第52話 手をつなごうか?
「あの、本当にありがとうございました」
わたしは慌ててナイジェル様のところに歩み寄り、深々と頭を下げます。
考えてみれば、自分の身体でナイジェル様と会話するのはこれが初めてなので、視線の高さとか色々困惑することもあるのですが、それはきっと、ナイジェル様も同じことでしょう。
ナイジェル様は猫であるわたしに慣れていらっしゃるのでしょうし、今更、興味ないと言っていた『女の子』に声をかけられても……という感じなのでしょうか。
ナイジェル様がわたしを見るその瞳には、どことなく気まずさが紛れているように思えましたし、それに気づいてしまうとわたしもこれ以上何も言えません。
わたしはもう一度だけ頭を下げると、すぐにアルヴィ様のそばに戻りました。
何だかその途端、背後で何事か小さな声が上がった気もしましたが、それに気を留める暇もありません。
ほんの少しだけ離れただけだったのに、アルヴィ様はカサンドラを連れてこの部屋から出ようとしているところでした。
アルヴィ様はわたしを待っていてくださったらしく、階段のところで足をとめてわたしの方へ視線を向けます。
「大丈夫?」
アルヴィ様がそう口を開いた時でした。
「おい、ええと、ミア」
と、後ろからナイジェル様が声をかけてきました。
「あ、はい」
振り向くと、ナイジェル様が慌てたようにわたしのところに駆け寄ってきて、短く言います。
「もし、何か困ったことがあれば、いつでも屋敷に寄ってくれ」
「いえ、そんな」
「いや……」
ナイジェル様は少しだけ視線を宙に彷徨わせた後、ぎこちなく微笑みます。「今回のことも、よく解らないまま終わった。また、会話することがあれば……聞きたいと思う」
――なるほど。
わたしはそれもそうかな、と納得します。
「じゃあ、もしその際にはルークも連れていきますね」
わたしは明るく微笑み、アルヴィ様の肩の上に乗ったルークに視線を投げます。
「え? 俺様も?」
ルークはいきなりそう言われて素っ頓狂な声を上げていましたが、わたしは頷いて見せます。
だって、動物が好きなナイジェル様なのですから、その方がいいでしょう。
すると。
「いや、もしくは、俺が行くかもしれない」
「え?」
わたしはその言葉を聞いてナイジェル様に視線を戻し、首を傾げました。すると、彼の真面目な輝きを放つ瞳がこちらに向けられています。
そして、ナイジェル様は静かに続けるのです。
「もし、困ったことがあれば……助けてもらうことはできるのだろう?」
「アルヴィ様にですか? ええ、それは……多分」
――お金はかかるかもしれないですが。
と、微妙に口にはしづらいことを頭の中に思い浮かべつつ、わたしは微笑み返しました。
すると、意外なことにナイジェル様は安堵したように息を吐きます。
でも、視界の隅にアルヴィ様が階段を上がり始めたのが見えてしまったので、わたしは慌ててナイジェル様に言いました。
「ではまた、機会がありましたら! 本当に、ありがとうございました! ダニエラ様にもお礼を……って! あああ、借りたドレスを着たままです!」
「そんなのはどうでもいい」
「えええ、でも」
「いいんだ」
わたしはきっと、変な顔をしたことでしょう。
こんな高価そうなドレスを借りたままというのはどうしても気になってしまいますし、何だか胸に何かがつかえているような気すらします。
だから、わたしは自分の身体を見下ろしながら決心しました。
「いつか、お返しに参ります。その、今のこの件が落ち着いてからになるかもしれませんが、絶対に!」
「え……ああ、そうか」
そこで、ナイジェル様は苦笑して続けました。「期待はしないで待っておくことにしよう」
「ええええ」
わたしはそこでもう一度、自分に言い聞かせました。
絶対、後で返しにいかなくては!
――と。
そんなことを言い交しているわたしたちを見て、シャルロット様がオーランド様に何か悪だくみをしているような、意味深な笑みを浮かべつつ耳打ちをしているのが目に入りました。
何となく、それが気になったものの。
そこで、わたしたちは別れることになったのです。
どうやら舞踏会はこのまま行われるような雰囲気でしたが、わたしたちはその横を通り過ぎて城の出口を目指します。
時折、アルヴィ様を見て何か噂をしているような雰囲気の人々の姿もありましたが、アルヴィ様はそれを気にした様子もなく、無言のまま歩いて城の外へと出ました。
一体、どのくらい時間が過ぎたのかと思いましたが、もしかしたらほとんど時間は経っていなかったのかもしれません。星空が美しい夜の街がそこにはあり、深夜ではあるのでしょうが、きっと夜明けは遠い時間です。
たくさんの家には明かりが灯ったままの時間。
アルヴィ様が辺りを見回した後、その右手を軽く上げました。
何だか見覚えのある動き、と思った瞬間、アルヴィ様とわたしたちの身体の周りを風が取り囲んだ、と思いました。
――風の精霊、だ。
以前も経験したことでした。
空を飛んで、場所を移動したときと同じことが起きています。
いつしかわたしはアルヴィ様に手首を掴まれ、そのまま空高く飛んで。
そして、カサンドラも同じく風の凄まじい力に巻き上げられるように、わたしたちの隣に浮かんでいました。
ただ、魔術師であるためか、カサンドラの表情には何の驚きもありません。
それ以前に。
カサンドラの表情は、どこか――感情というか、人間らしい表情というものが感じられませんでした。
「アタシはね、心を奪われた人間なのよ」
何となくそれが気になって、それを言葉にして尋ねたわたしに、カサンドラは無表情のまま応えました。
わたしたちが空から降りて、地面に立った後のことです。
それは、風の力を借りてフェルディナンド王国に入り、さらにリーアの森の入口へと到着した時のこと。
「心を奪われた?」
わたしがそう訊きながら、彼女の隣を歩きます。
わたしたちの前を歩くアルヴィ様は、一度だけこちらを振り返って見せました。
きっと、この会話も聞いていらっしゃるのでしょう。
「シュタインという奴は、リンジーを人質にしたけど。アタシの心の中から、色々なものも一緒に奪ったの」
「……奪った? それは何ですか?」
「優しさとか、人間らしさとか? とにかく、性格に関係するものかしら」
そこで、カサンドラはくくく、と低く笑いました。
以前、アルヴィ様のお屋敷で見た、女性らしい笑い方です。
「アタシの心も人質になってるのかしらね? アタシがリンジーを助けられたら、それも返してもらえることになってる」
「人質……」
「言い訳になるかもしれないけど。アタシはね、シュタインに善良な人間である心を盗まれてしまった。だから、今の自分は本当の自分じゃないんだと思う。他人を傷つけることなんかどうでもいいし、リンジーを助けるために、どんなことでもやれた。それはきっと、アタシが最低な人間だから。そうだと思うわよ?」
「そう……なんですか」
「他人を信じることも、愛することもできない。これはこれで楽だし、寂しいとも思わないけど。でも、きっと間違ってるんだとも解ってる」
――愛することも。
それは、とても悲しいことなんだと思います。
寂しいとは思わなくても、きっと。
「でも、不思議なことに性欲はあるわねえ」
「え、ええええ!?」
「愛せはしないけど、女の子は襲えるのよ。性的に」
わたしがぎょっとして彼女から遠ざかると、カサンドラはそこで露悪的な笑みを浮かべてわたしを見つめます。
「きっと、やろうと思えばあなたも抱けるわね」
「やややややや、やめてください、ダメですよ!」
「解ってるわよぉ」
「そうだね」
そこで、アルヴィ様が困ったように笑い声を上げました。「君の言う通り、シュタインに色々を奪われているせいで、理性を押さえきれる状態ではないんだろうね。そういう意味では、君はタガが外れている状態だ。本当に……危なかった」
「そうね」
カサンドラがそこで苦笑します。「本気だったわよ? あなたの身体を使って、王女様を襲うってのは」
「もし成功していたら」
「きっと、あなたはアタシを殺した?」
「もしかしたら、そうだね」
何だか怖いことを、アルヴィ様とカサンドラは言っています。
それなのに、何だかその口調は世間話でもしているかのように穏やかで。
そうしているうちに、だんだん、辺りが暗くなってきています。
歩けば歩くほど、闇が濃くなっていく。そんな気がします。
森の中を歩いているから、というのは確かですし、森の奥に進めば進むほど暗くなるのは当然なのだと思いますが。
それでも、空を見上げて木々の葉の合間を見ようとしても、そこに星空はなく。
風が吹いて木々が揺れることもなく。
獣が鳴く声も。
何も聞こえなくて。
それが妙に違和感があって。
わたしはいつしか、アルヴィ様のすぐ後ろに近づいて、できるだけ離れないように必死になっていました。
「今夜はリーアの森の奥が目的地だからね、結構危険なんだ。この状態ではぐれるとなかなか合流できないし、手をつなごうか?」
アルヴィ様がそんなわたしを振り返り、その白い手を差し出してくださいました。
「おー、握っとけ、握っとけ」
ルークも彼の肩の上でそう言います。何だか楽し気な笑みと共に。
「ううううう」
わたしはアルヴィ様の手を見つめたまま、しばらく唸った後で。
そっと、その手に自分の手のひらを重ねました。
そして急激に頬が熱くなって。
今、暗くてよかったと、心の底から思いました。




