第36話 落ち込んだ時には飯を食う
「お前、女なのか」
夜も更けましたが、馬車はまだ隣国には到着していません。
一度、食事のために馬車を道の脇にとめ、皆が外に集まることになりました。我々が外に出た時には、もうすでに召使の人たちが食事を作る準備をしていました。
手際よく石を積み上げて作られた簡易的な竈と、火が起こされて鍋が置かれます。
わたしも猫の姿でなければお手伝いできるのに、歯がゆい思いがしました。
「ナイジェル様、あれが本当に男に見えましたか」
わたしは今、ナイジェル様に抱かれた格好になっています。
何だか不本意な感じがしますが、仕方ありません。彼の猫の扱い方が上手なのがいけないのです。
わたしの視線の先にいるルークは、興味深そうに召使の周りにまとわりついて、料理現場を観察しています。明らかに召使たちは困惑し、彼を邪魔に思っているのが感じ取れるわけですが、もちろんそれをルークが気にするわけもありません。
確かに動きはとても女らしいとは言えませんが、それなりに女の子の風体をしているというのに。
「いくら胸が……でも、それは酷いと思います」
「そうですね、私も酷いと思います。男性と女性の身体は最初から構造が違います。見れば解るのでは」
オーランド様も我々の会話に参加してきました。その腕にはシャルロット様が絡みついていますが、ここは無視した方がいい光景なのでしょう。
「お前ほど女の身体に慣れていないんでな、気づかなかった」
ナイジェル様が冷たく言うと、シャルロット様の目が危険な輝きを帯びました。
「誰が女の身体に慣れているですって?」
「いや、ナイジェル様、一体何を」
「シャルロットに散々弄ばれているだろうからな」
「あ、そういうことね」
「そういうことですか」
そして一瞬の間の後。
「いいえ! 弄ばれてなんていませんから!」
大声を出すオーランド様は、暗闇の中でもよく解るほど頬を紅潮させているようでした。それは竈から漏れている炎のオレンジ色が反射しているわけではありません。
何となく、ですが。
オーランド様は苦労されていらっしゃるのだろうなあ、と同情の念を禁じえませんでした。
「弄んで……みたいわね」
シャルロット様がくくく、と低くほくそ笑むのを見て、わたしはそっと目をそらしました。ぎょっとしたような目つきのオーランド様の腰が引けているのも、仕方ないくらい恐ろしい笑みです。
「とりあえず、惚れた男を追っているということでいいか、お前たちは」
そんな彼らをいないものとして扱いつつ、ナイジェル様がわたしに問いかけました。
「え?」
わたしは驚いて彼を見上げます。「違います。さっきも説明させていただきましたが、身体を元に戻してもらうためです。そして、アルヴィ様をお救いするため」
「ただ、さっきお前たちが説明してくれたのが事実だとしたら」
ナイジェル様が皮肉に満ちた笑みを浮かべました。「放っておいてもその魔術師は帰ってくる。そうすれば、解決するわけだろう」
「その可能性はあります。でも」
「なぜ、こんな余計なことをする? 無駄な労力じゃないか」
「逆に質問させてください。なぜ、そんなことをおっしゃるのですか?」
わたしは本当に不思議に思って問い返します。「わたしはただ単に、ご主人様を助けたいと思っただけです。それの何が不思議だと?」
「ただ単に、裏があるだろうと考えただけだ」
「裏?」
「姉上たちを見ていれば、そうとしか思えない。女たちが起こす行動には必ず裏があり、計算高い何かが隠れている。好きな相手を助けることによって、相手から何か返礼を期待するような」
わたしはそこで、彼の腕の中でもがいて地面に飛び降りました。そして、彼を見ないままで言いました。
「どうぞ、お好きに考えてください」
「図星か?」
「あなたは……あなた様はシャルロット様がおっしゃる通りの方ですね」
「何?」
「あなた様には、感謝しています。こうして馬車に乗せてくださいましたし、隣国までの同行を許してくださったこと、本当に感謝しきれないと思います。ですから、あなた様がわたしをどう思われようと構いません。裏のある人間だと蔑まれても、仕方ありません」
「……」
「それでも」
わたしの声が震えました。「あなた様はわたしの何をご存知だとおっしゃるのですか。そんなに簡単に、わたしを裏のある最低な人間だと断言できるあなた様は、どれだけ素晴らしい方なのですか。わたしは、そんなに……酷い人間なのですか」
――そうなのかも、しれません。
わたしは唐突に気が付かされたのです。
そう、わたしの今の行為は、何を目的にしているんだろうかと考えたら。
アルヴィ様をお助けしたい。
これは事実です。
アルヴィ様のお役に立って、何かお返しを期待したのでしょうか。
違うと言いたい。でも、もしかしたらそれが真実なのかもしれません。
そうだとしたらわたしは間違いなく最低な人間です。
アルヴィ様にはちゃんと、心に決めた方がいらっしゃって、誰もその心の中に入り込む隙間などありません。
それが解っていてもなお、わたしは期待したということなんでしょうか。
でも、もし何か起きてしまったらアルヴィ様は苦しまれるのは間違いないはずで。
それをとめたいと願ったのは……アルヴィ様のためじゃなく、自分のためだったとしたら。
本当に、身の程知らずなんだと思います。
「どうした、娘」
わたしがルークのそばに駆け寄って、彼の足元に自分の身体をこすりつけると、ニシシ、と笑いながら彼がわたしの身体を抱き上げてくれました。
「ルーク」
わたしはちょっとだけ、彼に甘えたような仕草で撫でるよう求めます。すると、彼は驚いたようにわたしを見つめ、頭を撫でてくれました。
ナイジェル様の手よりもずっと、優しいと思いました。
「ごめんなさい、ルーク」
「んー、どした?」
「わたし、絶対に何も期待なんかしません」
「ん? 何の話にゃ」
「いえ、こっちの話です」
「何か、いじめられたか」
と、彼の視線が上がり、ナイジェル様に向けられる気配を感じました。でも、わたしは何も応えることができず、ただ彼の腕の中で身体を小さく丸めます。
「隣国に入ったらあいつらとは別れるにゃ。それまで我慢できるか?」
ルークが少しだけ気遣うような口調でそう言うのが聞こえて、わたしは短く応えます。
「はい」
「よし」
そこで彼はわたしを乱暴に撫でました。うう、これはあまり気持ちよくないです。
「とにかく、飯にするにゃ。落ち込んだ時には飯を食う。しかもタダ飯!」
彼はそう言って、明るく笑い声を上げました。
その直後、召使と思われる女性の声が少し離れた場所で響きます。
「ダニエラ様、お食事の用意ができております」
「いらないわよ!」
瞬時にそんな声がさらに遠くから聞こえて。
「え、しかし……」
「寝る前にに食事すると太るでしょ!? クリストフ様に会う前に、そんな危険は冒せないわ! 少しでも痩せないといけないわよ!」
「ああ……」
と、納得した様子の声も続きました。
そして。
「すまん」
と、ナイジェル様の声がすぐ近くで聞こえました。それから、何か続けようとした気配も感じて、わたしは何とかルークの腕の中から顔を上げました。
気まずそうなナイジェル様が近くに立っていて、何かを言いかけて口を閉じる、ということを幾度か繰り返して。
「いえ、こちらこそ失礼しました」
わたしはそう口を開きます。
相手は貴族様だというのに、失礼な態度を取ってしまうのは……あまりにも、命知らずなことです。血の気が引き、体中が冷えていく感覚に襲われながら、わたしは何とか穏やかな声になるよう意識して続けました。
「本当のことを言われて、びっくりしてしまったので。本当に、申し訳ございません」
「え」
だから、わたしは決めました。
完全に、わたしはアルヴィ様の召使として、使用人として、そして奴隷として、身分をわきまえた考えを貫こうと。
たとえ何があっても、他人から誤解を受けるような態度はしないように、と。
それができないようであれば、アルヴィ様のおそばから離れるべきなんだと思いました。




