第54話 綺麗なものを蹂躙したくなるのは
さらに森を進むと、奇妙なざわめきが辺りを響き始めました。
風は相変わらずなくて、でも木々はその葉を揺らします。
まるで、生きているかのように。
生きている?
木が?
そしてわたしは思い出します。
シュタインの種は、人間を……。
発芽したら、どうなるんでしょうか? もしかして、この辺りに生えている木というのは――。
ざわり、とまた木々が枝を揺らし、わたしたちの道を隠そうとするかのように動きます。
まるで、これ以上、進んではいけないとでも言っているかのように。
そして、何だか急に怖くなって、わたしがアルヴィ様のすぐ後ろに隠れるようにしつつ、ただ歩いていくと。
木々の間に、立っている人影を見ました。
いいえ、確かにそれは人間の形をしていましたが、人間ではないと直感します。
「さて、お出ましのようだ」
アルヴィ様がわたしを庇うように足をとめ、そう囁きました。
わたしは思わず、アルヴィ様の上着の裾を掴んでしまいました。そんなわたしをそっと振り返り、アルヴィ様は穏やかに微笑みました。
それだけで、安心できるって凄いことだと思います。
「少し残念です」
暗闇にその声は静かに響きました。
でもその途端、辺りの木々はまるで歌うようなざわめきをたてるのです。
さわさわ、という音。木の葉が触れ合う、優し気な音です。
人影はゆっくりとですが、はっきりとその輪郭を浮かび上がらせてきました。ぼんやりと輝く光を帯びながら、その身体はまるで絵本の中に出てくる精霊のような姿を取りました。
色のない、ただ白い肌。
白髪に近い髪、でも若干の緑色を含んでいます。
完璧なまでに整った顔立ち、白い睫毛と淡い色の瞳。
微笑み、言葉を発しているのに呼吸はしていないのだろうと思われる唇。
中性的な顔立ちではありましたが、女性ではなさそうです。かといって、男性と言うのも躊躇う、どこか人間とは違う美しさを持った存在。
それが多分、アルヴィ様たちが言っていた『シュタイン』という魔物。
「私は確か、あなたに――あなたの力で少女を救って欲しいと言ったはずです」
そう続けた彼は、カサンドラを見つめます。わたしたちのすぐ横に立っていたカサンドラを。
一瞬だけ、カサンドラが怖気づいたかのような息を吐き、それから虚勢を張っていると思われる口調で言いました。
「この男をこの件に巻き込んで、引っ張り出しただけでもかなりのものだと思うけど?」
カサンドラはそう言った後、彼――シュタインの前に立って腕を組んで見せます。
それは余裕そうな仕草に見えて、かなり緊張しているというのも伝わってきます。
そして、シュタインだけが穏やかな表情で――いえ、アルヴィ様も似たようなものなんでしょうか?
わたしの前にいるアルヴィ様は、悠然とした背中を見せています。その肩の上にいるルークでさえ。
ああ、コーデリア様もそうでした。自信ありげな笑みを口元に浮かべつつ、わたしの横に立つコーデリア様の存在感は何とも圧倒的で。
「その点は認めましょう」
シュタインは笑みを口元に張り付けたまま、そう頷きました。
そして、わたしたちの顔をゆっくりと見回し、アルヴィ様のところでその視線をとめました。
「我々は必要以上に関わり合いにならないと約束したはずでしたね。私のやることも、あなたが森に住むことも、お互いあずかり知らないと」
「そうだね」
アルヴィ様が苦笑交じりに応えます。「まあ、今回のは仕方なくだよ。でなければ、僕がこんなところにまで来るはずがない」
「……そうでしょうね」
シュタインの表情は、まるで一枚の絵のように変わることがありません。
ずっと、笑顔。
それが何とも不気味に思えてきます。
とても、綺麗な顔なのに。
「とにかく、アタシはリンジーを助ける方法を見つけたわ」
そこに、カサンドラが緊張したような声で割り込んできました。「この男がアタシの依頼を受けて、助けてくれる。それは認められないってわけ?」
「認めたくはないですね」
シュタインは静かに返してきます。「なぜなら、あなたの力で助けるわけではないからです」
「あらぁ」
カサンドラはそこで低く笑い声を上げました。「ここに来るまでに、結構危ない橋を渡ってきたんだけどね。それでもダメなんて……やっぱり、あなたは嘘つきなのかしら」
一瞬だけ、シュタインの周りの空気が揺らいだ気がしました。
そして、彼は少しだけ沈黙した後、そっと目を伏せて続けました。
「いいでしょう。それなりに、楽しめましたから」
意外なくらいにあっさりと、シュタインはそう言うと、アルヴィ様に向き直ります。「では、あなたが種を焼き切るということでよろしいでしょうか?」
「いいよ」
アルヴィ様がそう返すと、シュタインが僅かに首を傾げて言いました。
「どうやらあなたが手に入れた力は、炎の精霊のもののようですね? そして、おそらく一度しか使えないようですが」
「そうだね」
「もったいないと考えはしないですか?」
「なぜ?」
「その力はとても強いですよ。私の種を焼くよりももっと、別のことに使えると思いますが」
「それはどうかな? この力は限定的に使えるようでね」
と、アルヴィ様がさらに言葉を続けようとすると、シュタインはそれを遮って言いました。
「あなたは、とても綺麗な子を連れていらっしゃいますね」
その言葉に、アルヴィ様が呆れたように息を吐きました。
「そう言うと思ってたよ」
――綺麗な子?
わたしは思わず、コーデリア様を見上げました。
綺麗な方ですが、子、とは。
「あなたのことですよ」
と、シュタインがわたしを見つめます。
「え?」
わたしは眉根を寄せて彼を見つめ返します。
すると、彼は言うのです。
「私はね、あなたのような子が好きです。世間知らずで、世の中の汚いものも見たことがなくて、綺麗なものの中で育ってきたような、純粋な子がね」
「え――」
「あなたの身を引き換えに、眠っている少女を返しましょう」
わたしは思わずアルヴィ様の上着の裾を握る手に力をこめ、さらにもう片方の手でコーデリア様の腕を掴みました。
何だか急に、シュタインの表情が恐ろしく変化したような気がしたのです。
綺麗な顔で、笑顔で、普通に見ていれば穏やかに見えるその表情が、何だか、何だか。
「もし、誰もが足を踏み入れていない、美しい雪原があったとしたら、それを踏み荒らしたくなるでしょう?」
シュタインはそう続けます。
人形のような綺麗な顔で、作り物のような笑顔で。
「人間というのはきっと、この思いに共感をすると思いますがどうでしょうか? 綺麗なものを蹂躙したくなるのは……汚したくなるのは、当然だと思いませんか?」
「ちょっと、意味が解らないです」
わたしは混乱して震える声でそう呟きます。
すると、シュタインの身体が瞬時にわたしの目の前に現れて。
アルヴィ様がその腕でわたしを庇ってくださいました。
それに、コーデリア様もわたしを守るように自分の背中の後ろに追いやろうとしてくださって。
「私はね、純粋な子が歪んでいくのが楽しいんです」
「あなたがアタシにしたように?」
カサンドラが苦々し気にそう呟いて。
わたしが彼女の方に目をやると、カサンドラはどこか泣きそうな表情でその手を握りしめていて。
「昔のアタシ……子供だったアタシは、今よりもっとまともな人間だったわ」
「そうですね」
シュタインがそこで小さく頷いて見せました。「でも、人間という生き物は、長く生きれば生きるほど、汚れていくものなんですよ。あなたの変化は、私が何もしなくてもそうなったと言えます」
「君の話は理解したけどね」
と、そこでアルヴィ様がくすくすと笑い声を上げて、まるでこの場の凍り付くかのような不穏な空気を振り払うかのように明るく言いました。「この子は僕の弟子だからね、手放すわけがないよ。他を当たってくれないかい」
「どうしても?」
シュタインがアルヴィ様を見つめ返します。
すると、アルヴィ様はわたしの手を振りほどき――相変わらずわたしは上着の裾を掴んでいました――、わたしの肩を抱き寄せるようにして優しく、そして意味ありげな口調で続けるのです。
「君だって解ってるだろう? 美しい雪原を踏み荒らすというのは、先に見つけたものの特権なんだよ。つまり、僕だね」
すると、シュタインが沈黙して。
「ミアも、覚えておきなさい。この性格の悪いやつの気配を」
アルヴィ様はわたしの耳元で囁きました。
近い!
その唇が近いです、アルヴィ様!
わたしは身体を硬直させ、意味が解らないながらも何度も頷いて見せました。
「もし、こいつが君に近づいて、何か甘い言葉を囁いたとしても、絶対にそれに従ってはいけないよ。これは僕の命令だ。絶対に、従ってはいけない」
「は、はい!」
「姿を変えて君の前に現れても、騙されてはいけない。だから、この気配を覚えなさい」
「はい!」
何だかよく解らないけど、解りました!
わたしにとって、アルヴィ様の言葉は絶対です!
絶対に従います!
だから、ちょ、ちょっと離れてくれないと――。
死んじゃうかもしれません! 本当に!
「それと、君もだね、シュタイン」
アルヴィ様はそこでやっとわたしを解放し、シュタインに微笑みかけました。「もし、この森の中でミアを見かけたとしても、近づかないように。君好みの子だから、釘を刺しておかないといけないと思ってたんだ」




