第5話 逆に気持ちいいです
「その、何とかっていう幼女好きな男の屋敷の場所は解る?」
アルヴィ様が黒猫――ルークを自分の左肩に乗せ、その後でわたしのほうへと手を伸ばしてきました。
わたしがどうしたらいいのか解らず身体を硬直させたまま、何とか頷いて見せます。
「はい。何しろ、街一番の大きなお屋敷ですし、案内などなくても解ると思います」
「なるほど」
アルヴィ様はそう言って、ソファから立ち上がりました。そのまま廊下のほうへと歩いていってしまわれるので、わたしもその後を追います。
彼は玄関を出て、暗闇の中、天を見上げています。
わたしはその背中を見つめたまま困惑することしかできません。
「水より、風を使おうか。まだ夜は冷えるからね」
アルヴィ様は不思議なことを言います。
水より風?
どういう意味なのか、とわたしが次の言葉を待っていると、彼はその右手を上げて何事か囁きました。それは、わたしたちの国の言語ではなさそうでした。
そして、彼の手のひらがうっすらと光を放ち始め、いきなり光の帯が天へと伸びました。
「さて、いこう」
アルヴィ様はそこでわたしを振り返り、右手から光を放ったままの状態で微笑みます。その光の帯には、奇妙な文字のような羅列が見られました。
――魔術師様、だもの。
わたしはぼんやりと思います。
何が起きているのか、そしてこれから何が起こるかなんて解りませんでしたが、わたしはアルヴィ様のほうへ歩み寄りました。
「いこう、って、街に、でしょうか?」
わたしが困惑しつつぎこちない質問を口にした時です。
アルヴィ様がもう片方の手をわたしに伸ばし、そのままわたしを抱き寄せたのです。
「え」
何か、咄嗟に声を上げようとしたと思います。
あまりにもわたしの理解能力を超えた状況だったので。
でも、それよりも先にわたしの足元に凄まじい風が湧きおこり、眩暈のような感覚の後、わたしたちの肉体は暗い空へと連れ去られていました。
何が、起きてるんでしょうか。
わたしは遥か下のほうに、暗い森を見ていました。
耳元で風が唸り声を上げています。髪の毛が前後左右に揺れ、時々視界が奪われつつも、今の状況ははっきりと理解できました。
空を、飛んでる。
しかも、アルヴィ様に、抱きかかえられた状況で。
あああ、どうしよう。
アルヴィ様の腕が。抱きしめられている状況で伝わってくる、そのしなやかな筋肉が。風に揺れて、時折彼の長い髪の末端が、さらりと触れて。
どうしよう。
ちょっと、待って。
何これ。
それはあっという間だったと思います。
空を飛び、空間を引き裂くように移動する。
そして、ノルティーダの街の外れにふわりと降り立ちました。
「大丈夫?」
地面に降りた途端、くらくらとした感覚に負けてその場に倒れそうになったわたしを、アルヴィ様が慌てたようにもう一度抱き留めてくれました。
あああ、ダメだ、これは。
「気分、悪い?」
アルヴィ様が気遣うようにそう言って、その肩の上にいたルークも困ったようにわたしを見て言います。
「……鼻血、出てんぞ」
「え」
わたしは慌てて自分の手の甲で鼻の辺りを押さえました。すると、ルークの言った通り、濡れた感触がそこに伝わってきます。
「ごめんね。慣れていないと気分悪くなるかもしれなかった。無理させたね」
アルヴィ様の困ったような表情があまりにも……あまりにも、でしたので、わたしはすぐに首を横に振りました。
「大丈夫です。逆に気持ちいいです」
「マジか」
ルークが眉間に皺を寄せています。
「そう?」
アルヴィ様はそこで少しだけ笑い、服のどこからかハンカチをわたしに差し出して続けます。「気持ちよく感じるくらいだったら、君は結構、見所があるかもね。風の精霊たちは乱暴者が多いんだけど、上手くやっていけるかもしれない」
「そうなんですか?」
よく、その言葉の意味が解りませんでした。
ただ、ハンカチを受け取ることはどうしてもできず、必死にそれを押し返します。アルヴィ様のものを、わたしの血で汚すなんてこと、絶対に許されないことだと思いましたから。
だから、自分のスカートの裾を掴んでそこで拭おうとしました。
すぐにアルヴィ様にその手首を掴まれ、阻止されてしまいましたが。
「とにかく、空の上から見えたね。街一番の大きな屋敷。そこに向かおうか?」
「……はい、すみません」
わたしの謝罪の言葉は、今のアルヴィ様の行為に対してです。
結局、アルヴィ様は有無を言わせぬ仕草でハンカチでわたしの鼻元を拭い、そのままハンカチをわたしに渡します。そのまま使え、ということらしいです。
わたしは心が締め付けられるほど申し訳なく思ったのですが、それ以上拒むこともできず、おとなしく受け取りました。
……早く、洗って返さなくては。
「お前、変わってんなあ」
ルークが翼をばさばさと動かしながら、わたしを見ています。それは奇妙な輝きを放っているように思えました。そしてその後で、一気に黒猫は天へと羽ばたき、我々よりも遥かに高い場所から見下ろしてきました。
「ご主人! あっち、あっち!」
「解った。ちょっとゆっくり歩くよ。女の子はか弱い生き物だということを忘れていた」
「いえ、わたしは大丈夫です」
「別にいいよ。月も綺麗だし、少しはゆっくり散歩してもかまわないだろう」
「でも」
わたしは小さく呟きました。「読みたい本がおありだとおっしゃってましたのに」
「ああ」
アルヴィ様が苦笑します。「確かにルークの言う通り、君は変わってるかもね。君に降りかかっている問題のほうが重要だろう」
「そうでしょうか」
「そうだよ。夜逃げしようとしている状況なのに」
「……まあ、確かにそうかもしれないですね」
変わっている、なんて言われたことはありません。
きっと、もしアルヴィ様に『変わっている人間』と思われているなら、わたしはいつものわたしではないのでしょう。アルヴィ様のそばにいて、浮足立っているわたしだから。いつもとは違う、変な態度を取っているのかもしれません。
――気を引き締めないと。
わたしは唇を噛んで、そう自分に言い聞かせます。
そして、『もう少しだけ続いて欲しいな』と願ってしまう『散歩』の後、わたしたちはヒューゴ・エルマルの屋敷の前に立っていました。
屋敷をぐるりと取り巻いた高い壁、大きな門と重々しい扉。
金属の輪でできたノッカーも、普通のお屋敷には取り付けていないだろうと思われる、いかにも高級そうなものです。
天から降りてきたルークをまた肩に乗せたアルヴィ様は、そのノッカーを掴んで打ち鳴らします。
そんな仕草すら、優雅なのだなあ、とわたしはぼんやり見つめることしかできませんでした。