第15話 願いを叶えてやろうか
「アルヴィ様をお待ちになりますか?」
窓の外を見つめ続ける彼女の背中に、そう声をかけると彼女は小さくため息をこぼしました。そして、冷ややかな瞳をわたしに向け、つまらなさそうに頷きました。
「では、もしよければ応接室へ。それとも、わたしの部屋でお休みになりますか? 正直、アルヴィ様がいつお戻りになるのか、わたしには解らないのです」
応接室。そこにはソファはあります。
でも。
わたしは自分の部屋にあるベッドのシーツを撫でつつ、少し考えこみました。
お客様を迎え入れるには小さな部屋ですが、ベッドがある自分の部屋が一番快適なような気がします。
わたしはどこでも休めますし、少なくとも目の前にいる彼女を休ませたほうがいいように感じました。
今の彼女はどこか――疲れているような、惰性で立っているかのように思えてなりません。
「そなたはあの男の使用人か?」
彼女は静かに訊いてきます。
「そのような感じです」
「そのような、か。魔術師でも剣士でもないのであろう?」
「はい、見ての通りです。でも、料理は得意ですので、もしご希望でしたら何かお作りしますが」
「料理とな」
ふ、と彼女は鼻で笑って見せました。「情けないものよな。妾が人間の食事を取るように見えるのか。昔の妾は、人間の生贄を喰い、大きな魔力を持って周りを制圧していたというのに」
「人間を……」
わたしは声を潜めて訊きました。「食べるのですよね? 生贄とはどういうことなんでしょうか」
すると、彼女は窓の桟にもたれかかるようにしてわたしを見つめなおします。少しだけ斜に構えたようなその様子は、窓の外から差し込む月明かりの輝きもあって、ひどく幻想的な光景に思えました。
――綺麗な人です。いや、人ではないのですけども。
「妾は魔物よ。人間の願いを叶えてやることもあった。その代わり、生贄として人間を差し出すように所望した」
「差し出す……んですか」
「当然じゃろう。人間は欲深い。自分の願いを叶えるためであれば、他人の命も犠牲にする生き物なのじゃ」
「でも……そんなのは間違ってますよね」
「何がじゃ」
彼女は怪訝そうに問いかけます。「欲望に忠実、それでよいではないのか? そなたは自分の願いを叶えるために、何かを犠牲にしようと思ったことはないのか」
「え、と」
わたしは小さく唸って応えます。「自分の願いを叶えるために、自分自身を身売りしたようなものなんですけども」
「身売り?」
「アルヴィ様に」
「ほう」
彼女はしばらく沈黙した後、小さく言いました。「あの男にしては意外じゃの」
「どういう意味でしょうか」
「他の女に優しくするなど、ありえないと思っていたぞ」
「他の女?」
わたしが眉を顰めると、彼女は小さく笑いました。
「つがいの女がいたじゃろ。あの女があの男の妻となったのではないのか」
「え?」
わたしの声に何かを感じたのか、彼女は笑みを消しました。
「女はいないのか? この屋敷にはあの男と誰が住んでおる?」
「アルヴィ様と……」
どういう意味?
わたしは何だか突然、思考が停止したような感覚に陥りました。
あの女。妻。
「あの、まさかとは思いますがルークという翼を生やした猫が実は女の子だったなんて言いませんよね」
ぼんやりとそう訊くと、彼女は明らかに馬鹿にしたような目つきでわたしを見つめます。
そして、何事か思いついたかのように意地の悪い笑みを口元に作り、じわりとわたしに近寄ってきました。
ずるり。
這い寄る音。
「そなた、もしやあの男に惚れておるのか」
「え、ええええと、その」
「なるほど、それは面白い」
「違います、そんなことはありません! わたしは」
「じゃがな、きっと無理じゃ。そなたの願いは叶わんぞ」
彼女は一歩引いて、ククク、と笑い声を上げました。
「え?」
「妾はな、あの男と……そして連れ合いの女に捕縛されたのじゃ。生贄を食らい、人間の悪事に手を貸す妾を退治するために雇われた、若い魔術師と女剣士」
「女、剣士」
「魔術師よりも女剣士のほうが殺すのは容易いと思った。だから妾はあの女を攻撃した」
わたしはなぜか、何も言葉を発することができませんでした。
相槌を打つことすら忘れ、彼女の次の言葉を待ちます。
「あの男の慌てようは面白かったのう。自分の惚れている人間が攻撃され、我を忘れた男そのものじゃった。残念ながら、妾はあの男の魔術に負け、捕縛されて瓶の中に閉じ込められた。屈辱ではあるが、あの男は言った。『お前の住む場所を与えてやろう』とな」
と、そこで彼女は声を荒げて近くの壁をその美しい青い手で叩きました。「しかしじゃ! 瓶の中にただ閉じ込め、放置したその罪、贖ってもらわねばならん!」
――放置した。
わたしはぼんやりと頷きました。
でも、何だか微妙な感覚がわたしの胸の中にありました。
アルヴィ様にはお付き合いしていらっしゃる女性がいた?
それは――考えてみれば当然のことでした。あれほどお美しいかたなのですから、恋人くらいいてもおかしくはありません。
ただ、いつもノルティーダへとやってくるあのかたは連れなどいませんでしたし、いつだってお一人で行動されていたように見えたので、少し……予想外だっただけです。
でも。
一緒にお住まいではないのですよね。
もし、女性がいるのだとしたらこのお屋敷の散らかり具合はおかしいと思います。
それとも、何か理由があるのでしょうか。
――想い人と一緒に暮らせない理由が。
「まあ、あの男が女と別れようがどうしようがどうでもいいことじゃが」
彼女はさらに続けました。「そなたよりもずっと美しい娘じゃったな。きっと、そなたには太刀打ちできまい」
「そうですよね」
わたしは素直に頷きました。
胸に刺さる小さな棘のような痛みは、自分がちっぽけな存在であることの証です。
当たり前じゃないでしょうか。
どんなに憧れたとしても、どんなに好きになったとしても、絶対に叶わない想いがあるのです。
わたしはアルヴィ様の召使、使用人で充分な立場にあります。
そばにいられるだけで幸せだと思います。
多くを願えば、絶対に神様に怒られる。だから、小さな幸せだけを手にしていよう。そう決めたのは、随分前のことでした。
「大丈夫です、教えていただいてありがとうございます」
わたしはそう言葉を返します。
目の前にいる彼女は困惑したようにわたしを見つめ、「願いを叶えてやろうか」と訊いてきました。
「その代わりに生贄を、ですか?」
「……そうじゃ」
「うーん」
わたしは苦笑して、首を横に振りました。「もし叶えてもらう願いがあるとしたら、アルヴィ様が何らかの危険に陥った時ですね」
「危険に?」
「はい。もし、命の危険があった場合とか。もし、そうしたら」
わたしはできるだけ無邪気に見えるよう、わざと明るく笑って続けました。「この身をあなたに捧げますので、アルヴィ様を助けてください」
「愚かな女じゃの」
彼女は嘆かわしい、といった様子で肩をすくめて見せます。
わたしはただ、微笑みの形を口元に作り続けていました。
でも。
胸が痛い。




