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ご主人様と呼ばせてください!  作者: こま猫


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第16話 恐怖の対象

 結局、その夜は彼女をわたしの部屋に残して廊下の外に出ました。扉をふさいでしまったのはちょっとした余計な手間でしたが、仕方ありません。

 わたしは応接室に入り、テーブルの上に置いてあるランプに明かりを灯しました。

 そして、右手の指にはまったままの指輪に気づいてため息をこぼしました。

 まだ、外れない。


 そして――何となしに辺りを見回します。

 やっぱり、女性の存在を示すようなものは、どこにも見えない。


 翌朝、わたしは雨音で目を覚ましました。

 応接室のソファにもたれかかったまま眠っていたせいで、少しだけ身体がぎくしゃくするような感じがします。

 でも、夜が明けると少しだけ気分がよくなりました。

 やっぱり、一人きりの夜は不安を掻き立てる何かがあるのだと思います。

 まあ、現在は厳密に言えば一人きりではないのですけども。


 わたしは自分の部屋にいき、ドアをノックします。

 待っても何の音もしませんでしたが、わたしは恐る恐る扉を開けて中を覗きました。すると、昨日の姿のままの彼女がそこにいました。窓のそばに立ち、ただ外を見つめ続ける彼女の姿。

「おはようございます」

 そう声をかけても、返事はありませんでした。

 どうしたらいいのか解らないまま、わたしは言葉を続けます。

「あの、指輪が外れませんが」

「……そなたは妾の非常食じゃ」

 そこでやっと、微かな声が返ってきます。何となく、気力の感じられない声音でした。

「非常食……って」

 わたしは少しだけ明るく笑い、冗談めかして訊きました。「人間の食事はお口に合わないかもしれませんが、街から仕入れた鶏肉がございます。よろしければいかがでしょうか。茹でても焼いてもいいですし、生のままでも」

「本当に、むかつく女じゃ」

 彼女はそこでため息をこぼしてわたしのほうを振り向き、冷ややかに続けます。「妾は恐怖の対象なのじゃ。なぜ怯えぬ」

「もう充分、昨夜怯えました。疲れるからもういいです」

「ふん」

 彼女が鼻を鳴らし、きゅ、と唇を噛みます。

 そして何となく、急に気になったことを確認したくなりました。

「あの、昨夜ですけども」

「……何じゃ」

「あなた様は、人間の願いを叶えるとおっしゃいましたよね」

「それがどうした」

「もしも……もしもの仮定です。本気じゃないですよ? 本気ではないんですけども」

「だから何じゃ」

「もし、わたしがアルヴィ様のことが好きだとして。その、もしもアルヴィ様に想い人がいるとして、ですけども」

「まだるっこしいの」

 彼女はそこで、窓際から離れてベッドに腰を下ろします。あまり怒っている様子も、この会話を迷惑がっている様子もありません。それに力を得て、わたしはさらに続けました。

「もし、わたしの願いを叶えてください、と言ったらあなた様はどんなことをされるのです? アルヴィ様に何か魔術をかけるおつもりなのですか」

「ああ、そんなことか。簡単じゃろう、恋敵を殺してやろうというのだ」

「あー……それは駄目ですね」

「なぜじゃ」

「人間の心って、そんな簡単に動かないと思います。好きな人がもし殺されたら、その原因のなった人間を恨みますし、何があっても許せないですよ。つまり、あなた様はわたしの願いを叶えられない」

「仮定の話じゃろ」

「はい、仮定ですね」

 わたしはそこでふと、ぽん、と手を叩いて言いました。「思いついた! 解った、アルヴィ様がわたしを好きになってくださるように、わたしを絶世の美少女にしてもらえたら」

「妾にもできることとできないことがある」

「……ですよね」

 残念ですが、これは当然のこと。

 でも、わたしがもしも、この世界で一番美しい少女だったら、ちょっとはアルヴィ様もわたしの名前とか忘れないでいてくれるのかなあ、とぼんやり思ったのです。


 でも、欲を言えばもう少しだけ、わたしが可愛い顔立ちをしていたら。

 もうちょっと、自分に自信が持てたでしょうか。


「あの、本当にお腹、空きませんか?」

 わたしはもう一度だけ、彼女に訊きました。

 返事はない――と思ったのですが。

「……空いたのう」

 彼女は一瞬だけ、鋭い視線をわたしに向けたのですが、それを必死に無視して笑います。

「鶏肉、焼きましょうか」

「好きにしろ」

 意外なことに、少しだけ小さく彼女がそう言ったものですから。

 ほんのちょっとだけ嬉しくなって、わたしは台所へと向かいました。

 ほらやっぱり、本当に怖いわけじゃない!

 ――まあ、わたしの思い過ごしかもしれないですが。


 その日も、アルヴィ様はお戻りになりませんでした。

 一日は長く、雨音だけが響いています。

 わたしはただお屋敷の中の掃除を続け、窓の外が暗くなるとやっと一息をつきました。掃除に集中していれば、きっとあっという間に日は過ぎていく。

 そうすれば、アルヴィ様もお帰りになる日がやってくる。

 わたしの部屋の中にいるであろう『彼女』には、夕食――朝も届けた鶏肉を届けました。どうしたらいいのか解らないので、とりあえず焼いただけの肉です。味付けをしたほうがいいのか悩みますが、そこまで彼女に訊ける雰囲気ではありませんでした。

 でも、多分、食べてくださっています。

 もしそれで大丈夫であるのだとしたら、人間を食べなくても彼女は生きていける?

 そうすれば……。

 あれ、わたしは何を心配しているんでしょうか。


「おやすみなさいませ」

 ドアの前に立って、ただそう声をかけます。返事はありませんでしたが、彼女が身じろぎしたような気配はしました。

 そして、わたしはまた応接室へと向かいます。

 どうやらもう雨は止んだようで、静かな夜になりました。

 不思議ですが、静かな夜なのに怖さは感じませんでした。

 このお屋敷の中に、人間は一人だというのに。


「いい天気ですね」

 翌朝、わたしは彼女にそう声をかけました。

 窓の外は見事なまでの快晴で、草木には水滴がついたままですが爽やかな風が吹いています。

 二日目ともなれば彼女も窓の外を見つめ続けるのはあきらめたようで、ベッドの上に座ってため息をついています。

 わたしは窓を全開にして、外の空気を部屋の中に入れてから外へと出ました。

 雨露に濡れた野菜は、きっと美味しいだろうな、と考えながら裏庭へと足を向けます。

 きらきらと光る、たくさんの野菜。新鮮さの象徴ともいえる、瑞々しさ。

 わたしはそれを、お屋敷の中から持ってきた小さな籠の中へと摘んでいき。

 そして。


 悲鳴を上げてお屋敷の中に飛び込みます。

 ダメ、ダメ、あれはダメ!

 わたしはどうやら、籠も放り出してこの場所に逃げてきたようです。足が震えるだけじゃなく、指先まで恐怖に震える。こんなの、久しぶりでした。

 そうです。

 あの、あの姿を見れば誰だって悲鳴を上げるはずだと思うのです。


「どうした」

 彼女がいつの間にかわたしのそばに立っていました。いつの間にかわたしはその場に座り込んでいて、彼女を見上げる格好になりました。

 そして、思わずその両足に縋り付いて小さく囁きました。

「わ、わたしにも、どうしても怖いものがいるのです」

「触るな、娘、鬱陶しい」

「わたしはミアです、ミア・ガートルード」

「名前などどうでもよかろう。一体何の騒ぎじゃ」

「ですから!」

 わたしは無言で裏庭の畑を指さします。その先に視線を投げた彼女は、わたしの腕を振り払ってゆっくりと外へと出ていきます。

 ちょっと待って。一人にしないで。

 いや、彼女を追ってはダメだ。

 『アレ』がわたしの視界に入らないようにしなきゃ。どうしよう。


 わたしがおろおろしつつ、辺りを見回し、どこに逃げるか考えているうちに、彼女はわたしのところに戻ってきました。

「何だ、何もいなかったぞ」

 彼女はその青い美しい手を上げて続けました。「いたのはナメクジだけじゃな」

 彼女の指先から、にょろりと下がる『それ』を見て、わたしはまた悲鳴を上げて逃げ出しました。


 咄嗟にお屋敷の外に出てしまってから、我に返ります。唐突に背筋に冷たいものが走り、じわじわと恐怖が足元から這い上がってきます。

 ダメだ、お屋敷の外に出てしまったら。雨上がりの今の庭は、奴らの巣窟となっているのかもしれない。

 よし、戻ろう。お屋敷の中なら安全です。安全なはず。

 そう思って、彼女からできるだけ遠い場所を選んで走りだそうとした瞬間。


「そこの娘」

 と、すぐ背後から男性の声がかかって、わたしは飛び上がるほどにびっくりしました。

 もうヤダ……。

 わたしは涙目になりつつ、恐る恐る背後を振り返りました。

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