第35話 膝の上でごろごろしつつ
「なぜ、こうなった」
馬車の中で、ナイジェル様は力なく座って頭を抱え込んでいました。もともと白いとしか言えない彼の顔色ですが、さらに優れない様子と言えます。
「全くもって、その通りですね」
オーランド様もどこか脱力したような表情で宙を見つめています。
オーランド様の隣の座席には、シャルロット様が座り、さりげなく彼にもたれかかっているようでした。その現状に気づいていないのか、オーランド様はしばらく黙り込んでいましたが、やがて急にはっとしたように身体を硬直させ、恐る恐る隣を見つめます。
「あの、シャルロット様。狭いでしょうか?」
そう言って窓側に身体を寄せる彼に、シャルロット様は薄く微笑んで首を横に振ります。
「いいえ。もっと狭くても気にしないわ」
シャルロット様はわたしとそれほど年齢の変わらない少女でありますが、何とも積極的な方だと思います。
逃げようとするオーランド様にさらに身体を寄せる彼女に、明らかにオーランド様は怯えたような表情をしていましたが、大丈夫でしょうか。
まあ、わたしにはどうでもいいことですけども。
必然的に、というか、何というか。
ルークはナイジェル様の隣に座って、窓の外を見てそわそわしています。馬車に乗るなんてことは滅多にないでしょうから、興味を持つのも理解できます。
そしてわたしは相変わらず彼の肩の上。
そして、別の馬車には一人でダニエラ様が乗っていらっしゃいます。
召使の人もそちらにいらっしゃるようですが、こちらの馬車はさすがに四人も乗れば他に乗り込む隙間はありません。
「とにかく、訳ありなのでしょうね?」
やがて、逃げ場がなくなって情けない表情になったオーランド様がわたしたちにいきなり訊いてきます。「あなた方には、何か特殊な気配を感じます。こうして我々に接触してきたのも、ただ盗難された馬車を届けるというのが目的ではないでしょう」
「面倒だから、適当な場所で放り出せ」
ナイジェル様が平坦な声で言います。頭を抱えた格好のままで。
「放り出すのはせめて、隣国に入ってからにしてにゃ」
ナイジェル様の言葉に、慌てたようにルークが言うと、さすがにナイジェル様も不穏な空気をまといながらこちらを見つめてきました。
「何を企んでいる?」
「迷惑はかけないようにするぜ、にーちゃん」
「お前」
ナイジェル様が眉間に深い皺を刻むのが見えました。
わたしは慌てて彼の膝の上に飛び降り、正座して必死に言います。
「どうか、お許しください! ルークは言葉遣いが失礼なんですが、仕方ないんです! 元は人間じゃないもので!」
「はあ?」
ナイジェル様は急に膝に乗ってこられた毛玉――つまり翼のある猫に困惑したようでしたが、その手は躊躇いながらもわたしの頭を撫でてきます。
わたしはその行為によって得られた心地よさに喉をぐるぐる鳴らしつつ、さらに続けました。
「もう、正直に言います。わたしたちは、その、悪い魔術師に身体を入れ替えられてしまったんです」
「頭大丈夫か」
「わたしは元々が人間で、彼は元々はこの猫で……って、あの、ちょっと、そこはダメ、です……」
ナイジェル様の撫で方があまりにも上手くて、その場に正座していることができず、だんだん彼の膝の上で崩れ落ちていくのがとめられません。身体を緩く伸ばし、お腹を見せつつ喉を鳴らし始めたわたしを見て、ルークが不満そうに声を上げます。
「お前、ずるいにゃ! 俺様も撫でろー!」
ルークがそう言いながらナイジェル様に迫りましたが、あっさり手で窓際に押しやられています。
「入れ替えられた?」
オーランド様が困惑したようにそう呟くのが聞こえました。
そして。
何だかんだでわたしたちは、自分たちの身の上に起こったことを彼らに話しました。
全部話すと長くなるので、必要最低限の説明にはなりましたが、我々がこうして旅に出ることになった理由は解っていただけたと思います。
騙して弟子入りして一緒に連れていってもらうという最初の目的は見事に玉砕しましたが、ある意味今の方が正統派のお願いとも言えますね。
「ああ、噂には聞いています。アルヴィ・リンダールという名前は有名ですから」
と、オーランド様が言ってくださってからは、話が早く進みました。
しかし、どことなく疑っている気配も感じられました。
「有名な魔術師が、そんな失態をするとは……噂も当てにならないものですね。彼は国王陛下にも一目置かれた存在であるということですが、さて、どこまで本当なのやら」
ルークがそれを聞いて明らかにむかついたような表情をして見せましたので、わたしが必死にフォローします。
「アルヴィ様も人間です。神様ではないのですから、こういうことだってあると思います!」
「それはそうでしょうが……」
「あなた様は失敗などしたことのない、素晴らしい魔術師様なのかもしれませんが、それを他の方にまで求めるのはどうかと思うんですが!」
「言いますね」
彼は苦笑します。「お腹を見せつつの格好で」
ほっといてください! 苦情はナイジェル様までお願いします!
どんなに熱弁をしたとしても、わたしは相変わらずナイジェル様にもみくちゃにされつつ、彼の膝の上でだらりと横たわっていたのです。
「まあ、わたしはどうでもいいわ。オーランドに近づくための口実ではないようだし」
と、シャルロット様が言って、それを聞いたオーランド様がまたため息をつきます。
「じゃあ、連れてってくれるかにゃ」
ルークがキラキラした瞳でシャルロット様を見つめた後、横にいるナイジェル様を見やり、期待に満ちた表情で応えを待ちました。
ナイジェル様は無表情のまま黙り込んでいましたし、オーランド様も返答に困って唇を噛んでいます。
「別にわたしはどうでもいいと言ったでしょ? お兄様はどうなの?」
「……余計なことには関わりたくない」
やがて、ナイジェル様は吐き捨てるように言いましたが、それを聞いたシャルロット様が首を傾げて見せます。
「まあ、お兄様はそういう性格よね。面倒なことから逃げて、自分から行動しない。我が兄ながら情けないったら」
「お前な」
「そのくせ、何も面白いことがない、つまらない世の中だ、って斜に構えて悦に入るタイプ。一緒にいてつまらない人間の筆頭をいくわ」
「お前……」
ナイジェル様はそこで言葉を失ったようで、ただシャルロット様を睨みつけました。冷ややかなその視線。でも、シャルロット様はどんなに冷たい目で見られようと、どこ吹く風といった様子で微笑みます。
「わたしから見たら、ただの馬鹿だわ。楽しいことも、好きな人も、全力で挑まなくては手に入らないのに努力しない。お姉様の方が遥かにマシよね。そりゃ、他人に迷惑かけまくりだけど、人間的な魅力から言えばね」
「よくもまあ、そこまで」
「いいじゃない、別に。どうせお兄様は政略結婚して愛のない生活を送るんでしょ? ご愁傷様。わたしはちゃんと愛のある生活を送るつもりだし、ね?」
と、彼女は隣にいるオーランド様に顔を向け、鮮やかな微笑を浮かべます。途端、オーランド様が青ざめた気がしますが、気づかなかったことにした方がいいと思います。
「俺は、結婚などしない」
やがて、ナイジェル様は硬い声でそう言いました。
「あっそう? どうぞご自由に」
「お前たちを見ていると夢も希望もなくなる。女という生き物が怖くなる」
「へー」
「お前たちのせいだぞ? 解ってるのか」
「さあ?」
シャルロット様が無邪気に笑い、ナイジェル様が刺々しい声で「くそ」と悪態をつくのを聞きながら、わたしはごろごろしつつ考えます。
――ナイジェル様が女性に興味がないということは、男性に……いやいや、怖いから考えるのはやめておいた方がよさそうです。




