第58話 身体の交換ではなく
「やめて……本当に、何をするつもりなの」
地面に座り込んで――それも女性らしい仕草で――肩を震わせながらさめざめと泣く彼は、エウゲン様とそれほど身長の高さも変わらない立派な肉体をお持ちの方です。
緩やかに流れる金髪は短く、その整った頬のラインを目立たせています。
その目の形もとても涼やかですし、男らしい唇や高い鼻筋も、人目を惹く魅力があります。
それはアルヴィ様とは違う魅力。
何というか、健康的で力強さを感じさせる、鍛え上げられた肉体の男性から発せられるもの。
それなのに。
まるでそれは――高貴な女性そのものじゃないでしょうか。
おしとやかさも、その表情すらも。
「殿下。どうか、しっかり立ってください」
エウゲン様が静かに、そして有無を言わせぬ力強く低い声でそう言います。
しかし、その方はびくりと身体を震わせ、さらに怯えたようにエウゲン様を見上げ、そっと首を横に振りました。
「殿下」
エウゲン様が彼のそばに膝をつき、その太い腕を引こうとすると。
「やめて! 何をするつもりなの!」
「何もしませんから」
「お父様はどこなの!? お願い、お父様を呼んで!」
「いいですか、殿下。この問題を解決できなければ、大変なことになります。しっかりなさってください」
エウゲン様の周りにいた騎士様たちが、それぞれ沈痛な面持ちで二人の様子を見守っています。
ただ、何というか……絵的に問題はありました。
とても居心地が悪いです。目をそらしたい、というか。
まずいものを見てしまった、的な。
「……」
ふと、無言の圧力のようなものを上から感じてわたしが目を上げると、アルヴィ様が穏やかに微笑みつつ、その目だけを凍らせていらっしゃるのが見えます。
そこには明らかに、『迷惑』と言いたげな輝きが存在しています。
「魔術師殿」
エウゲン様がそこでアルヴィ様の方に視線を向け、地面に膝をついたままの格好で続けます。「どうか、力を貸していただきたい。いや、貸してもらわなくては困るのだ」
「そうですか」
アルヴィ様は他人事のように軽く言い、あっさりと続けます。「僕の手には余る案件のようですから、どうぞお帰りください」
「魔術師殿!」
アルヴィ様がそこで踵を返し、お屋敷の中に帰ろうとするのを見て、エウゲン様が勢いよく立ち上がります。「この状態を見られてしまった以上、貴殿をただ解放するわけにはいかんのだ。無理やりにでも連れていく」
「なるほど?」
そこでアルヴィ様が彼の方に振り向き、輝くような笑顔を見せました。「勝手にやってきて、勝手に見せて、その上で無理やり協力させようとは……物事の道理が通りませんね」
「報酬は払う」
「お金には困っていないのです」
「……剣を抜かせるようなことはさせないで欲しいのだが」
エウゲン様の鋭い視線と、アルヴィ様の冷たい視線がぶつかり合った時のことです。
「野蛮ですわ」
そこで、『殿下』が咎めるような表情でエウゲン様におっしゃいます。
怯えたような目は先ほどとそれほど変わりはありませんが、思いつめたような色がその双眸に浮かび始めています。
「その魔術師様のおっしゃる通り、物事には道理というものが」
「話がややこしくなるので、殿下はそこでおとなしくしていてください」
エウゲン様が意外なほどに強くそう言って。
「酷い……」
と、殿下が目元に涙を浮かべて手で顔を覆いました。
「何だか吐きそうだにゃ」
アルヴィ様の肩の上で、ルークが小さく呟きます。
「毛玉をかな?」
アルヴィ様が短く返します。
「ふざけんにゃ」
「ふざけなきゃやってられないよ」
「んー、そーかもしれんけど」
そんな会話を聞きながら、わたしがこの場の成り行きを見守っていると、カサンドラが引きつった笑みを浮かべつつ、アルヴィ様に小声で訊いているのが聞こえました。
「何が起きてるのかあなたは解るの? 何アレ」
「何となく予想はつくけどね、僕は関わりたくない。やるなら君が――さっき、急に僕の弟子になった君がやったらどうだい? 報酬ももらえるようだし」
「冗談きついわ」
カサンドラが肩を竦めて見せます。
「魔術師殿はどうやらお気づきのようだが、殿下は――エルネスト・メリーライネン殿下は、何者かによって魔術をかけられているようで」
「説明しないでくれないか、聞きたくない」
唐突に説明をしようとするエウゲン様の言葉を遮り、カサンドラの背中を軽く押しながらアルヴィ様が困惑の声を上げます。「どうしてもというなら、この女性の魔術師を推薦しよう。そこそこ腕はたつ」
「ちょっと! やめてよね!」
カサンドラが身体を捻り、アルヴィ様の後ろに逃げようとするのを、エウゲン様は静かに見つめて続けます。
「どちらにしろ、この状況を見てしまった以上、この場にいる全員を連れていかねばなるまい。時間がもったいないのでな、手短に話そう」
――そうして。
厭がる表情のままのアルヴィ様の前で、彼の説明は始まったのでした。
目の前で身体を震わせている『殿下』というのは、エルネスト・メリーライネン様。
軍事国家としても名高い、メリーライネン王国の第一王子だそうです。
その国の名前は聞いたことだけはありますが、わたしはほとんど知らない国のこと。エーデルマン王国よりももっと遠い場所にある、大きな国。
その国の第一王子である彼は、『こうなる前』までは、とても男らしい、その見た目に相応しい男性であったのだそうです。
エルネスト様は幼い頃から剣術を習い、剣士としてのその腕はメリーライネン王国の中でもかなり有名となっているようで、二十歳を過ぎたばかりの今、宮廷騎士団の誰も敵わないほどになっているとか。
そんな彼が、ある日突然、『こうなって』しまった、と。
男らしさを失い、女性らしい物腰で自室から出てこなくなり、それに気づいた側近たちの間で大騒ぎとなったようで。
確かに、唐突にこんなことになれば誰もが慌てると思います。
この話を聞いているうちに、わたしは思わずカサンドラに視線を投げました。
この唐突な変化の原因は、カサンドラがわたしとルークにやったように、身体の交換の魔術を誰かがやったのではないかと思ったからです。
でも、その考えはすぐに否定されました。
なぜなら、エルネスト殿下にはそれまでの記憶があったからです。
エルネスト・メリーライネン様としての今までの記憶がありながらも、男性らしさだけを失う。
つまり、肉体の交換ではなく、内面の変化を起こす魔術をかけられたということ?
しかしそんなことをして、誰が得をするというのでしょうか。
もし、どこかの魔術師がそんなことをしたのだとしたら、何が目的なのでしょうか。
「貴殿にお願いしたいのは、殿下を元に戻してもらうことだ」
エウゲン様はアルヴィ様にそう言いました。「先ほども言った通り、報酬は払う。何としても、急いで殿下のことを元に戻していただけるなら、我が国王陛下も貴殿が一生遊んで暮らせるくらいの報酬は払うとおっしゃっている」
「金額の問題ではないのです。ただ単に、面倒なのですよ」
アルヴィ様はどうやら、正直に心の中を吐露したようでした。
あまりにもあっさりと返したせいか、エウゲン様の額に、青筋が浮かび上がった気がしました。それはアルヴィ様に対する怒りです。
確かに、面倒と言われてしまうと――と、わたしが眉を顰めると。
「どうやら、あなたはどこかの魔術師がこんなことをしたとお考えのようですが」
と、アルヴィ様はため息交じりに続けます。「違うのです。この原因は……あなたの主であるメリーライネンの国王陛下がよくご存じのはずでは?」
「何? どういうことだ」
鋭い目でアルヴィ様を睨みつけるエウゲン様の表情は、疑念の色が強く浮かび上がっています。
その様子を見て、アルヴィ様は不思議そうに目を細めて見せました。
「確か、僕は聞いたことがあるのですよ。メリーライネン王国には、国宝として『白銀の世界』と呼ばれるものがおありではなかったでしょうか」
――白銀の世界?
わたしは首を傾げつつ、そっとカサンドラを見やります。
しかし、カサンドラも初耳のようで、困ったようにわたしを見つめ返し、肩を竦めるだけでした。




