第14話 地を這う者の王
「これで、よし」
わたしは自分の部屋に入ると、その部屋の中に置いてあった小さなタンスを扉の前に移動させました。それほど荷物は入っていませんので、もし廊下から誰かが入ってこようとしたら、少し力を入れたら開いてしまうかもしれません。
でも、窓から外へ逃げ出す時間は作れます。
わたしは窓の外に近寄り、カーテンを開けて外の様子を窺いました。
月明かりに照らされた門が見えます。
黒々とした森も。
いざとなったら、逃げだせばいい。
ノルティーダの街はそれほど遠くはありません。走って向かえば、両親のいる家に辿り着ける。
いっそのこと、もう逃げ出してしまおうか。
そう考えても、勇気は出ませんでした。
やはり、暗闇に包まれた森は恐ろしく感じます。
一度は通った道なのに。
あの暗闇の中を、必死にここまでやってきたのは、間違いなく自分だというのに。
それに、もしかしたら。
もしかしたら、さっきの音はわたしの気のせいかもしれないし。
何もないのかもしれません。
考えてみれば、わたしは一人きりで夜を過ごしたことがありません。いつだって、わたしの家では両親がいましたし、どんな夜だったとしても何かの物音だったり、父の騒々しいいびきだったり、聞こえてきたものがありました。
それはいつだってわたしの心を落ち着かせてくれたのです。
それがない夜だから、不安になって幻聴を聞いたのかも。
さっきのはきっと、わたしの聞き間違いで。
でも。
確かにわたしの右手には不思議な指輪がある。
ククク、という笑い声が遠くから聞こえた気がしました。
遠くから? いいえ、確かにこのお屋敷の中からです。
廊下の向こう側で、何者かがわたしを追ってきている。
やっぱり、気のせいなんかじゃない。
カリカリカリ、と扉が引っかかれるような音がして。
「誰ですか?」
わたしは思い切って声をかけましたた。
大丈夫、声は震えていない。
もう一度、笑い声が聞こえます。本当に近い場所で。
今度聞こえてきたのは甲高い笑い声で、そこで相手が女性だということがわかりました。
「このお屋敷は、力のある魔術師様の持ち物だとお解りですか?」
重ねてそう言うと、廊下の向こう側から聞こえてきていた哄笑は途切れました。
思わず後ずさり、窓のほうを向こうとした瞬間でした。
ずるずる、という音と共に、床に黒い影が生まれました。それは、扉の向こう側からこちらに侵入し、むくりと立ち上がったのです。
歪んだ女性の形として。
影は実体化し、逃げ出そうとしたわたしの喉元に手を伸ばしました。
悲鳴を上げ、それを押しのけようとしたわたしを床に引き倒し、その影はわたしの上に馬乗りになって黒い唇を歪めるようにして笑ったのです。
「ああ、解っておるぞ! そやつが今、この屋敷にいないことも!」
長い黒髪がわたしの顔に落ちて、風もないのにざわりと宙に広がります。
金色に輝く双眸は、人間の持つものではありませんでした。金色の虹彩の中に、黒い縦一文字の瞳孔があります。それは、猫に似ています。
その肌は青白く、部屋の明かりに反射してきらきらと輝いていました。普通の肌ではない、硬質さ。そして、鱗のようなものがびっしりと覆い尽くしています。
彼女は薄い衣をまとっていましたが、それは酷く時代がかった衣装のように思えました。細かい刺繍の入った薄絹。だからこそ、彼女の均整の取れた肉体がよく解ります。
その両腕はわたしの喉を抑え込んでいて、まるで氷のような冷たさが伝わってきました。
体温らしいものが存在しない。
「あなたは……」
わたしが問いかけようとすると、彼女の唇がぐっと裂けたようにその耳元まで広がりました。
「そなたはイケニエじゃ。嗚呼、久方ぶりの食事はたまらんのう?」
「イケニエ?」
ただ言葉を繰り返すわたしを楽し気に見下ろし、彼女はその顔をわたしにゆっくりと近づけてきます。
開いた唇の中に、鋭い牙が見えて。
まずい、と思いました。でも、どうやっても抵抗できませんでした。身体が硬直し、動かない。
「あの男はここにはいない。つまり、そなたを助けるものは誰もいないということじゃのう」
「アルヴィ様は」
「ああ、そんな名前だったか。でも、もうよい。妾はそなたを喰って、力を取り戻す」
「喰う……食べるんですか、わたしを」
「そうじゃ」
彼女の手の指に力がこもり、わたしの喉が軋むような気がしました。
彼女は嗤い、いたぶり、わたしが怯えるのを楽しんでいる。そんな気がします。
「そなたを喰らう。血をすすり、肉を切り裂き、そなたが息絶えるのを見届ける。楽しいじゃろうな」
「そんなの」
わたしは必死に彼女を睨みつけ、言葉を探しました。
このまま殺されてたまるか、と思いました。だって、わたしにはやらなくてはいけないことがあるじゃないですか。
せっかく、こうしてアルヴィ様のそばに置いていただけるというのに。
それなのに。
ここで殺されるなんて。
「……まずは、あなたのお名前を」
そう訊くと、彼女が怪訝そうに動きをとめました。
「何?」
「わたしを殺そうとしているあなたのお名前をお聞かせください」
「馬鹿馬鹿しいのう。それが何の意味がある?」
「あなたは死にゆく者の願いすら叶えない、そんな無礼者だと?」
「無礼とは笑止」
彼女はククク、と鳥が鳴くような笑い声を上げました。それは、今までとは違って軽やかな響きがあります。
「妾は『地を這う者の王』。誰もがそう呼ぶ」
「女性なのに王?」
「女王は語呂が悪いじゃろ」
その台詞に、何だか違和感を感じました。そこに突き放すような刺々しさはなく、一瞬だけ人間っぽい感情が見えた気がしたからです。
さっきまで確かに自分の中にあった恐怖が消えていきます。
なぜなのか。
それは、多分。
「殺す気はないのでしょう?」
「何?」
「食べる気もないのでしょう?」
喉にかけられていたその指先から、少しだけ力が抜けました。すると、わたしの身体も動くようになります。
彼女の胸に手をかけゆっくりと押しのけると、一瞬の抵抗の後、彼女は身を引いて鼻で笑ってきました。
「馬鹿馬鹿しい茶番じゃった。いい暇つぶしになったし、もうよい。好きにするといい」
「あの」
わたしは彼女を見つめたままもう一度訊きます。「あなたの本当のお名前をお聞かせください」
「どうとでも呼ぶといい」
「でも」
「煩い。妾はあの男を待たせてもらうぞ。あの男……」
彼女は立ち上がり、そのまま窓のほうへと歩み寄ります。人間のような体つきなのに、歩くとずるり、という音が響きます。
人間じゃない。
それは見た目からもよく解るのですが。
「蛇、なんでしょうか」
わたしは彼女の肌一面に輝く鱗を見つめ、そう声をかけます。「地を這う者の……つまり、そういうことですか?」
「だからどうした」
彼女はわたしを見もせずに吐き捨てました。苛立ちを隠し切れていないその声に、わたしは一瞬だけ悩みましたがどうしても気になって仕方ありませんでした。
「もしかして、あの瓶の中にいらっしゃいました?」
「煩いと言ったじゃろうに!」
そこで、彼女はこちらを振り向き、忌々しいものを見るかのような目でわたしを睨みつけます。「そなた、怖いものはないのか。怯えていたのではなかったか。さっき、散々脅してやっただろうに」
「怖いものはあります」
わたしはそう返しました。「でも、あなたは……怖くない気がします」
「面白い」
彼女は低く笑います。でも、あまり楽しげではありませんでした。




