第37話 恋というより、憧れ
「ご主人の気配が強くなってきたにゃ」
翌朝、馬車に揺られながらルークが窓の外を見つめています。
わたしも何となく、奇妙な気配を感じていました。それがアルヴィ様のものかどうかわ解りませんが、ルークの持っている魔力の流れとは全然違う波のようなものが遠くから伝わってくるような。
「でも、遠いですよね?」
わたしが言うと、ルークが唸るように言います。
「そーだなー。まだ遠い」
「もう、隣国に入っていると思います?」
「多分にゃ。でも、動きが鈍いから……もしかしたらだけどにゃ、ご主人も俺様たちと同じ方法で移動しているかもしれないと思うぜ」
「同じ?」
「そ。どこかの貴族様と一緒、ってやつ」
「うーん」
そんなことを会話していると、同じ馬車に乗っているダニエラ様が意味深な笑みを浮かべつつ話しかけてきました。
「あなたたちのご主人様って、そんなに美形なの?」
「はい」
わたしはすぐに返事をします。彼女の方に向き直り、真剣に続けました。
「でも、アルヴィ様には心に決めた方がいらっしゃいますので、手を出すのはおやめください」
「おいおい、娘。手を出されるのはこのねーちゃんかもしれんぞー」
と、ルークがからかうような口調で言い、わたしの頭を撫でました。「何しろ、このねーちゃん、美人だし色気あるし。今のご主人の中身……女好きなんだし」
「あらやだ」
ダニエラ様はたおやかな手つきでご自分の口元を覆い、嫣然と微笑んで見せました。「美人で色気があるですって? 素直な子って好きよぉ」
わたしたちが乗っていた馬車は、ダニエラ様のものです。
馬車の中はとてもいい匂いがしています。花の香りのような、それでいて少し違う、強い香りです。
馬車の座席の上には化粧品と思われる小瓶がたくさん並んでいて、馬車の揺れに合わせて時々倒れそうになります。でも、ダニエラ様はあまりそれを気にせず、同じく座席の上に置いた鏡を前に、肌や爪の手入れに余念がありません。
そんな彼女だけの小さな部屋、ともいうべき馬車に乗せてもらったのは、何となく――ルークが気を遣ってくれた結果でもあります。
「あっちのねーちゃんと話がしてみたい」
と、ナイジェル様たちに言ってくれたから。
ナイジェル様は相変わらずわたしに何か言いたげにしていましたし、オーランド様はナイジェル様の様子に何か感じたのか、言葉少なでした。
シャルロット様はオーランド様にしか興味がなく、別に我々が別の馬車に乗ってもどうでもいいようでした。
「ちょっと待って、あなたにお化粧してあげる」
ダニエラ様はルークの腕を掴むと、自分の横に座らせて鼻歌を歌い始めます。そして困惑するルークを上手くなだめつつ、化粧などしたことのない平凡なその顔にあらゆるものを塗っていくのです。
「はー」
わたしはただそれを見上げ、息を吐くだけです。
だって、驚くことしかできません。
ミア・ガートルードという人間はそこそこ白く、健康的な肌だと思います。それでも、ダニエラ様の手によってさらに白く、なめらかな肌に見えるよう変身させられていくのを見せられました。
頬は女の子らしく、ちょっとだけ淡くピンク色になり、気づけば睫毛はこんなに長かっただろうか、と困惑し、唇が艶やかに可愛らしく色づけされると何だか見違えてしまいました。
「うん、これなら服も交換しなくちゃね」
と、ダニエラ様が抵抗するルークを抑え込み、あっという間に服を脱がせ、その馬車の床に置かれていた衣装ケースから選び出した一着のドレスを彼に無理やり着せました。
そして、明らかに胸の辺りが余っていると気づくと、彼女は舌打ちして他のドレスを探し始めます。
「ほんっと、胸がないわねえ。普通、色々締めあげて胸を盛り上げるのにこれじゃあ……」
と、嘆きの声も聞こえましたが、すっかり疲れ果てたルークには抵抗する気力も声を上げる余裕すら消えていました。
それでも、何とか胸のことは気にしないで済むようなデザインのドレスを見つけ出すと、満足したように彼女は声を上げました。
「これならいけるわね、よし!」
わたしはと言えば、見事にお人形の着せ替え遊びとなっているルークを見つめたままぼんやりしていました。
仕上げは髪の毛とばかりに、ダニエラ様がルークの髪の毛を結い上げ、少女らしい可憐な感じの編み込みを作っていくところになったところで、何とか口を開きます。
「ダニエラ様は、その……クリストフ様という方がお好きでいらっしゃるんですよね? こんな、隣国にまで追いかけていきたいと思えるほど」
「そうよ。大好き」
「それは、恋、ですか?」
「あらやだ」
そこで、思い切りわたしはダニエラ様にばしん、と平手打ちを喰らうような羽目に陥りました。思い切りわたしの身体が傾いだので、ダニエラ様はすぐに慌てて謝ってきましたが。
「あ、ごめんなさいね、痛かった?」
「いえ、大丈夫です」
「そう、使い魔の身体は強靭にできてるからにゃ」
ルークも言葉をやっとの思いで発してきましたが、明らかに疲れているようでした。
「クリストフ様は、特別な方なの」
ダニエラ様の口元が緩み、気の強そうなその顔立ちが急に和らいで女性らしい笑みに変わりました。「恋というより、憧れ、かしらね? 何ていうか、ものすごく好きだけど、触れちゃいけない感じの方」
「触れちゃいけない……」
「そう、わたしにとっては神様。きっと、他の女の子たちにとっても神様。誰も抜け駆けしてはいけない、距離を取らなくちゃいけない、特別な方」
「ああ」
――なるほど。
何だかまるで、わたしのことのよう。
触れてはいけない方。
つまり。
アルヴィ様のような。
特別な……お方。
「とにかくね、彼の声量が素晴らしいの。とても魅力的な声で、優しくて、その歌を聴いていると溶けちゃうみたいな感じというのかしら、男性の色気があるのよね」
「そういえば、歌劇団というお話しでしたね」
わたしがそう言うと、彼女はさらに鮮やかに微笑みます。
「舞台に立つような方ですもの、クリストフ様は頭はいいし、アクシデントも軽々といなして、舞台劇を完成させていくのよね。話術も巧みで、女性ファンはたくさんいるし、それでいて男性にも嫌われない雰囲気があって。とにかく素晴らしいの」
「凄いですね」
「でしょ? でも、手を出しちゃダメよ? いくらあなたの探している魔術師がイケメンとはいえ、クリストフ様には適わないから」
「出しませんよ」
わたしはそこで苦笑しました。
そしてルークも、ぐったりと座席にもたれかかって言葉を吐き出します。髪の毛の編み込みが終わり、どこかのお嬢様といった様子の彼は、そのままおとなしくしていれば結構可愛いような気がします。
「俺様だって男にゃキョーミねーし……」
そう言う彼を見て、慌てて自分に言い聞かせます。
いいえ、ミア・ガートルードはただの平凡な女の子で、可愛いと思ったのはダニエラ様の素晴らしい手腕のおかげ。
そう、気のせいです。
もしくは、今だけの魔法。
おとぎ話であるような、女の子の夢。
変身願望。
いつか可愛くなって、王子様に見初められる、なんて夢物語。
「ごめんなさいね、こっちの馬車にあなたたちがきたのは、あのバカな弟が何かしでかしたんでしょう?」
「え?」
ちょっとだけ真剣な彼女の声に、わたしは息を呑んで彼女を見つめます。
「あのバカは他人を思いやる心ってものがないのかもね。他人に興味がないから」
「いえ……」
「いいのよ、正直に言って」
彼女は明るく笑ってわたしの頭を撫でました。それはとても優しくて、そしてちょっとだけ、ナイジェル様にも似た感覚でした。
「……ダニエラ様はお優しいですね」
わたしは何となく、そう口にしていました。「なぜ、ナイジェル様があなた様のことをあんな風に嫌うのか……解りません」
「まあ、夢があるんでしょ?」
「夢?」
「バカだからね、理想を求めるのよ、女の子という生き物にね。わたしもシャルロットも、あのバカの理想から外れてるから嫌いなのよ、きっと」
「そうなんでしょうか」
こうして話をしてみると、ダニエラ様は気さくで素敵な方だと思うのに。貴族様なのに、全然気取った感じがなくて。
むしろナイジェル様の方が……何となく。
わたしが眉間に皺を寄せて考えこむのを、彼女は楽し気に見つめました。
そしてその時、御者台に乗っている男性から声がかかりました。
「お嬢様、そろそろ隣国に入ります」
「あら、そう?」
ダニエラ様がそれを聞いて、馬車の中に散らかった荷物をまとめ始めました。とはいえ、衣装ケースの中に乱暴に放り込んだりするだけなんですけども。
わたしがこんな身体でなければ、お手伝いできるのに。
何だか恩返しができなくて悔しく感じます。
「隣国に入るには、全員チェックを受けるから降りる準備をして」
彼女はだらけきったルークにそう言って、苦笑します。「もうちょっと仕草を何とかしなくちゃ、せっかくのおしゃれも台無しよ」
「俺様に何を求めるのかにゃ。元々は猫なんだぜ」
「でも、今は女の子でしょ?」
「くっそ」
「ほら、おしとやかに笑う練習して」
とりあえず、二人のことは放置して、わたしは馬車の窓を覆うカーテンを開け、外を見つめました。ごとごと揺れる馬車は、いつの間にか随分と広い道を走っていて、行きかう人々の姿も多い場所にきていました。
そして、隣国に入る国境の巨大な門の前に進みました。
わたしたちは、馬車を降りてその門を守る騎士たちの前に立つことになりました。
もちろん、わたしたちだけではなく、多くの人々が入国を許可してもらうべく、そこで待っています。
随分時間がかかりそうだなあ、と思いつつその様子を観察していると、わたしたちよりも少しだけ遅れて馬車からナイジェル様たちが降りてきました。
「あら可愛い」
ルークの姿を見たシャルロット様がそう呟くのが聞こえました。
それを聞いて、ルークは引きつった微笑みを浮かべました。ダニエラ様の特訓のおかげか、お嬢様らしい清楚さにちょっとだけ近づけた……と信じたいです。
オーランド様は少しだけ意外そうな表情をしてこちらに近づいてきましたが、その背後に立ったままのナイジェル様の様子がぎこちないのが気になってわたしはそちらの方だけ見つめていました。




