけません!」
そう決意を新たにした直後、その部屋の中に大きな鏡が壁に取り付けてあるのが見えました。その鏡に歩み寄ると、エルネスト殿下の顔が映ります。
精悍な王子様。
男らしい体つきの、女の子だったら誰もが目を奪われるかもしれない、綺麗な顔立ちの方。
悩んでいる時間がもったいないと思います。
まずは、現在のこの問題を解決しないといけないのです。自分のちっぽけな悩みなんか、どうでもいいのです。
だから。
わたしは鏡に右手を伸ばし、その冷たい表面に触れて自分に言い聞かせます。
「アルヴィ様のお役に立つことが重要です。わたしの想いなんか、こんな気持ちなんか……封じ込めてしまえばいいんです」
エルネスト殿下の唇が動くのを鏡の中で確認し、そして。
少しだけ、わたしの心が冷えたような気がしました。さらに、頭の中が奇妙なまでにクリアになっていく感覚が生まれます。
そう、封じ込めてしまえばいい。
封じ込めてしまえば。
その途端。
一瞬だけ、わたしの頭に痛みのようなものが走りました。それは本当に一瞬で、すぐに消えてしまいました。
軽く頭を振って、わたしはもう一度鏡の中を見つめます。
結論は出ました。
これでいいんです。間違ってなどいません。
「それは悪手だと思うのじゃが、そなたがそれでいいと言うなら」
コーデリア様の声を背後に聞きつつ、わたしは頷きます。
その直後、コーデリア様が椅子から立ち上がった気配がして、わたしは振り向きます。すると、その場にはコーデリア様の姿はなく、床の上に小さな青い蛇がいるだけで。
青い蛇――コーデリア様が小さく囁きました。
「来客のようじゃ。気を引き締めるとよい」
「はい」
わたしがそう頷いた直後、ドアがノックされる音が響きました。




