第50話 一番大切な願いは何?
「さすがにそれは」
エーデルマンの国王陛下は、困ったように笑います。
すると、カサンドラがおぼつかない足取りで立ち上がり、深く頭を下げます。真剣に、ただ必死に。
「どうか、お願いでございます」
「カサンドラ」
すぐにアルヴィ様が笑みを消し、冷ややかな視線を彼女へと向けます。「君にはその権利がない」
「でも、どうしても、アタシは」
「あの……その女性はアルヴィ様のお弟子さんですか?」
顔色を青ざめさせ、唇を震わせるカサンドラに何かを感じたのか、フランチェスカ様が同情に満ちた目を彼女に向けました。それから、国王陛下を見上げ、困ったように微笑んで見せます。
「あの、お父様? 見せるだけならどうなのでしょうか」
「……困ったものだ」
そこで国王陛下は苦笑し、そしてこの場にいる全員の顔を見回してからその目を細めて続けました。「娘を助けてくれた魔術師殿の顔を立てるという意味でも、見せるだけなら構わん。しかし、一つだけ念押ししておこう。絶対に触れてはならん、と」
「それはもちろん」
アルヴィ様が穏やかに微笑みながらそう言うのを、カサンドラはただ信じられないといった様子で聞いていました。その視線は国王陛下に向けられたままです。
そして、国王陛下はどことなく不敵な笑みを浮かべ、こうおっしゃったのです。
「何しろ、邪な思いを抱いて触れる者は、骨すらも残らぬよう炎で焼かれるという宝玉だからな。我が王国の守り神として契約し、我が国の敵となる者を全て焼き尽くすという炎の精霊が宿る石だ」
「骨すら……」
カサンドラが一瞬だけ、怖気づいたかのように息を呑みます。
と、いうことは。
もし、カサンドラがアルヴィ様の肉体のまま、その宝玉に触れたら。
アルヴィ様の身体ごと、焼かれていたのでは。
――なんて、恐ろしい事実に気づいてしまいます。
わたしはそこでアルヴィ様とカサンドラの顔を交互に見つめていると、アルヴィ様がわたしの挙動不審な様子に気づいて顔を近づけてきました。
「本当に、起こしてくれてありがとう、ミア」
アルヴィ様の囁き声が、耳元で。
それだけでなく、ふと、気が向いたと言わんばかりにアルヴィ様がわたしの頭を撫でてくれました。ルークを撫でるような手つき。
でも。
体中の血液が逆流でも起こしているのではないかと思うほど、全身がくらくらして。
わたし、このまま死んでしまうかもしれないと思いました。
「さて、全員くるかね?」
国王陛下はそう言って、ただ静かに国王陛下とアルヴィ様の会話を聞いていたナイジェル様たちにも視線を投げました。
明らかに彼らは、わたしたちの連れといった様子でそばにいたので、国王陛下もお気遣いしてくださったのだと思います。
明らかにナイジェル様とオーランド様は申し訳ないと言いたげに国王陛下を見つめ返し、それでも興味ありそうな輝きの目の色は隠せていませんでした。
「先ほども言った通り、触れないと約束できるのであれば構わんが」
「同行させていただいても?」
オーランド様がナイジェル様と目配せした後、アルヴィ様に小さく訊きます。
アルヴィ様は頷き、それからカサンドラに近づいて小さく言いました。
「国王陛下のご厚意に感謝を」
「……ありがとうございます」
カサンドラは、意外なほどに静かに、そして真剣な眼差しを国王陛下を向け、深く頭を下げました。
国王陛下、王女様、そしてエーデルマン王国の宮廷魔術師様たちと騎士様たち。
その後に続いて、アルヴィ様とわたしとルーク、ナイジェル様とオーランド様、カサンドラが続いて廊下を歩いていくことになりました。
シャルロット様はダニエラ様と一緒に大広間に残りました。
ミランダという女性も、歌劇団の皆様と一緒にその場に残っています。でも、その表情はぎこちなく、アルヴィ様のことを困惑したような目で見送っていたようです。
色々と解らないことが残っています。
おとなしくなってしまったカサンドラの様子も、腑に落ちません。
あれほど気の強い女性だった彼女が、こうして静かにしているのは、何か裏があるのかもしれないと勘ぐってしまうのです。
わたしはアルヴィ様のすぐ後ろを歩きながら、じっと考え込んでいました。
でも。
アルヴィ様と、その肩に乗っているルークの姿を見ていると、何だかもう、どうでもいいような気もしてきます。
アルヴィ様が今そこにいて、ルークが前と同じようにだらけきってくつろいでいる様子を見てしまうと、何だか、説明は難しいのですけども。
何も心配いらないような気がして。
「ここだ」
と、国王陛下がわたしたちを連れていってくれた場所は、王城の地下です。
明るく広い廊下を歩き、それから地下へと続く階段へ降りて、幾度か扉を開けてさらに下へと降りて行った先。
警備の人間らしき男性を何度も見て、その脇を抜けて辿り着いた地下にある、不思議な空間。
明らかに、何らかの魔術によって守られているというのが解る、広い部屋です。
地下ですが、とにかく明るい場所でした。壁にある明かりだけではなく、その部屋の中央にある祭壇のようなところで煌々と輝く光が、部屋全体を照らし出しています。
その光の中に、少しずつ色が変わる炎が見えました。
赤い炎、オレンジ色、白、青、紫。
少しずつ色を変え、また元に戻る。
揺らめく炎。
でもそれは、よくよく見るとただの炎ではなく、とても大きな塊なのです。
ルークの身体よりも少しだけ小さな、でも、宝石と呼ぶには大きな石。
それが、不思議な炎に包まれて燃えています。
それが飾られているのは、石造りの大きな台です。それが祭壇のように見えて、そしてどこか神々しくも思えました。
そして唐突に、その部屋の中に突風が吹いたと思いました。
誰もが困惑したように足をとめた瞬間、わたしはアルヴィ様の身体がその風に包まれて、その長い髪の毛が揺れるのを見ました。
そして、炎の宝玉を包んでいた炎が風を受けて天井まで届くかのような火柱を上げ、誰もが息を呑みます。国王陛下がフランチェスカ様の肩を抱き寄せ、それを魔術師様たちが守るように前に出て。
火柱の中から、巨大な影が浮かび上がります。
人間とは違う、形の影が。
そして、アルヴィ様の背後にも、別の影が見えたと思いました。
「面白いものを連れてきたな、王よ」
と、炎の影が男性のものとも女性のものともつかない、曖昧な響きのする声を上げたのです。
「面白いか?」
国王陛下が静かに笑い、それから何か説明しようと口を開きかけたのですが、炎の影は僅かに身じろぎすることでそれを遮りました。
「何があったのかは、風の友に聞いた。説明は不要だ」
「風の友?」
国王陛下が眉根を寄せると、炎の影の前に、アルヴィ様の後ろから現れた影が辺りの空気を揺らします。そして、その影も色を濃くし、国王陛下の前にはっきりと姿を見せました。
それは炎のようにはっきりした姿ではありません。
でも、何かの力がうねりとなって、まるで小さな嵐のようなものがそこにできています。
「僕は風の精霊の加護を受けていますので」
アルヴィ様が国王陛下にそう言うと、驚いたような視線が返されます。
「風の精霊は気難しいと聞くが……」
「僕のところは結構大丈夫ですね」
「凄い……」
フランチェスカ様の感心したような声も聞こえます。
そこに、急にカサンドラが一歩前に出ると、炎の影――精霊へと声をかけたのです。
「どうか、お願いがございます。お力をお貸しいただけないでしょうか。シュタインの種を焼く力を」
シュタインの種?
わたしが困惑し、そして誰もがわたしと同じく唐突な彼女の言葉に顔を見合わせたのですが。
炎の精霊も、アルヴィ様も、何もかも理解しているかのように静かにそこに立っていて。
「人間の無力な娘よ」
炎の精霊はまるで獣のような唸り声に似たような響きと共に言いました。「そなたも自覚があるだろうが、そなたのような人間には力は貸せん」
「そんな……」
「そなたがやろうとしたことは、全て風の友に見せてもらった」
そこで、カサンドラが虚ろな目つきでアルヴィ様を見つめて、「嘘でしょ」と呟きます。
「人間とは欲深き生き物だ。だからこそ、選択を間違うのだな」
「でも」
そこで、アルヴィ様が口を開きました。
「カサンドラ、君は最初から間違っていたんだよ」
「間違って?」
「なぜ、あんな方法を選んだ? なぜ、僕の身体を悪用しようとした?」
「だって」
「なぜ、最初に僕に訊かなかった? 力を貸して欲しい、と助けを求めなかったのはどうして? 正攻法で炎の精霊の力を借りようとしなかったのは、なぜ?」
それはどこか――切なくも聞こえた声でした。
国王陛下も、フランチェスカ様も、そしてナイジェル様やオーランド様もこの状況を理解できなかったと思います。
でも、黙って聞かずにはいられない雰囲気に呑まれ、誰もが沈黙を守っていました。
「僕はね、正しく求められたのだとしたら、力を貸すことはやぶさかではなかった。きっと、君に協力しただろう。なぜなら、君は正当な理由があり、炎の精霊の力を欲していた。そして僕は、それを手伝えるだけの力がある」
「アタシは」
「君は欲望に負けて、一番大切な願いを後回しにした。それはね、とても残念なことだと思う」
「アタシ……アタシは」
カサンドラが俯いて唇を噛みました。
そこに畳みかけるように、アルヴィ様は言葉を続けます。
「君の本当の願いは何だった? 何が一番大切だった?」
少しだけ長いと感じる沈黙の後。
カサンドラが俯いたまま応えました。
「リンジーを助けたいのよ。アタシの、幼馴染みの」




