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ご主人様と呼ばせてください!  作者: こま猫


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第13話 落ちてきた指輪

「いってらっしゃいませ」

 そう言いながら門のところで頭を下げると、アルヴィ様が軽く手を上げてくださいました。

 ルークは彼の肩の上で襟巻のような格好で器用に寝ているようで、時折尻尾を振りますがその目は閉じたままでした。

 ラルフ様はお屋敷のそばにあった木の幹につないでおいた馬に乗り、先にノルティーダへと向かったようです。でもきっと、ノルティーダに到着するのはアルヴィ様のほうが先だろうな、と思いました。

 何しろ、アルヴィ様のお姿は、わたしの目の前で風と共に消えてしまいましたから。


 快晴の空、爽やかな風。

 きっと、洗濯物もよく乾くでしょう。

 一人残されたわたしは、ただアルヴィ様のお屋敷を快適にすることだけを考え、そのまま踵を返しました。


 洗濯を終えて外に干し終わると、ちょっと気分がよくなります。風にはためく洗濯物の様子は、心を晴れやかにしてくれる効能があるのかもしれません。

 しかし、一日は短いのです。洗濯が終わったからといって、休んでなどいられません。

 一階の掃除はまだまだ終わってはいないのです。

 アルヴィ様が使っていないであろう部屋は、ほとんどが物置状態です。訳の解らない品物が積み上げられていて、下手に触れば崩れ落ちてきます。

 わたしは一部屋ずつ、順番に片づけていくことにしました。

 まずは、応接室に近い小部屋から。

 思うのですが、アルヴィ様はおそらく、ノルティーダや他の街から買い物をしてくると、その包みや空き箱などを放置する癖があるようです。どう考えてもこれはいらないだろう、と思えるものがありすぎました。

 それらを裏庭に出していき、明日はこのゴミをノルティーダの集積所に持っていこうかなあ、とぼんやり考えました。

 やることがいっぱいありすぎて、何だか途方に暮れそうです。


 わたしはある程度ゴミを出してから、裏庭にある井戸から汲んだ水をバケツに入れ、雑巾を濡らして床を拭き始めました。

 埃っぽさに時々咳き込みながら掃除をしていると。

 その部屋にまだ置いたままだった空き箱に身体がぶつかり、かしゃん、と音がしました。

 耳障りな小さな音。

 わたしは音がしたほうに視線を向けました。


 小瓶が転がっていました。

 それは透明な瓶で、その中には何も入っていないように思えました。

「……割れてる」

 わたしはその瓶を手に取り、まじまじと見つめます。

 きっと、空き箱の上とかに乗っていたのでしょう。わたしがぶつかった弾みで転がり落ち、割れてしまったのかもしれません。

 細かく蜘蛛の巣のようにヒビが入ったそれを見つめ、これも裏庭に運ぼう、と思った時。


 誰かの視線を感じた気がしました。

 もちろん、気のせいです。

 だって、このお屋敷には今、わたししかいないのですから。

 ……でも。

 何でしょうね、この、首の後ろにちりちりとまとわりつく感じ。それは間違いなく、誰かに見られている、そんな気がしてなりませんでした。

 わたしは小瓶を手にしたまま、ゆっくりと辺りを見回しました。

 そして気づきます。

 床の上に小さな指輪が落ちています。

 銀色に輝くその指輪には、鈍い輝きを放つ赤い石がついています。

 でも。


 そこは、さっき、拭き掃除をした場所なのです。

 確かに少し前までは、何もなかったと思います。

 もしかしたら、小瓶と一緒に落ちた?

 小瓶は確かに、ヒビ割れと一緒に小さな穴が開いていました。でもその穴は、指輪が通るような大きさではないし……。


 わたしはその指輪を取り上げ、とりあえずアルヴィ様に渡さなくては、と考えました。応接室のテーブルの上に置いておけば、きっとなくすことはないでしょう。

 小さな指輪。

 おそらく、それは男性のための大きさではありません。

 女性のためのもの。

 アルヴィ様の……ものではないのかも?

 そう考えながら廊下へ出ようとすると、急に誰かに髪の毛を引っ張られたような感覚がありました。

「いたっ」

 何か、引っかけた?

 わたしがその場に足をとめて振り返ったその時。


「イケニエ」

 と、誰かがわたしの耳元で囁きました。


 背筋に冷たいものが流れたような気がします。

 それは、男性のものとも女性のものともつかない、低い声でした。何というか、人間らしくない声です。

「誰?」

 わたしは自分に馬鹿馬鹿しいと言い聞かせつつ、誰もいない空間に向かって問いかけます。

 もちろん、応えなどありません。

 誰もそこにはいません。

 でも、確かに『何か』がいる。


「……アルヴィ様?」

 僅かな期待を込めて、あのかたの名前を呼んでみます。

 でも、返事はありません。

 気のせいだ、気のせいだ。

 もう一度、自分にそう言い聞かせていると、指輪を握り締めていた手にひやりとした感触が生まれました。

 そして、わたしは自分の右手を見下ろします。

 なぜか、わたしの右手の小指には、赤い石のついた指輪がはまっていました。


 何で?

 何だか急に不安になり、その指輪を外そうとしました。でも、どうやっても外れない。どんなに力を込めて抜き取ろうとしても、まるでそこに張り付いているかのようにぴくりともしません。

「何で? どうして?」

 怖くなりました。

 何か、まずいことをしてしまった。

 そんな気がしてなりませんでした。

 アルヴィ様に見てもらわないと。何とかしていただかないと。

 でも、アルヴィ様はいつ、お戻りになるのでしょうか。

 窓の外はまだ陽が高く、木々が風にそよいでいます。洗濯物もはためいて、本当ならばわたしの心まで躍らせてくれる光景だと思うのに。

 何だか何もかも、不安を掻き立てるような気がしてなりませんでした。


 そして、その夜。

 アルヴィ様はお戻りになりませんでした。

 そうですよね。王都にいかれたのですから、そう簡単に帰ってこられるとは思えません。

 じゃあ、いつお帰りになるのか。

 わたしは一人分の食事を台所で準備しながら、ぼんやりと鍋の中でコトコトと音を立てているシチューを見つめました。

 そして、右手の小指に収まったままの、小さな指輪を。

 それは昼間に見た時よりもずっと、赤い色を濃くしているような気がしました。


 食事を済ませ、お屋敷中の戸締りを確認した後、自分の部屋へと戻ります。

 静かな夜です。風の音が少し聞こえるだけ。

 いつもだったら気にならないことが、気になって仕方ありません。例えば、自分の足音。廊下を歩く、カツカツというその音すら、不安に震えているような気がしました。

 そして。

 確かに。

 廊下を歩いていた時、背後に何かの音が聞こえたと思いました。

 ずるずるという、何かを引きずるかのような音が。


 どうしよう、一人は怖い。

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