第4話 壺の値段
「すみません」
わたしは黒猫を抱きなおして、もう一度ソファに腰を下ろしました。
じたばたと暴れている猫の喉元を撫でながら、わたしは埃っぽい床に視線を落とします。
すると、アルヴィ様が優しく笑って続けました。
「とにかく、その何とかという男性から逃げたいということだね?」
「……はい」
わたしは喉をごろごろさせ始めた猫を見つめながら頷きます。「でも、色々と困ったことになっていまして」
「困ったこととは?」
「……あの。わたしの家は、街でパン屋をやっています。頼まれれば、配達もいたします」
「うん?」
「エルマル家にも、たまに配達をしていたんです。わたしも家の手伝いで、父と一緒にエルマル家にいきました。あの屋敷の主が幼女好きだという噂は出回っていますが、さすがに来年には十六歳になる大人の女性には興味がないだろうと考えていたんです」
「だから、今年はまだ春だよね?」
「ノルティーダの人々は、幼い少女のいる家などは本当に警戒していまして。ヒューゴ・エルマルの目の届くような場所には子供の姿を絶対に見せないようにと徹底しておりました。だから、なのかもしれません。幼女っぽい体系のわたしに目をつけたようで、父に言ったそうなのです。娘を召使として出すつもりはないか、と」
「なるほど」
「もちろん、父は断りました。わたしは一人娘ですし、パン屋の仕事もありますし、絶対に無理だ、と」
でも、相手は引き下がらなかった。
いえ、一度は引き下がったようなのです。それなら仕方ない、とヒューゴ・エルマルは笑っていた、と聞きました。
でも。
「その後、父だけがエルマル家に配達のために何度か足を運んでいました。でもある時、父は袋いっぱいにつめたパンを、屋敷の中に運ぶようにと言われて、その通りにしたのだそうです」
「中へ?」
「はい。珍しいこともあるものだ、と父が考えつつ、言われるままに屋敷の中、台所へ運び込もうとする途中で、なぜかそのお屋敷にあった大きな壺を割ってしまったそうで」
「壺、ねえ?」
「それが、王都で手に入れた、とても高価な壺なのだ、と」
「ああ、なるほど」
アルヴィ様は薄く微笑みます。「弁償しろと言われたのだね? しかし、高価すぎて払えなかった?」
「はい」
情けない表情をアルヴィ様に見せている自覚はありました。
なにしろ、父から聞いた弁償金額は、我が家の年収の数十倍近いものだったから。とてもそんな金額、払えるはずがありません。考えるだけで身体が震えてきます。
我が家は街の小さなパン屋で、細々と暮らしているだけでしたから。
小さな店舗を売り払っても、どうにもなりません。
家財道具だって、値もつかないような古いものばかりで。
「今、本当にこの瞬間といってもいいですが、母が夜逃げしようと荷造りを始めています」
「……夜逃げ」
「父も、泣きながら従っています。祖父から受け継いだ店ですから、父も悔しいのだと思います」
「う……ん、何て言って慰めたらいいのか」
「あの」
わたしはそこで、黒猫をソファの上に放り出して立ち上がり、深く頭を下げました。「アルヴィ様はとても力のある魔術師だとお聞きしています。どうか、お願いです。一生かけてあなた様にお仕えします。だから、その壺をアルヴィ様のお力で、直していただけないでしょうか!」
一瞬の間がありました。
わたしはいつしか、目をぎゅっと瞑っていて、頭を下げたままの格好で固まっていました。
もし、それが無理なら。
このお願いを聞いてもらえなかったら。
すぐに、家に戻らないといけないのです。
逃げなきゃ。
生まれたときからずっと過ごしてきた、この街を捨てて出ていかなければいけない。
もしくは。
ヒューゴ・エルマルのお屋敷へ……行かなくては、いけない。
厭、なのです。それは。
それだけは。
絶対に、厭なのです。
わたしがアルヴィ様を初めてお見かけしたのは、何年前のことだったでしょうか。
そのころから、わたしは家の手伝いをしていました。
店番をして、店先にやってくる街の人々にパンを販売するようになり、そこで色々な人の姿を観察するようになりました。
店の前には街の人々が行きかう大通りがあり、その通りの反対側には薬屋の店がありました。薬屋には年配の女主人がいて、時々、そこにアルヴィ様の背中を見かけるようになりました。
いつだったか、アルヴィ様が珍しく薬屋だけではなく、他の店も見回っていることに気づきました。気まぐれだったのかもしれません。いくつかの店を見てから、通りの反対側にあるパン屋にまで足を運んでくださいました。
そして、店先に並んだパンを買ってくれたのです。
今のアルヴィ様より若くて、でも、眩しいまでのそのお顔はとても印象的で。
わたしは間近で見たアルヴィ様のその綺麗な顔立ちに、ぼんやりしていたと思います。
「家の手伝いなのかな? 偉いね」
アルヴィ様はそう言って、笑顔をわたしに投げてくれました。そして、その白い手を伸ばして、わたしの頭を撫でてくれました。
死ぬかと思いました。
こんなに綺麗な人は、今まで見たことがなかったからです。
アルヴィ様が街の住人でないことは、すぐに解りました。どうしても気になって、薬屋の女主人であるダリアさんに聞いたから。
リーアの森の奥に住む、とても力のある魔術師様なのだ、と。
それからずっとずっと、気になって仕方ありませんでした。
アルヴィ様が薬屋へと姿を見せるのを、その背中を、わたしはずっと見つめ続けてきたのです。
この感情をどう説明したらいいのか解りません。
ただ、どうしても。
少しでも長く、見つめていたくて。
でも、この街を出ていくことになったら、もう二度とお会いできない。
それも……厭でした。
だったら、せめて一度だけでもお話しできたら。
どうせ、もう何もかも終わってしまうなら、せめてその前に。
暗い夜道を歩き、森の中で迷ってしまっても、もし途中で森の獣に襲われて死んでしまっても。
後悔なんてしない、そう思いました。
「うん、まあね」
アルヴィ様は小さく声を上げて笑いました。「さっき、勢いで主人になると言ってしまった手前、やってみてもいいよ」
「……え?」
わたしは恐る恐る頭を上げ、アルヴィ様の顔を見つめます。
「読みかけの本もあるし、続きを早く読みたいのでさっさと終わらせようか?」
「え?」
彼はソファから立ち上がり、ぽかんとして口を開けたままのわたしの肩を優しく叩きました。
「ところで、君の名前は?」
「え、と」
「僕はアルヴィ・リンダール」
「あの、わたしは」
喉の奥がだんだん乾いてきた気がします。これは何でしょうか? 緊張ですか、それとも歓喜、なのでしょうか。
アルヴィ様に名前を聞かれている。
この、わたしが。
「ミア・ガートルードと申します」
わたしが必死に言葉を絞り出すと、足元のほうから猫の声が聞こえてきた。
「俺様はルークだぞー」
「そうだね」
アルヴィ様はそう言って、翼を軽く揺すって宙に浮かび上がってきた黒猫を抱きとめました。