第3話 言っていいこと、悪いこと
魔術師様がドアを押さえながら、わたしが屋敷の中に入るのを待ってくれているのを見て、とてつもなく申し訳ない気分になりました。
それは、わたしがやりたい役目なのです。
もし、万が一、先ほどの言葉が本当で、わたしを召使、下僕、奴隷として買っていただけるのであれば、間違いなくわたしの仕事になるはずです。
わたしは慌てて屋敷の中へと足を踏み入れます。
そして、息を呑みました。
「ごめんね、ちょっと散らかってるけど」
魔術師様――村で耳にした魔術師様のお名前は、アルヴィ様――はこともなげにそうおっしゃいましたが、わたしはその光景を『ちょっと散らかっている』とは言えないと思いました。
そう、ちょっとどころではありません。
玄関ホールを入るとすぐに、目の前に廊下があり、二階へと続く階段も見えました。
廊下の両脇には一階にある部屋に続く扉がありますが、まず、廊下の両脇に積まれた雑多な品物に目を奪われてしまいます。
品物。
ええと、それはゴミなんでしょうか?
野菜を入れておくような木箱や、布が巻かれた何かが転がっていたり、石でできた奇妙な形のオブジェがあったり、丸められた紙屑、乾燥した薬草らしきものが入った籠まで、ありとあらゆるものが所狭しとおいてあります。
人が通るのに必要な狭い道だけは空間を確保してありましたが、それはまるで、わたしが今日、通ってきた獣道のようでもありました。
「応接室だけは片付いているから、そちらへどうぞ」
アルヴィ様がにこやかにわたしに話しかけてきます。
はっと我に返り、わたしも彼にぎこちなく笑みを返しました。
彼はわたしの前に立って、狭い獣道を進みます。そして、一階の奥にある部屋、『応接室』とやらに案内してくれました。
年季の入った分厚いドアが開くと、重厚な雰囲気を持つローテーブルとソファのある部屋が目の前に現れます。そして、応接室と呼ぶよりも読書室、と言ったほうが正しいのでは、と思えるような、天井までびっしりと本が詰まった本棚が壁一面に。
どうやらわたしがこの屋敷に訪ねてくる直前まで、ここで読書をされていたのか、開いたページ面をローテーブルの上に伏せた状態の分厚い本が放置されています。
「座れる?」
アルヴィ様がそう言って、ソファを指さします。
そこには、本棚から抜いた本が雑多に積まれていますが、少しどかせば座れないことはありません。
「はい、大丈夫です」
そう返事を返し、もう一度応接室の中をぐるりと見まわしてから、ソファの端っこに腰を下ろしました。
そこで、わたしはまだ胸に黒猫を抱いたままであったことを思い出します。緊張と困惑と、色々な感情がわたしの中にあったせいか、すっかりその存在を忘れてしまっていました。
猫は時々、その前足でわたしの質素な服をにぎにぎと爪を立てたり緩めたりしています。
「探検のし甲斐がある屋敷だろ、にゃ?」
黒猫はニシシ、と笑いながらわたしを見上げてきます。
「掃除のし甲斐のあるお屋敷だと思います」
わたしは真剣にそう思い、真面目に言葉を返しました。すると、猫は「掃除ねー。俺様も、うちのご主人もできないから助かるよな」と呟きます。
そういえば、この黒猫はアルヴィ様の使い魔、ということでしたか。
確かに、人間の言葉をしゃべる猫なんて、今まで見たことも会ったこともありません。翼がある時点で、ちょっとおかしいのは確かですけども。
「で、説明してもらえるかな?」
アルヴィ様はソファに腰を下ろしてすぐ、そう口を開きました。
わたしはすぐに視線を猫から上げ、アルヴィ様を見つめ返しました。ああ、やっぱり眩しいかただと思います。
「はい」
わたしは背筋を伸ばし、猫を自分の膝の上に下ろして言葉を返しました。「アルヴィ様は、ノルティーダの街に住む、ヒューゴ・エルマルという男性をご存知でしょうか?」
「んー……誰?」
「基本的には王都で手広く商売をしている、街一番の大富豪です」
「ごめんね、あまり男性には興味がないので、聞いたことないね」
「女にも興味ねーだろが」
わたしの膝の上で猫がぶつぶつ呟いています。
そして、アルヴィ様が怪訝そうに首を傾げます。
「そういえば、僕はまだ名乗ってないと思ったよ。その名前はどこかで聞いた?」
「アルヴィ様のお名前は、ノルティーダでは有名です。特に、女性の間では」
「困ったものだね」
「ええ、本当に」
「で? ごめん、話の続きをどうぞ」
「はい。……実は、その、ですね」
わたしは少しだけ何て言葉を選んだらいいのか悩みつつ、言葉を濁していても話が遠回りになるだけなのだと結論づけて思い切ってこう言った。「ヒューゴ・エルマルは、街でも有名な幼女好きな男性なのです」
「ようじょ……?」
「はい」
「幼い女の子、という意味の幼女だね?」
「はい。義理の娘という意味ではなく、そういう意味です」
「……それで?」
「王都で商売をするようになってから、そちらで幼女を奴隷として買いあさるようになったようで、少し問題となったようなのです。何しろ、見境なく次々と奴隷として王都にある別宅に引き入れ、その……噂では、本当に爛れた生活を送っていたようで」
「うん。ちょっとそれはドン引きだよね」
「はい」
「で?」
「それで……問題になった後、ヒューゴ・エルマルはこの街に戻ってきまして、しばらくお屋敷でほとぼりが冷めるのを待っていたようなのですが」
「ようなのですが?」
「やっぱり、その。幼女好きな趣味は抑えきれないようで」
「にゃるほど」
黒猫がわたしの膝の上で立ち上がり、大きく伸びをしてからその前足でわたしの胸元を叩いた。「幼女趣味の男に見初められたということだな!」
「……え」
アルヴィ様が困惑したように眉を顰めるのと同時に、猫はさらに前足でわたしの胸を叩きながら言うのです。
「うちの台所にあるカッティングボード並みに胸が真っ平だぞ、この小娘!」
「ううううう」
わたしは思わず猫の前両足を掴み、小さな肉体を持つ彼を睨みつけて叫びました。「人には、言っていいことと悪いことがあるんだって教えてもらわなかったのですか!」
「俺様は猫だしー! はーなーせー!」
「反応に困るケンカはしないで欲しいんだよね」
アルヴィ様が呆れたように呟くのが聞こえました。