第59話 王位継承者がやらねばならない
「白銀の世界というのは……」
と、アルヴィ様は言葉を続けようとして、突然、その次の言葉を飲み込みました。そして、真剣な表情でエウゲン様を見つめ、短く言いました。
「めんどくさいですね」
「は?」
エウゲン様が眉を顰めると、アルヴィ様は少しだけ考えこんだ後、そっと微笑みました。
「突然ですが、説明はしなくても大丈夫だと気づきました」
「どういうことだ」
「早い話が、あなたがたが抱えているこの問題は、続いたとしてもせいぜい一か月でしょう。やがて、この方――何とかという殿下は元に戻りますから、放置いたしましょう」
「何? それは一体」
「ですから、放っておいても解決しますので、無駄に報酬など払わなくてもいいのですよ」
「しかし……」
そこで、エウゲン様は顎鬚に手を当て、何事か考えこんでから首を横に振りました。「一か月も続かれると困るのだ。やはり、何とかしてもらわねばなるまい」
それを聞いて、アルヴィ様の表情が僅かに曇りました。
そして、辺りに響くため息。
「元に戻してもらわねばならない理由を説明しよう」
エウゲン様がそう言うと、アルヴィ様は小さく頷いてお屋敷の方へ足を向けました。
「では、外は暑いので中へどうぞ」
そのアルヴィ様の言葉にエウゲン様は安堵したように頷いた後、そのそばにいらっしゃったエルネスト殿下を促してお屋敷の応接間へと歩いていきました。
「一週間後には、メリーライネン王国にて神事が行われる」
応接間のソファには、エルネスト殿下とアルヴィ様が座り、他の人間は立っているという状況でエウゲン様が話し始めました。
馬車のそばには騎士様たちが見張りとして残っていますので、それほど窮屈さは感じないはずですが、エルネスト殿下とエウゲン様のお二人の筋肉隆々の姿のせいか、妙な圧迫感はありました。
「神事とは?」
アルヴィ様は疲れたようにそう訊きます。まるで、仕方なく訊いているといった様子で。
「メリーライネン王国には、姉妹国というものがある。その国――クラーキン王国には大昔、我が国王陛下の血筋の方がそちらに嫁いでおってな、それからというもの、何百年も続く親交を大切にしている。そして、親交の証として、二つの国の合同で行われる神事というものがあるのだよ」
「クラーキン王国というのは、メリーライネン王国の隣の国ですね」
アルヴィ様はそう言った後、ドアのそばに立っていたわたしに視線を向けました。
そして、ソファに座ったままの格好で、右手を上げて何事か呪文を唱え始めます。その途端、何もなかった空中に、光輝く大きな地図が現れました。
テーブルの上に浮かぶ、透明な布のような地図。
何というか、不思議な光景です。
「おいで、ミア。地理の勉強をしよう」
アルヴィ様はその地図を指さしながら、わたしに微笑みます。
わたしは困惑しましたが、わたしよりも先にカサンドラとリンジーがその地図に近づいて覗き込んだので、慌ててわたしもそれに倣います。
わたしたちの視線の先には、光の線で描かれた地図がありました。
「ここが僕たちの住んでいる森。そして、ここがノルティーダの街、そしてここがフェルディナンドの王都だ」
アルヴィ様の指先が、その地図の上を滑っていきます。
そして、リーアの森と王都の位置をわたしが確認したのを見て、アルヴィ様はさらに大きく指を滑らせました。
「フェルディナンドの隣には、つい最近遊んできたエーデルマン王国があるね。しかし、それよりもっと遠い場所にある『ここ』が、メリーライネン王国だ」
「遠い……ですね」
わたしは眉を顰めながらそう呟きます。
エーデルマン王国のずっと南にあるところに、山に囲まれるようにして存在している巨大な国。それがどうやらメリーライネン王国らしいです。
「山に囲まれているから、他国から攻め入るのもなかなか難しいとされている。通る道も限定されてしまうしね。でも、ここに比較的安全な大きな道があってね」
と、さらにアルヴィ様の指がメリーライネン王国に隣接する巨大な森を指し示します。「この道を通った先にあるのが、クラーキン王国だ。こちらもね、軍事国家だがこの二国は長い間、友好な関係を築いてきたと言われている」
「姉妹国とおっしゃいましたね」
わたしがそっとエウゲン様に視線を投げつつそう言うと、エウゲン様もアルヴィ様も頷いて見せます。
そして、アルヴィ様は道があるといった森を指さして続けました。
「この森にはね、伝説の戦神と呼ばれる兄弟神、イゴールとルーヴィンが祭られている神殿があるんだ。おそらく神事というのは、彼らにまつわることだと推測するけども」
「その通り」
エウゲン様は感心したようにアルヴィ様を見つめなおし、少しだけ微笑んで見せました。「そこまで知っているなら話が早い。神事とは、その神殿で行われるのだ。メリーライネン王国の王位継承者と、クラーキン王国の王位継承者が、その神殿にて剣舞と手合わせを披露する。もちろん、手合わせはあらかじめ決められた型が存在するものの遊びではないし、真剣な勝負となる」
「なるほど」
アルヴィ様が頷いて見せました。
――王位継承者が。
つまり、目の前にいる、このとてもたおやかな仕草の男性が、ということですよね?
「私は……恐ろしくて剣など振れませんわ」
わたしたちの視線を受けて、エルネスト殿下が身体を小さくして肩を震わせました。
身体を小さくして、と言っても元々大きいのであまり小さくなったようには思えません。
「もちろん、やらねばならないことだと理解しています。でも、無理なものは無理なのです」
そう言ったエルネスト殿下の表情は、泣きそうに歪んでいましたし、それが女性だったらさぞかし可哀想だと思えるものだったのかもしれませんが。
でも。
「困ったものですね」
アルヴィ様は他人事のように微笑みながら返します。
「王位継承者がやらねばならん神事だ」
エウゲン様は唸るように低く言いました。「だから、それまでに何とかしてもらわねば……どうしても、殿下にやってもらわねばならんのだ」
「なるほど。それで、神事はいつ行われるのですか?」
「一週間後だ」
「……それはそれは急な話ですね」
アルヴィ様はそこで肩を竦め、この状況を黙って見守っているカサンドラに目をやって微笑みます。
途端、カサンドラが厭そうに顔をしかめました。
「何を企んでるの?」
「人聞きが悪いな。ほら、君の得意な魔術があるじゃないか」
「何よ、それ」
「君の精神と、彼の精神を交換したら? そして、彼の身代わりとして神事を行えばいい」
「厭よ、そんな面倒なこと」
「でもね、カサンドラ」
そこで、アルヴィ様は低く笑い声を上げます。「君の願いは叶ってなかったよね? 男性の身体で快楽を味わうとか」
「ああ」
そこで、カサンドラがぽん、と手を叩いて頷きます。
どうやら急に乗り気になったような表情を見せましたが、急に我に返ったようにすぐそばにいるリンジーを見下ろして、その眉根を寄せて唸りました。
「……ダメだわ。さすがに……リンジーがいる手前、変なことはできない」
「真面目になったね」
「これが本性よ。本当のアタシ」
「へえ」
「信じてないでしょ」
「身代わりになると?」
エウゲン様が怪訝そうに、そしてどことなく疑うような目つきで二人を交互に見つめます。
すると、アルヴィ様は微笑みながら頷きます。
「王位継承者の肉体が神事を行えばよろしいのでしょう? ならば、適当な相手と精神を入れ替え、今回の件を乗り切るというのはどうでしょうか」
「……そんなことができると?」
「はい。そちらの騎士団の誰かで、信用ができて、ちょうどいい人間は?」
「騎士団の人間は、全員神事に参加しますわ」
と、恐る恐るといった口調でエルネスト殿下がおっしゃって。
そこでアルヴィ様は困ったようにエウゲン様を見つめます。
何が言いたいのか理解したのでしょう、エウゲン様も首を横に振って言いました。
「もちろん、私もそれに参加する」
そして。
ちょっと理解しがたいのですが。
なぜ、アルヴィ様はそこでわたしを見つめるのでしょうか。
どうして、優しく微笑むのでしょうか。
「お願いできるかな、ミア」
そう言ったアルヴィ様の言葉に、わたしはただ反射的に返事をしました。
「ちょっと意味が解りません」




