第26話 魔術書を探して二階へ
「邪魔!」
ルークは彼の顔に飛びついたわたしをあっさりと引きはがすと、胸に抱え込んでわたしの頭を撫でてきます。
「う」
よく解りませんが、わたしの喉がゴロゴロ言い始めます。猫の身体って単純にできているんでしょうか。ただ撫でられるだけなのに、ものすごく気持ちいいです。
「とにかくにゃ、お前は混乱してる。まずはこれからどうしたらいいのか考えろ」
「考えろ、と言われても」
わたしは彼の――正確には自分自身の胸の中でゴロゴロ喉を鳴らしながら続けます。「このままじゃいけないのは解ってます。お互い、早く元に戻りたいでしょう?」
「うーん、そりゃそうだけど、待っていればいつかは元に戻れる。それは断言できる。絶対、ご主人は目が覚めたら自分であの女を何とかして帰ってくるからにゃ」
ルークはそこでわたしを撫でる手をとめて、ぽい、と床にわたしの小さな身体を投げ出します。わたしもやっと身体の扱いかたに慣れてきたようで、我ながら上手く床に着地して彼の微妙に困ったような表情を見上げました。
彼は頭を掻きながら、小さくため息をこぼしました。
「でも、まあ、お前の言いたいことも解る。あのご主人のことだから、王女様と結婚したって上手くやれるはずねーし。ああ見えて人間嫌いだしな」
「ああ見えて?」
「うーん……、しかし……」
ルークは少しだけ歯切れ悪く言いよどんだ後、その視線を窓の外へと向けました。
日が暮れる時間帯です。窓の外はゆっくりと夜のとばりが下りてきていて、うっすらと星の瞬きも見え始めていました。
ざわめく木々の葉の形も、空の暗さに溶け込む時間。
「とにかく、もう動くのは無理にゃ。人間の小娘には夜の森は危険だしな」
「それは……そうですけど」
でも、もどかしい。
今すぐにでも、彼女を追っていきたいのに。
「それに、一つだけいい話もあるだろ」
「いい話?」
わたしは首を傾げて彼を見つめなおします。すると、彼はニヤリと笑ってわたしのそばにしゃがみこみました。
「あの、何とかっていう自称王様の話にゃ」
「コーデリア様のことですか?」
「そうそう。運よくあの王様が魔力の実を持ってきたら、まずは食ってみよう」
「レストリンゲの実、ですね」
「うん。それで魔力がもしもついたら、ちょっとは役に立つ」
「ちょっと?」
「ないよりあったほうがマシ」
「それは……そうでしょうけど」
「ただし、俺様はご主人が使っているような魔術は使えない」
「え?」
「俺様は使い魔にゃ。魔術の呪文の詠唱なんかしない。お前たち人間とは違って、何もしなくても魔力はあるし、使える。だから、呪文なんて何も知らん」
「……つまり?」
「これから勉強しなきゃならんのだ!」
一瞬の間がありました。
わたしもルークも、ただ見つめあったままで。
そして、わたしはやがて恐る恐る訊いてみます。
「魔力を身に着けた後で、勉強すると?」
「そゆこと」
「気が遠くなります」
「まあ、頑張れ」
他人事みたいにルークは笑います。でも、他人事なんて顔、絶対にもうさせません。
「あなたが頑張ってください! 今から勉強しましょう! コーデリア様がお帰りになる前に、せめて少しくらいは!」
わたしがそう強く言うと、明らかに彼は疲れたように肩をすくめましたが、やがて不承不承といった様子で頷き、辺りを見回しました。
「とりあえずアレだな。猫でも解る簡単な魔術書でも探しながら王様の帰りを待つにゃ。それと、腹減った」
「……この手で料理、できるでしょうか」
わたしが前足を上げて見せると、ルークはまた深いため息をつきました。
「無理だろーな」
「ですよね」
「でも、頑張れ」
「料理を、ですか」
「そう」
「気が遠くなります」
わたしはルークに食事を諦めさせ、二人で応接室の本棚の中を漁り始めました。途方もない量の本で、あらゆるジャンルのものが並んでいます。
明らかに魔術書だと思われるものもありましたが、ルークが難しい表情で中を読んでいるのを見ると、あまり内容には期待できないのでしょう。
薬草学の本、歴史の本、文字すら見たことのない異国のものらしき本、次々に取り出しては床の上に積まれていきます。
いつもの自分だったら、掃除のことを考えてしまうかもしれませんが、今回ばかりはどうでもいいと思いました。
とにかく、役に立つ本をルークに読んでもらわないといけない。
「二階にもいくか」
やがて、憔悴しきった表情でルークがソファから立ち上がりました。その弾みで、膝の上にあった本が床に滑り落ちました。
わたしは本棚の前で必死に本の表紙をめくろうと努力していたところでした。
やはり、猫の足では上手く本を扱うことはできません。
「二階?」
それでも何とか本を開き、中身に視線を落としながらそう言うと、彼はそのまま応接室を出ていきます。
「二階のご主人の部屋にもたくさん本があるしな。お前も探すの手伝え」
そう彼が言うのが聞こえて、わたしも彼の後を追って応接室を出ました。
背中の羽が自然と動き、ふわりと飛ぶ感覚。
よし、かなり上手くなってきました!
初めての二階の探索。
やはり、階段を上がった先にある廊下は色々なものが転がっていました。明らかに不要なものだと思われるものがたくさん。
やっぱり、掃除したいなあ。
そんなことを考えながら、辺りを見回します。
ルークは一番近くにあった部屋に入ったようでした。でも、わたしはその場で翼を羽ばたかせながら、ふと奇妙に思って目を細めます。
廊下は確かに雑然としていて、以前の一階のような有様です。
でも、少し離れた場所にある部屋の前だけは、妙に綺麗でした。アルヴィ様がいつも行き来しているのか、邪魔なものは何も積まれていない道、僅かに開いたドア。
何となく興味を惹かれて、そのドアの隙間から中を覗き見ます。
そして目に入ってきたのは、綺麗に掃除をされている床、きちんとメイキングされたベッド、大きなテーブルと椅子、花の活けられていない花瓶と……壁に立てかけられた数本の剣。
――細身の剣。
その傍には、大きな絵画の額が立てかけられています。
描きかけの絵と思われるキャンバスも、イーゼルに乗せられたままその近くにあって。
何だか奇妙に心臓が高鳴るのを感じていました。
緊張している。
何だか怖い。
でも、どうしても気になってその部屋の中に降り立ちます。綺麗な床。きっと、ここだけはアルヴィ様は掃除をされていたんだと思います。
それほどまでに、綺麗。
わたしはゆっくりと歩き、描きかけのキャンバスの前に立ちました。
そして、息を呑みました。
綺麗な少女でした。
そこに描かれていたのは、まるで燃えるような赤い髪をした、凄まじいまでに美しい少女です。
強気だというのが解る、はっきりとした眉。切れ長で睫毛の長さが印象的な、深い闇の色のような瞳。色の薄い唇も、整った鼻筋も。何もかも印象的な美少女。
白いシンプルなドレスに身を包んだ彼女は、まるで生きているかのような力強さを放ってキャンバスの中に存在していました。
そして、はっきりと理解したのです。
この人が、アルヴィ様の想い人なんだ、と。
大切なもの。
二階には大切なものがあるとおっしゃったのは、これなんだ。これがあるから、二階の掃除はいいとおっしゃったんだ。
そう理解すると、胸が締め付けられるような気がしました。
見てはいけないものを見てしまった。アルヴィ様の大切なものに、触れてしまった。
そう思ったから。
「ヴァイオレットだにゃ」
急に背後でそう声が聞こえて、わたしは文字通り飛び上がりました。びっくりして振り向くと、ルークが数冊の本を抱え、神妙な表情でそこに立ち尽くしています。
「あの」
わたしが何て言ったらいいのか口ごもっていると、彼はキャンバスを見つめたまま小さく笑いました。
「いい奴だったけど、猫を撫でるのは下手くそだったぞ」




