第43話 この後は、全て僕が何とかする
魔力を流し込む、というのがどういうことか解りませんでしたが、とにかく犬歯がアルヴィ様の腕に食い込んだ瞬間、自分の――ルークの身体の中にある魔力に意識を集中させました。
すると、噛んだ腕から何か反発する力を感じました。
そして。
わたしたちを取り巻く空気が凍った、感覚がありました。
何もかもが停止する。風も、音も、何もかもがとまる。そんな感覚の後で。
アルヴィ様の表情が、変わりました。
見覚えのある顔、雰囲気の――。
「ご主人ーっ!」
ルークが叫んだのが聞こえます。
でも、わたしはその時、力尽きて地面に転がっていました。どうやっても身体に力が入らず、声も出せない状況で、ただ顔だけをアルヴィ様の方へ向けて浅い呼吸を繰り返します。
すると、アルヴィ様は額に手を当てて目を細めた後、きつく唇を噛むのが見えました。
「……僕はね、身内を攻撃されるのが一番嫌いなんだ」
アルヴィ様が冷ややかに、まるでそれは凍てついた息を吐くかのように呟くのが聞こえて。
その表情からも、優しさとか、以前見ていたはずの柔らかさなどが何一つなくて、ぞっとするような冷酷さすら感じられるのに、それでも美しいと感じるのはなぜなんでしょうか。
「ごめん、痛かったろう」
そこで、アルヴィ様がわたしのそばに膝をついて、その優しい手を伸ばしてきました。
その時のアルヴィ様の表情は、いつもの穏やかなものへと変化していました。
そうしてわたしの頭を撫でてくれた手の優しさは、泣きたくなるくらい嬉しかったです。いいえ、泣いていたのかも。目尻が熱く感じて、でも、何も言葉を発することのできないわたしがもどかしくて。
すると、アルヴィ様の手がわたしのお腹に伸びました。
ちりちりとした痛みと、弾ける熱。
わたしが呻くと、すぐそばにルークがしゃがみこむ気配があります。
目を開けていなくても、ルークの――ミア・ガートルードの肉体が放つ気配が解るのは、何となく奇妙な感じがします。
そして気が付くと、わたしは前足を動かして、力を入れることができるようになっていました。
起き上がることも、翼を動かすこともできます。お腹の方を見ると、そこは深紅に染まっていましたが、傷口などは毛に覆われて見えません。
さっきまでの痛みは完全に消え去っていましたが、動くのは少しつらくて、身体が酷く重く感じます。起き上がって、その場に座ることはできても、いつものようにルークの肩に乗ることはできませんでした。
「酷いな」
アルヴィ様はわたしから手を放すと、ルークの頬に触れました。
ミア・ガートルードの左頬から耳にかけて切り裂かれた傷口は、あまりにも痛々しいものでした。流れ落ちた血は、首筋から肩、服にまで飛び散っていて、それは惨憺たる有様です。
アルヴィ様が苦し気に目を細め、唇を噛んでからわたしを見下ろしました。
「ごめんね、ミア」
「え?」
「後で絶対に、傷跡の残らないように治してあげるから、少し待ってくれ」
「え、あ、はい」
わたしがすぐに頷くと、そこでアルヴィ様は少しだけ安堵したように息を吐きます。
「まだ、僕は起きたばかりで魔力が完全に復活していない。治療魔法は結構魔力を必要とするからね、今、その魔力を使ってしまうとこの身体の中にいる『彼女』を抑え込むことができなくなる」
「あの……」
わたしは少しだけ不安になって訊きます。「まだ、アルヴィ様の身体の中にカサンドラ……あの女の人がいるんですか?」
「そうだね」
そこで、アルヴィ様がミア・ガートルードの頬から手を放しました。
傷跡は残っています。
でも、傷口は塞がっていて、ルークももう痛みは感じていなさそうに笑います。
「ありがとにゃ、ご主人」
「いや」
アルヴィ様はそこで一度、何か考えの中に沈み込んだかのように沈黙します。
そして、やがて小さく続けました。
「たとえどんな理由があろうと、それがどんなに同情すべき理由であろうと、やはり僕は許せないと思う」
「……同情、ですか?」
「今、『彼女』の記憶は読んだ。何が起きたのか、全て理解はできたけれど、それでも君たちを傷つけたことは僕にとっては最大の罪だ」
「あの、同情すべき点があるんですか? 一体、彼女は何を考えてこんなことを?」
わたしがそう訊いても、アルヴィ様の耳には届いていないようでした。
「だからね、僕は彼女の行動を邪魔しようと思う。僕の選んだ道を進んでもらう」
――それは、どういうことなのか。
わたしとルークがそれぞれアルヴィ様の顔を見つめていると、彼はやがて静かに微笑んで見せました。
「せっかく、いい舞台ができあがっている。せいぜいそれを利用させてもらうことにするよ」
「何すんの、ご主人」
「ゆっくり説明している暇はなさそうだ」
アルヴィ様はそこで辺りを見回しました。
気づけば、先ほどまでの凍てついた空気、止まった時間のような空間は揺らぎを見せ始めています。
何かが軋むような音が続き、そしてゆっくりとこの場所に音が戻り始めていました。
「悪いね、二人とも」
アルヴィ様はもう一度、わたしの頭を撫でました。「もう少し、僕は魔力の回復に努める。その間、君たちはその姿のままでいてくれ。『彼女』を油断させるためにね」
「そりゃいいけど、俺様たち、元に戻れんの?」
ルークがわたしも心配していたことを口にしてくれました。そして、あまりにもあっさりと嬉しい返事があります。
「ああ、そのくらい簡単だ」
「ならいいぞ!」
「ありがとう」
そこで、彼は珍しくいたずら好きそうな笑みを浮かべて見せました。
そして、わたしの喉元をくすぐります。心地よい、と感じる前に、わたしの首の周りにあったコーデリア様の首輪が軽やかな金属音と共に外れます。
「さて、少しだけ派手にやろう。コーデリアにも協力を求めようか」
彼の手の上で、くるくると回る首輪がゆっくりと小さくなり、指輪へと変化します。その指輪をそっと握りしめ、アルヴィ様は何事か魔術の呪文の詠唱をします。そして、もう一度開かれた手のひらの中には何も残っていませんでした。
「さてルーク、そしてミア」
「お?」
「はい?」
「君たちは観客だ。もう、この後は遊んでいていい」
「え、マジか」
「大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫だよ」
そこで、アルヴィ様はゆっくりと宿屋の建物の方に歩み寄り、その壁に寄りかかって首を傾げて見せました。「この後は、全て僕が何とかする」
その、少し後のこと。
わたしとルークは、裏庭の植木の陰に身を潜めていました。
すると、少し離れた場所にいるはずのアルヴィ様の気配がゆらりと揺れて、カサンドラの気配が生まれます。
そして、吐息交じりの声が聞こえました。
「……アタシ……何をしていたかしら……」
どうやら、さっきまでのことを覚えていないようで、少しだけ何か考えているような沈黙も生まれます。
「アルヴィ様? お食事の準備ができてますけど」
そこに、宿屋の方から若い女性の声が飛んできました。
「……ああ」
すると、カサンドラの声に僅かな緊張が走り、その声色が静かなものになりました。きっと、アルヴィ様を演じている声なのでしょう。
「ありがとう、ミランダ」
カサンドラはその声の主にそう言うと、相手の女性が弾んだ声を返します。
「それより、こんなところで一人、どうされたんですか? まさか、逃げてきたんですか?」
「……少し、空気が悪いからね。彼らの間にいると」
「アルヴィ様、モテるからー」
「クリストフほどではないよ」
「またまたぁ。今、うちの女性団員は、クリストフ様派とアルヴィ様派の派閥争いがあって、若干、アルヴィ様派の方が強いじゃないですか」
「困ったものだね」
そんな、意外なほどに打ち解けた二人の会話を物陰で聞きつつ、わたしとルークは目配せし合いました。
二人の足音が建物の方へ消えてしまうのを待って、わたしはルークに小さく囁きました。
「帰りましょう」
「そだな」
ルークも素直に頷きます。
そしてまた、人目を避けて裏門の柵を乗り越えて暗い路地に降り立ちます。
わたしはまだとても翼を使う元気がなかったので、ルークの身体にしがみついていたのですが。
「ゆっくり話を聞かせてもらいましょうか」
と、目の前に現れたオーランド様とその後ろに立っていたナイジェル様を見て、お互い、身体を硬直させました。




