第20話 失って困るような大切なもの
「なるほど」
ふ、とコーデリアは薄く笑って見せました。
アルヴィ様は僅かに眉根を寄せて何事か考えこんだ後、珍しく躊躇している様子を見せて続けました。
「……言い訳になるけどね、彼女を失ってから、自分は変わってしまった」
「ほう。たとえばどんなふうに?」
からかうような口調で彼女は続けます。すると、アルヴィ様は困ったように笑いました。
「どんなものにも興味が持てない。もう、何もかもどうでもいいとすら思えるんだよ」
「どんなものにも?」
「ああ、どんなものにも」
そこで、アルヴィ様は部屋の壁に寄りかかり、腕を組んで首を傾げて見せます。
その時、アルヴィ様の表情は皮肉げなものであり、今まで見たことのないものだと思いました。そう、いつもの優しいアルヴィ様とは思えないくらい、冷たい表情。
そして、肩の上に乗っているルークは、どこか気づかわし気にアルヴィ様の耳元に身体をこすりつけています。心配している、そんな感じで。
「以前の僕は、目に映る全ての光景が楽しいと感じたし、毎日が楽しいとも思った。魔術を勉強するのもね、楽しくて仕方なかった。でも、今は違う。何もかも無意味だと思う」
「無意味じゃと? その割には楽しく暮らしておるようじゃないか。妾のことも忘れ、幼い召使など雇って楽しく暮らしておったのじゃろう?」
くくく、と笑うコーデリア。
そして、冷たい輝きを放つ瞳のままのアルヴィ様。
「楽しい? 君はそう思う?」
「楽しかったのじゃろう。だから、どうでもいいことは忘れた」
「違うな。それは違う」
そこでアルヴィ様は苦し気に笑い、微かに首を横に振って目を閉じました。「楽しいことなど何もなかった。この世界にはね、何もないんだ。それでも、無様に理由を探している」
「理由?」
「生きていくだけの理由だよ」
コーデリアが目を細め、アルヴィ様の次の言葉を待っています。
そしてわたしも、ただアルヴィ様を見つめるだけしかできません。
「時々ね、誰かを助けることができたとするだろう? その時くらいは、自分の存在意義というものが少しはあるのかもしれないと錯覚できる。でも、すぐに思い直す。誰かを助けたことによって得られる快感は、ほんの一瞬だ。すぐに何の変哲もない日常に戻る。そこで、生きていくことのつまらなさを実感する」
「なるほど。つまり、そなたは死にたいと申すか」
「そうだね」
アルヴィ様は小さく笑い声を上げました。「誰かが僕を殺してくれるのを待っている。たとえば、君のような存在がね」
「ふん、馬鹿馬鹿しい」
コーデリアは首を傾げて嗤います。「本当に死にたいならとっくに死んでおるだろう。簡単じゃろ、ナイフを首に当てて横に引けばよい」
「それでは駄目だよ」
アルヴィ様は苦笑します。「自殺者の魂は闇に落ちると言われている。戦って死んだ、気高い魂とはもう二度と巡り合えない。僕はね、もう一度彼女に会いたいんだ」
「死んだ女とか」
「そうだ」
「まるで、夢のように美しい話じゃの」
コーデリアは口元を手で覆い、高らかに哄笑します。「しかし、現実はどうじゃ? そばに召使を置いて、優雅に暮らしておるではないか! 口先だけじゃろ。綺麗ごとで妾を騙そうとしても無駄じゃ!」
そこで、アルヴィ様は不思議そうに彼女を見つめなおして言いました。
「君の言っていることはよく解らないな」
「何がじゃ?」
「僕はもう、失って困るような大切なものは、そばには置かないよ」
――え?
わたしはただ息を詰めてアルヴィ様の言葉を聞いていました。
「この屋敷には、もうどうでもいいものしか置かないようにしてる。失って苦しむくらいなら、大切なものなど作らないほうが合理的だ」
アルヴィ様は淡々と、そして世間話でもするかのような気楽さで続けます。「僕がヴァイオレットを……彼女を失ったのは、僕の責任でもある。若かった僕には、敵も多かった。恨みを買ったこともあった。その結果、彼女が狙われ、命を落とした。だからね、僕はもう、敵を作るようなことはしない。毎日平穏に、普通に仕事をして生きている。惰性で生きていると言っても間違いじゃない」
「惰性か」
「そうだよ」
「だから楽しい生活ではないと?」
「そうだね」
アルヴィ様は小さくため息をこぼしました。「楽しくないから、何をしてもすぐに忘れる。この世界に興味を持てるものなど、何もないから。つまり……その、君のことを忘れてすまなかった。あの後、色々あってね、それどころじゃなかったんだよ」
そうか、と思いました。
これが……わたしが何となく感じていた、アルヴィ様の『影』の部分。
誰も近くに寄せ付けない、美しくて遠い存在だと思った、アルヴィ様の本体。
でも。
それでも、わたしは。
「それと……矛盾するかもしれないけど」
ふと、アルヴィ様がコーデリアから目をそらし、困ったように笑います。「リーアの森にある伝説の一つに、死者の世界とつながる夜、みたいな話があるのは知ってる?」
「ああ、おとぎ話の一つじゃろ?」
コーデリアが何か察したかのように息を吐き出しました。「月が赤く染まる夜、道が開くは死者の森、だったか」
「そうだね」
アルヴィ様はそこで優しく笑いました。「もし、運よくその道が開いたら、行ってみたいと思うからここに住んでいる。それだけは楽しみかな」
「ロマンティストじゃの」
「まあ、大声では言えないね。こんな話、恥ずかしいし」
そこで、アルヴィ様は何かに気づいたかのように辺りを見回しました。
そして、すぐにコーデリアに視線を戻します。
「悪いね。僕はちょっと、王都で仕事を引き受けてきてる。また後でゆっくり話そう」
「仕事か。楽しそうで何よりじゃの」
「楽しくないと言ったろう」
彼はそこでわたしに向き直り、優しく微笑んでくださいました。それは、いつものアルヴィ様の笑顔。
「ごめんね、ミア。さっき、外で王都の人間に会ったろう? 実は、国王陛下からの仕事を受けることになった。もう少し、帰ってくるのは遅くなると思う。もし、ここで暮らすのが大変なら、一度、街に帰りなさい」
「……いいえ、大丈夫です」
わたしはいつもと同じように、拳を握って笑顔で応えます。「掃除、まだ終わってませんから! 頑張ります!」
「そう?」
「はい! わたしはここでお帰りをお待ちしております!」
「そうか」
アルヴィ様はそこでコーデリアに向かって言いました。「ごめん、コーデリア。こんなことを頼むのも悩むんだけど、彼女を守ってもらえる? 女の子一人じゃ、森での生活は危険だと思うからね」
「仕方あるまい、引き受けよう」
意外なことに、コーデリアはアルヴィ様の言葉に頷きました。
あれほど、出ていくと言っていたのに。
わたしがどんなにとめても、出ていくと言っていたのに。
「ありがとう。それと、本当にごめん」
アルヴィ様は申し訳なさそうに笑い、そしてそのままお屋敷の外へと出て行ってしまわれました。
そして、この場に残されるわたしたち。
わたしは多分、茫然としていたんだと思います。
窓の外で先ほどと同じような光が弾けるのを見届けた後も、動くことができませんでした。
「娘、大丈夫か」
コーデリアがわたしに声をかけてきます。
そうしたら、何だか。
何だか。
「ごめんなさい」
わたしは彼女の身体に抱き着いて、そのまま自分の顔を彼女の身体に埋めて目を閉じました。そして、どうやってもあふれ出す涙をとめることができず、唇を噛んで嗚咽だけはこらえようとします。
「ミア」
彼女が困ったように、少しだけ優しくわたしの頭を撫でたのが解りました。
そうしたら、もっと涙があふれだしてきて、どうすることもできませんでした。




