第56話 平和な日常、からの
カサンドラたちと別れたのは、シュタインの森と呼ばれる不気味な一帯を抜けたところでした。
自然な風が吹き、森がざわめきを取り戻した辺り。
別れ際、カサンドラはアルヴィ様の前に立って、力なく微笑みながら訊いてきます。
「もし、アタシに何かあったら……リンジーのことを頼んでもいい?」
「どういうことだい?」
アルヴィ様は困惑したように訊き返しました。
「シュタインが言っていた通り、アタシは結構……悪いことに手を出したのよ。恨みも相当買ってる。つまり……いつ殺されても仕方ないってやつ?」
カサンドラはそこで悪役を気取った笑みを作ろうとしたようですが、それは失敗に終わりました。彼女の目には苦痛に満ちた輝きがありましたし、後悔らしき影も見て取れました。
「アタシには、それにリンジーにも身寄りがないし、頼れる人間もいない。アタシがいなくなったら、リンジーは路頭に迷うでしょ? もしそうなったら……ってことなんだけど」
「悪いけど、断るよ」
アルヴィ様は笑顔でそう返します。
カサンドラが慌てたようにアルヴィ様を見つめ返し、何か言おうと口を開きかけます。
でも、その前にアルヴィ様は言いました。
「君が生きていれば問題ないんだろう? じゃあ、それでいいじゃないか」
「だから、アタシに何かあったら」
「うん、断るね」
「ちょっとぉ!」
「僕の手はもう塞がってる。ミアだけで充分だ。守るべき身内はね」
「でも」
カサンドラが眉根を寄せ、そばで所在なさそうに立っているリンジーを見下ろします。
リンジーの目には、不安の色しかありません。カサンドラが先ほどまで必死に説明していたようですが、そう簡単に納得できるものではないのだと思います。
その顔色はただ白く、怯えたように辺りを見回す彼女はとてもか弱く見えました。
「本当に困ったときだけ声をかけてくれ」
やがて、アルヴィ様はそう諦めたようにため息と一緒に言葉を吐き出しました。
途端に輝くカサンドラの表情に、牽制するかのようにアルヴィ様は冷たい口調で続けます。
「僕はね、基本的にタダ働きはしない主義なんだ」
「報酬が必要ってことね?」
「ああ」
そこでアルヴィ様は意地悪な笑みを作りました。「ちなみに、ミアは僕に対して一千万ゴルトの借金があると考えてくれ。それを働いて返すために、一緒にいるんだよ?」
「一千万……」
さすがにカサンドラが呆気にとられたように息を吸い込み、やがて眉間に皺を刻みつつ言いました。「ぼったくりじゃない?」
「そう。だから、君は僕に関わらない方がいい」
「……一応、覚えておくわ」
白みかけた空を見つめつつ、カサンドラはリンジーの手を引いて歩いていきました。
カサンドラはリンジーを気遣うような仕草で何度も彼女を見下ろしていて、リンジーはそんな彼女に対してどう反応したらいいのか解らない様子でした。
でも、上手くいってくれればいいなあ、と思います。
「帰ろう」
アルヴィ様がそう言うのが聞こえて、わたしはすぐに我に返って「はい」と返事をします。
そして、思い出すのです。
アルヴィ様が、身内とおっしゃってくれたこと。
わたしのことを、守るべき身内、と。
凄く、嬉しい。
だから、決意を新たにしたのです。
わたしにできることは、何でも頑張ろう。
アルヴィ様のために。
そして、わたしたちはアルヴィ様のお屋敷へと帰りました。
平和な日常。
それが季節の移り変わりと一緒にやってきて、わたしは正式にアルヴィ様の弟子として少しずつ魔術を習うことになりました。基礎となる魔術書を与えられ、簡単なものから順番に教えてもらうのです。
基本的には、防御呪文から、と言われました。
何かこの森で危険なことがあった場合に、対処できるように、と。
ただ、コーデリア様が今もわたしの使い魔として一緒にいらっしゃいますので、あまり危険なことなど心配はしていないのですが。
でも、魔術は覚えておいて損はないですよね。
少しでもアルヴィ様のお役に立てる自分になれたら、やっぱり嬉しいと思いますから。
そんな――何事もない、平和な毎日が続いて。
多少の変化も起こりました。
「本当に困った時にだけ、と言わなかったかな」
ある日の朝、アルヴィ様は寝起きの眠そうな顔でそう言います。
台所のドアを開け、そこで朝食の準備をしていたわたしと、そして来客の顔を見つめながら。
「あらぁ。ただ、お土産を持って遊びにきただけよ」
カサンドラは椅子に座って、テーブルに頬杖をつきながらそう言います。
その横の椅子には、リンジーが申し訳なさそうな笑顔を見せつつ座っています。
そして、わたしは早朝からやってきたこの二人から、『お土産』とやらを受け取っていました。
アルヴィ様の庭にはない食料や、特にたくさんの種類の果物はありがたいものでした。
朝食に出すにはちょうどいいかな、と思ったので。
だから、今日の朝ご飯は充実しています。
色彩的にも。
早朝から仕込んでいた焼き立てのパンと手作りのバター、野菜たっぷりのトマトスープとフルーツの盛り合わせ。シンプルですね。
でも、とても幸せな香りが台所に漂っています。
アルヴィ様の肩の上でだらけていたルークも、テーブルのところに飛んでくるとそわそわとパンの香りを吸い込んでいます。
そして、窓のそばに佇むのはコーデリア様。
この光景も、とても平和で幸せなんだと思います。
「立ってないで、座りなさいよ」
カサンドラがにこりと微笑み、ドアのところに立ったままだったアルヴィ様を椅子に座るように促しました。
アルヴィ様がため息をこぼし、疲れたようにそれに従って椅子に座ると、カサンドラが楽し気な笑い声を上げました。
「あなたの弟子は、料理が得意でいいわねえ。毎日、起きるのが楽しみじゃない?」
「まあね」
アルヴィ様は眠そうな目つきのまま頷きます。「食事には興味なかったけど、これに慣れると困ったものだね」
「何で?」
「ミアが出て行ったら食生活が劣化する」
「出ていかないですよ」
わたしは慌ててそう口を挟みます。「いいですよね?」
「もちろん」
アルヴィ様はそこで苦笑して、窓際に視線を投げました。
その視線の先にいるのはコーデリア様。ここのところ、コーデリア様はとても穏やかな表情をされていると思います。でも、今朝は少しだけその視線が鋭いような気がしました。
「どうした、コーデリア」
「いや」
コーデリア様がそこでわたしたちを見つめました。そして、薄く微笑みます。
「そこの女が道を開いたようでな、おそらく来客じゃ」
「ああ」
そこでアルヴィ様が落胆したように目を伏せました。
そうです。
ここ最近ずっと、アルヴィ様はこのお屋敷に誰も来客が来られないように、道を閉ざす魔術をかけていたのです。
アルヴィ様はしばらく遊んでもいいくらいのお金は稼いだから、森の中に引きこもる宣言をしていました。仕事は何もしない、食べて、寝るだけの生活で充分だとおっしゃって。
それなのに、魔術師であるカサンドラはその閉ざされた道を開き、ここに姿を見せたわけです。
どうやら、道を閉ざす魔術自体はそれほど難しいものではないようで、仕事の依頼をしにくるような人間の足止め用だとか。だから、同業者にはあまり意味がない魔術なのかもしれません。
「どうして道を閉じておかなかったんだ?」
恨みがましい視線をカサンドラに向けたアルヴィ様を、彼女は肩を竦めながら見つめます。
「帰るときに閉じればいいと思って」
「そう。じゃあ、これで学習したね。次回はないから」
と、アルヴィ様はそこで、パンの乗った皿に手を伸ばしました。
「あら、食べるの?」
「来客は待たせておけばいい」
「そーね」
「……マイペースね、キャシー」
リンジーが小さく呟き、無邪気に笑います。それは以前に見た時よりもずっと、幸せそうに見えました。
そして、誰もがのんびりと食事をしていると、お屋敷のドアノッカーが叩かれる音がして、わたしは足早に玄関に向かいました。




