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ご主人様と呼ばせてください!  作者: こま猫


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第55話 現実から逃げたいと思ったら

「近づかないように?」

 シュタインは少しだけ首を傾げるような、とても人間的な仕草をして見せました。「一応、覚えておきましょう。ただ、約束はしないようにします」

「なぜ?」

 アルヴィ様が静かに問いかけると、シュタインはその視線をカサンドラに向けました。

「彼女との約束はなかった方が、楽しかっただろうと思えるからです。可能性は残しておかないといけません」

 そう言った彼は、その右手を軽く上げて見せます。

 その白い手のひらの中に、小さな光が生まれ、宝石のようなキラキラ光る物体と変化しました。彼が僅かにその手を動かした瞬間、その宝石のようなものが宙を浮かび、カサンドラの方へと飛んでいきました。

 カサンドラはその光に手を伸ばし、そして。

 それが触れた瞬間に、カサンドラの手のひらの中に潜り込んだように見えました。


「約束通り、それはお返しします」

 シュタインがそう言って、カサンドラを見つめました。「あなたの心の一部です。あなたが今までどれだけ悪意のある行為を重ねてきたかは知りませんが、自己嫌悪に陥るだけの正義感は戻ったでしょうね」

「……悪趣味だわ」

 カサンドラは胸を押さえ、苦し気に息を吐きました。

 そして、その声には幾分かの気弱さのような、怯えのようなものが含まれているのも解りました。


「さあ、いきましょうか」

 シュタインはそこで空を見上げ、揺れる木の枝を見つめます。

 すると、木々が奇妙な『声』を上げた、と思いました。木の枝が揺れるのが激しくなり、そして気づけば先ほどまでとは違う道がすぐそばに現れていました。

 そこにはなかったはずの道。

 まるで、木が道を開けたかのように。


 シュタインが、滑るように歩いてその道を進んでいきました。

 服の裾に覆われて見えないのですが、彼には人間と同じような足があるのだろうかと疑ってしまう動きです。

 アルヴィ様がカサンドラに「動ける?」と短く問いかけました。

 カサンドラは呼吸を整えるように深呼吸をした後に、シュタインの消えた方向に視線を向け、力強く頷きます。

 すると、アルヴィ様が小さく微笑み、わたしにも声をかけてきました。

「僕たちもいこう」

「はい」

 そしてわたしたちも、シュタインの後に続いて不思議な道を進んだのでした。


 その道の先で、シュタインが足をとめて背中を見せていました。

 わたしは『それ』を見て、言葉を失いました。

 でも、カサンドラは悲痛な声で呟きました。

「リンジー」

 ――と。


 森の奥に、少しだけ開けた場所がありました。

 その地面の上に、奇妙な塊があります。

 まるで水晶のような透明な塊の中に、小さな少女が目を閉じて身体を丸くしていました。それは眠りについている格好そのままです。

 肩の上で切りそろえられた金髪と、長い睫毛が印象的な、可愛らしい少女。

 その頬は赤みがさしているのに、呼吸はしていなそうでした。

 だって、透明な石の中に閉じ込められているのに――生きているんでしょうか、これで?


 シュタインがその手でその塊に触れました。

 その途端、透明な石はまるで蒸発するかのように消え失せ、その場に少女の小さな身体だけが倒れこみます。

 その瞬間、少女の小さな唇から悲鳴が上がり、その胸が激しく動きました。

 まるで、中に何か生き物がいるかのように。


「下がって」

 アルヴィ様がその少女のそばに寄り、皆をその場から数歩下がらせます。

 そして、アルヴィ様は少女の身体に手を伸ばし、その手に凄まじい魔力を集め始めました。


 炎。


 それは確かに、この辺り一帯を焼き尽くすほどの劫火のように思えました。

 赤く、青く、そして白く、あらゆる色に変化した炎が空まで舐めつくすように燃え上がったと思えたのに、全く熱く感じませんでした。

 わたしは思わず身を竦めて身体を震わせたというのに、誰も驚いた様子など見せず、その光景を見つめていたのです。


 それはとても美しい光景でした。


 少女の身体が炎に包まれ、その小さな身体がそりかえり、その目を大きく開きます。

 そして、彼女は空を見上げ、一瞬だけ呼吸をとめたようでした。


「リンジー」

 カサンドラが震えた声で、彼女の名前を呼びました。

 そして少女は一瞬遅れてその声の方へ顔を向け、困惑したように幾度も瞬きを繰り返して。


「あなた、誰ですか?」

 そう、疲れたように地面に寝そべったまま、掠れた声を上げました。


「カサンドラ……キャシーなのよ、アタシ」

「ええ?」

 少女はそこで身体を起こし、おろおろしたように辺りを見回します。そして、見慣れない人間たちであるわたしたちと――人間ではないと思われる存在、コーデリア様とシュタインを見て眉間に皺を寄せました。

「何? 何、これ。あれ? わたし、キャシーと一緒に」

 少女――リンジーは眉間に皺を寄せたまま、頭を乱暴に掻きました。そして何か考え込んだ後、その視線をもう一度カサンドラに向けます。

「キャシーはどこ?」

「アタシが……キャシーなの」

「え? キャシーのお母さん?」

 リンジーは困ったように笑い、カサンドラの言葉を理解できずにただ首を傾げます。「だって、キャシーはわたしの一歳年上だもの」

「だから」

 カサンドラが思いつめたような眼差しでリンジーを見つめ返した後、思い切ったように彼女の小さな身体を抱きしめました。「アタシが、キャシーなの。あなたはもう十年以上も、ずっと眠ったままだったのよ」

「ちょ、ちょっと待って」

 リンジーが慌てて彼女を押しのけようと暴れますが、カサンドラはさらに強く少女を抱きしめました。


「終わったね」

 アルヴィ様はそこで、この様子を見守っていたシュタインに小声でそう囁きます。

「そのようですね」

 シュタインは薄く微笑んだまま、小さく頷きました。「では、私はこれで失礼します。またお会いしましょう」

「それは断りたいんだけどな」

 そこで、シュタインはわたしに視線を向けて優しく言いました。

「もしも現実から逃げたいと思ったら、いつでも歓迎します」

「現実から……」

 わたしは困惑しつつ、じりじりと後ずさります。「多分、そんなことはないと思います」

「そうですか?」

 彼はそっとわたしに近づいて、低く笑いました。「もう少し大人になれば解りますよ」

「……もう、大人です」


「近づかないようにと言ったよね」

 すぐに、アルヴィ様がわたしの前に立ってそう言います。

 ああ、もう。

 わたしは思わず、アルヴィ様の上着の裾を掴みたくなりました。

 何だかよく解りませんが、少しだけ……アルヴィ様の位置が近くなったような気がしたから。

 前に比べると、少しだけ。


 気のせいかも、しれないですが。


「感動の再会は、もう少し安全な場所に移動してからにした方がいいよ」

 シュタインの身体が空気に溶け込むように消えてしまった後、アルヴィ様はカサンドラたちにそう声をかけました。

 カサンドラは少しだけ身体を震わせた後、小さく頷いて見せました。

 リンジーは疑惑に満ちた瞳のまま、カサンドラとアルヴィ様を交互に見やり、首を傾げています。

「ゆっくり、話をしなきゃいけないし。もう、ここから離れるわ」

 どこか泣き出しそうな声でカサンドラはそう言って、リンジーを解放します。それから、アルヴィ様に向き直って、深く頭を下げました。

「ごめんなさい。迷惑をかけて」

 そう小さく呟いた彼女がもう一度顔を上げた時、その表情は今までとは違ってどこか――知的な雰囲気すら漂わせているように思えました。

「もういいよ。お互い、今回のことは忘れよう」

 アルヴィ様はそう言って、明るく笑います。

 そして、わたしに向き直って言うのです。

「眠くない?」

 気づけば、もう夜明けが近いのかもしれません。

 空を見あげると、暗闇の色が少しだけ薄くなってきているような気がしました。

 でも、とても眠いとは感じられませんでした。

「アルヴィ様は眠いのでしょうか?」

 そう訊いたわたしの声に、若干の不安が混じりました。

 すると、アルヴィ様は肩を竦めて首を横に振ります。

「散々寝たからね、僕はしばらく起きていることにしよう」

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