第28話 困った時にだけ呼ぶとよい
「それは……大変じゃのう」
コーデリア様はソファにもたれかかり、無表情でそう言いました。
全く大変そうだとは思っていないような口調です。でも、こんな状況で相談に乗ってくださるのは、もうコーデリア様しかいらっしゃいません。わたしは必死に続けました。
「確かにルークの言う通り、放っておいてもいつかはアルヴィ様がお帰りになるかもしれません。でも、放っておけばおくほど、厄介な状況になると思うのです」
「今より悪くはならんじゃろ」
彼女の声は平坦で、あまりこの話に興味を持ってはいないようです。「妾は力になれんぞ。なりたくもない」
「何でですかー」
わたしは彼女の膝の上に飛び乗って、後ろ足で立ち上がって精一杯のアピールをします。せっかく猫になったからには、かわいらしさも武器になる、と思ったのですが。
「もう充分、そなたたちの役に立ったじゃろうが。もう疲れたのでな、関わりたくないのじゃ」
と、彼女はその右手を軽く上げました。
その手の中にあるのは、紫がかった丸い拳大の果実です。表面は妙につるりとしていて、応接室にあるランプの明かりを反射して輝いています。
そして、奇妙なことですが、その実からゆらりと立ち上る陽炎のようなものも見えました。何だか、厭な感じのする揺らぎでした。
それがレストリンゲの実?
「あ、それ……」
「おー! 見つかったんだにゃ?」
わたしがその果実に目を奪われていると、ルークが寝転んでいたソファから起き上がり、コーデリア様のそばに駆け寄ってきます。
そして、まるでわたしの存在が邪魔と言わんばかりにルークはわたしを抱き上げ、床の上に放り出します。わたしの扱い、雑じゃないでしょうか。
一瞬だけ、コーデリア様がわたしを見て、苦笑したように見えました。
でも、すぐにその視線はルークへと向けられ、その双眸が冷えた輝きを放ちます。
「さあ、喰え」
コーデリア様が乱暴にそれをルークに差し出すと、彼は少しだけ怯んだような表情をしながら恐る恐る受け取って。
じっとそれを見つめた後、彼はコーデリア様に真剣に訊きました。
「洗ったほうがいい?」
「いいから喰え!」
「くっそ、心の準備もできてないのに」
わたしは二人の様子を見上げていました。
アルヴィ様も食べたことのある実だという話でしたが、ルークはどうやら、あまり気乗りしない様子でその果実を自分の手の中で弄びます。
でもやがて、思い切ったようにその果実にかぶりつきました。
その途端、彼の手の中でその果実から腐臭にも似た香りと共に白い煙のようなものが噴出して。
ばたり、とその場に彼の――ミア・ガートルードの身体が倒れこみました。
「死んだ」
わたしは思わずそう呟きました。
だって、そうとしか思えなかったのです。大きな歯形の形にえぐれた果実が床に転がり、そのそばに倒れこんだミア・ガートルードの肌の色は、とても生きているとは思えなかったから。
凄まじい勢いで広がる、紫色の斑点。肌の下の血管を伝うかのように、その色はまるで生き物かのような動きをしつつ、全身へと広がって。
「こ、コーデリア様!」
慌ててわたしがルークのそばに駆け寄り、前足でその腕に触れつつ叫びます。「死んじゃう! 嘘!」
「落ち着け、死なん」
彼女は静かにそう言いながら、ゆっくりとルークのそばに膝をついて手を伸ばしました。青紫色のまだら模様となったその頬に触れ、小さく笑います。
「レストリンゲの実は、正確に言えば人間には毒なのじゃ。まあ、普通は死なん程度に苦しむ程度じゃがの」
「毒!? でも死なない?」
「たまに死ぬこともあるやもしれんが」
「コーデリア様!」
わたしはコーデリア様とルークを交互に見つめ、不安に駆られて自分の鼻先をミア・ガートルードの顔にこすりつけました。
呼吸音が聞こえない!
嘘、本当に死んでるのかも!
いえ、微かに聞こえる? 呼吸、できてる?
「そのうち目を覚ますじゃろ。実の力が身体に馴染むまでは、放置するしか手段はない」
「ほ、本当に、本当に大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫じゃ。それより、そなたが中身だったら、苦しい思いをするのはそなたじゃったぞ。この実はとにかく不味いという噂じゃからの。よかったではないか」
「え?」
「あの毛玉がこの中にいる時で」
と、彼女は乱れたミア・ガートルードの髪の毛を軽く撫でました。
「毛玉……」
どういう表現なのでしょうか。
まあ、確かに毛むくじゃらですけども。
わたしは今の自分の前足を見つめ、小さくため息をつきました。
落ち着こうと努力しているのですが、わたしの心臓の音だけがどくどくと頭の中にまで響いてきます。どうやっても不安は消えないのです。
コーデリア様は、意識を失っているのか死んでいるのかはっきりしない、ミア・ガートルードの身体をソファの上に乗せると、床の上で落ち着かない動きでうろうろしている私を抱き上げました。
そして、明らかに手抜きといった仕草でわたしの頭を撫でます。
本気で撫でろ、と以前言ったルークの気持ちが少しだけ理解できました。
違う、もっと何というか、そこじゃないところを撫でてもらえたら!
こんなことを考えている場合じゃないのは重々理解しているはずなのに!
「まあ、真面目に言うとするがな、ミア」
「はい」
わたしは彼女の腕の中でおとなしく喉を鳴らしつつ相槌を打ちます。
「そなたたち二人でその女を追うのが一番いいじゃろうな」
「どうしてでしょうか?」
「その女は魔術師で、もしまた会えたらそなたたち二人の身体をもう一度入れ替えてくれると言ったのじゃろう? ならば、おぬしたちは一緒に行動するのがいい」
「ああ、それはそうですけど」
「それで、問題は『コレ』じゃ」
コーデリア様の視線は、床の上で眠っているカサンドラの肉体へと向けられます。「あの男とこの女の身体を入れ替えるとして、コレは持ち歩けるものなのか?」
「いや、それは無理だと思います。どうやって運んだらいいのか解りません」
「そうじゃろ?」
そこでコーデリア様は意味深に微笑み、僅かに首を傾げて見せました。「ならば、効率的に考えて、妾がこの屋敷でこの身体を見張るのが一番よかろう? おぬしたちはその女を追う、妾はここでゆっくりこの屋敷を守る。それでよいではないか」
「うー」
それは……正論なのかもしれません。
確かに、カサンドラの肉体をこのお屋敷に放置したまま出かけるのは不安があります。来客がないとは言えませんし、それに、もしよからぬ連中が留守を襲ったらどうなるでしょう?
たとえ森の中のお屋敷とはいえ、盗賊たちに狙われないと誰が言えるでしょうか?
そうしたら――眠ったままのカサンドラがいたら。しかも、かなり綺麗な顔立ちの、そしてとても女性らしい体つきの彼女がいたら。
ああ、ダメ、考えたら余計に怖くなります。
「でも、不安は残ります」
わたしは正直に言いました。「ルークと二人で追うのは、何かあった時、どうしたらいいのか解りません。わたし……王都にすらいったことがないのです。何かのトラブルに巻き込まれたら、どうしたらいいのか」
「それも確かにな」
コーデリア様は頷き、そしてわたしを撫でる手をとめました。
そっと彼女を見上げると、コーデリア様は右手を宙に浮かせ、その手のひらの上に何か光を生み出したのが見えます。
その光の中にあったのは、以前、わたしの右手につけられていた指輪です。
その指輪は宙でくるくると回り、きらきらと輝いています。
「あの?」
わたしが困惑した声を上げると、コーデリア様は静かに続けました。
「この指輪は生贄の目印じゃ。妾が狙った獲物を逃がさないための、な」
「目印?」
そうわたしが言葉を返した瞬間、その指輪がいきなり強い光を放ちました。目を開けていられず、咄嗟にぎゅっと瞑った途端、わたしの身体に何かの力が取り巻くのを感じました。
「……?」
気づけば、わたしの喉の周りに硬い感触がありました。前足を上げてそれに触れようとすると、コーデリア様が楽し気に笑うのが聞こえました。
「なかなか似合うぞ、その首輪」
「首輪?」
――なるほど、確かにそれは首輪でした。首の周りを一周した金属の輪で、喉の前に飾りらしき石の感触が触れた肉球に伝わってきます。
「えーと?」
「何かあったら妾の名前を呼ぶとよい。その目印がある限り、妾にはそなたのいる場所が解る。呼ばれればすぐにいくことができる。ただし、本当に困った時だけにするとよいぞ。何しろ、妾は短気じゃからの」
「短気……」
「つまらん理由で呼び出したら、取って喰われると覚悟するとよい。そなたは妾の非常食じゃからの」
「ううう」
わたしは低く唸りつつ、その扱いに対する不満を露にして見せました。
でも、コーデリア様はただ笑うだけでした。




