第45話 命をかけられるくらい大切な
「話をしてもいいけど、腹へったにゃ!」
厳しい表情のナイジェル様、オーランド様を目の前にしても、ルークのマイペースな態度はいつもと変わりません。
お腹に手を当てて、いかにも空腹といったことを自己主張すると、オーランド様が呆れたように息を吐いて、そっとナイジェル様を見やりました。
すると、ナイジェル様はわたしたちの顔を交互に睨みつけた後、静かに頷きます。
「ここでは話せないだろうから、宿に戻ろう」
そう言った後で、彼は暗闇の中でもルークの頬の傷に気づいたのか、息を呑んで動きをとめます。それに気づいたオーランド様も、ルークに近づいてその傷を見つめました。
「……これは?」
「もう治ってるにゃ」
「いや、そうじゃなくてですね」
「後で話すし、とにかくメシ!」
ルークはそう言うと、オーランド様の手を掴んで自分から歩き始めました。手をいきなり引かれた彼はあからさまに慌てていましたが、当たり前のようにルークはそれを無視します。
「シャルロットに見られたら殺されるぞ、お前」
と、ナイジェル様が冷ややかに言うと、ルークはそこで少しだけ考えこみ、オーランド様の手を放します。そして、ナイジェル様に目を向けて言いました。
「じゃあ、お前、手を握る?」
と、手をひらひらさせると、ナイジェル様が目を細めて見せました。
ルークがニヤリと笑って、「冗談だって」と小さく呟き、そのまま足取り軽く通りを歩いていきます。
わたしはルークの肩に乗ったままでしたから、わたしたちの後をついて歩いてくることになったお二人の表情は見えません。でも、それぞれまたため息をついたのは聞こえました。
――呆れられてるみたい。
まあ、仕方ないことでしょうが。
「どうしたの、その怪我」
宿に戻ると、シャルロット様が驚いた声と共にわたしたちを迎えてくれました。そして、ルークの頬を見て痛まし気に眉根を寄せます。明るい部屋に入ると、こちらの状況のとんでもなさが誰の目にもはっきりと見えるわけです。ルークの血だらけの服、血が乾いて固まりかけたわたしのお腹の毛。
「ちょっと、オーランド、治療は?」
シャルロット様がわたしたちの後から部屋に入ってきたオーランド様に駆け寄ると、そう声をかけます。しかし、オーランド様が口を開く前に、ルークが明るく言いました。
「大丈夫、大丈夫! もう治してもらったにゃ!」
「私が治したわけではありませんがね」
オーランド様がそこで小さく呟くように言うと、シャルロット様が問いかけるような視線をわたしたちに向けました。
「その説明をしてもらうつもりなんだが」
ナイジェル様が部屋の奥にあるソファに腰を下ろし、そう低い声を吐き出します。「俺が食事を運ばせるように手配をしているうちに、お前たちは消えた。行先は予想がついたが、本当にあのオトコオンナと接触していたとは呆れたものだ。さて、何があったか、最初から話せ」
「っていうわけだにゃ」
ルークは、その部屋に運んできてもらった料理の乗った皿を抱え込みつつ、一通りの説明を終えました。
わたしはルークの座っているソファで、彼の膝の上で足を崩して寝そべっています。何だか疲れているせいで、きちんと座ることができません。寝ていいと許可さえあれば、今すぐにでも寝られそうなくらい、身体がだるく感じられます。
「……信用していいのか? つまり、お前たちの探している魔術師が、何もかも解決してくれると」
「ご主人は強いからにゃ、大丈夫」
ルークはそう言いながら、テーブルの上に置いたままだったグラスを手に取り、そのグラスに入った琥珀色の液体を飲み干しました。
そして、小さくしゃっくりをします。
「何だこれ、これがもしかして酒ってやつかにゃ」
そう言った後で、ルークはニシシ、と笑って身体を左右に揺らします。
それは完全に酔っ払いの動きです。
――あの、ミア・ガートルードはまだお酒を飲んだことがないのですけれども!
ルークはふわふわした動きを見せた後、それでも意地にでもなっているのか、皿に乗っている料理を全部綺麗に食べつくした後にソファにもたれかかって目を閉じました。
その彼の手から落ちそうになる皿を、オーランド様が素早く受け止めてそれをテーブルに乗せます。それでも、ルークは目を開けようとはしませんでした。いえ、できなかったのかも。
「信用していいんだな?」
ナイジェル様がオーランド様の動きを見つめたままの格好で言って、わたしは我に返ります。
ソファに座って、くつろいでいる横顔を見せるナイジェル様。でも、少しだけ緊張しているようでした。
「信用……って、アルヴィ様をでしょうか」
ルークが返事をできるような状況ではないので、わたしがそう応えます。
すると、ナイジェル様が頷いて見せました。
「姉上は無事だと信じていいな? もうこれ以上、危険なことは起きないと信じていいんだな?」
「はい」
わたしはあっさりとそう言いました。
今、アルヴィ様の元で何が起きているのか解りませんし、あのカサンドラも何を考えているのか解りませんが、アルヴィ様があんなにも力強く約束してくださったのですから、もう何も心配などしなくてもいいのです。
――多分。
そう、多分。
まあ、少しだけは不安が残ります。
何が起こるのか解りませんし、ただ結果を待つだけというのはもどかしさを感じるのは間違いないのですが。
それでも、わたしはアルヴィ様を信じます。
きっと、何とかしてくださる。一番、いい形で決着をつけてくださる。
そう信じたいのです。
そしてきっと、ナイジェル様も信じたいのだと思います。だから、ここでわたしが不安になるようなことを言ってはいけません。何があろうと、ナイジェル様の求める答えを出さなくてはいけないのです。
「アルヴィ様は、本当に素晴らしい魔術師様でいらっしゃいますので」
そう力強く聞こえるように言うと、ナイジェル様は少しだけ表情を和らげて頷きました。
「解った、信じよう」
「それで、これからどうされますか?」
わたしとナイジェル様の会話が終わったと思ったのか、オーランド様がナイジェル様にそう訊いてきます。すると、ナイジェル様はしばらく何事か考えこんだ後、もう一度わたしを見つめました。
何だろう、とわたしが首を傾げると、いきなりナイジェル様はソファから立ち上がり、オーランド様に言いました。
「湯をもらってこい。こいつの腹を洗う」
「え?」
わたしは驚いて身を起こすと、逃げる間もなくナイジェル様に身体を抱き上げられてしまいました。そして、逃げようとするわたしを無理やり抱きしめると、部屋の奥にあった扉の方へ向かいます。
「え、え、え?」
わたしが混乱している間に、ナイジェル様はその扉を開けます。そしてそこにあったのは、どうやらバスタブらしきものです。わたしが今まで家で使っていたような、木でできた簡素なバスタブではありません。とても高級そうな、貴族様が使う陶器製の巨大なバスタブ。
そこに放り投げられたわたしは、何だか訳が解らないまま、身体を洗われることになったのでした。
「お前は女なのだろう」
オーランド様が持ってきてくださったお湯で、そしていい匂いのする石鹸で身体を洗われながら、わたしはただ困惑していました。
ぎこちない手つきながらも、ナイジェル様がわたしの身体を洗っているというこの状況は、一体何なのか。
「あの、『俺様』とかほざいている猫の身体と、こうして入れ替わっている、そうだな?」
「ええ、はい」
そう説明したはずです。
今更、どうしたんでしょうか。再確認するような内容ではないと思うのですが。
「しかし、いくら身体が入れ替わっていたとしても、こうして血だらけになるのは怖いとは思わないか。殺されるところだったんだろう?」
「ええ、そうですね」
わたしは首を傾げつつ、すっかり綺麗になった身体をぷるぷると震わせて水滴をまき散らします。すると、ナイジェル様が小さく舌打ちしつつ、布でくるんでわたしをごしごしと拭いてくれるのです。
どうやら、女性が苦手でも動物が好きだと言っていたのは間違いないようです。
「なぜ、ここまでできるんだ?」
「なぜって……」
わたしは苦笑しました。「だって、当然じゃないでしょうか」
「当然?」
「わたしは身体を元に戻したいですし、アルヴィ様に元に戻って欲しいです。そのためだったら、何でもできます」
「しかし、殺されたら終わりだろう」
「うーん……、確かに殺されるのは怖いですけど、ルークもいますし」
「……好きだから、か」
ふと、ナイジェル様が奇妙な声色で言ったと思いました。
だから、顔を上げて彼の表情を観察しますが、そこにはただ真剣な眼差しがあるだけ。
「その魔術師を好きだから、何でもできる、と」
「う、うーん?」
わたしは首を傾げつつ、ナイジェル様の様子がおかしいと思いました。「好き、というか……アルヴィ様をお慕いしているのは事実です。でも、アルヴィ様はわたしのご主人様ですから、当然じゃないでしょうか、こういうのは」
「主人だから?」
「はい」
「命をかけられる相手がいるというのはいいものだな。俺にはない感情かもしれない」
やがて、ナイジェル様がそう力なく呟いて、わたしは苦笑します。
だって、そんなのおかしいじゃありませんか。
「ナイジェル様だって、ダニエラ様をお救いするために命をかけられるのではありませんか?」
「ああ……」
そこで、意外なほどに彼は驚いたような目をして見せました。本当に自覚がなかったのかもしれません。
「誰だって、きっと命をかけられるくらい大切なものがあるんだと思います」
わたしが続けてそう言うと、ナイジェル様が笑います。
「お前にとっての主人のように、か」
「はい」
そして、ナイジェル様はそれきり、黙り込んでしまいました。
オーランド様も奇妙な目つきでナイジェル様を見守るだけでした。
そして、わたしがバスルームを出される頃には、ルークはすっかりソファの上で眠り込んでいて、わたしが声をかけてもぴくりとも動きませんでした。たまに寝言は言っていたようですけれど。
わたしはルークに寄り添い、そのまま丸くなって目を閉じます。
気が付けば、わたしも深い眠りに落ちていました。アルヴィ様に会えて、安心してしまったからでしょうか。
もう大丈夫。
そう思うと、安堵と眠気には勝てるはずなどありませんでした。




