第120話 赤い夜が終わって
「……思ったほどじゃないね」
移動のための風の精霊は、いつもより大きな魔力をもってわたしたちを運んでくれたと思います。リーアの森からノルティーダまでの移動は一瞬で終わり、非現実的な状況から一気に日常に変わった感じがありました。
夜明け前のノルティーダの街は、とても静かでした。
赤い夜の影響で、リーアの森の奥から放出された強大な魔力と、異形の者たち。
でも、僅かに空気がざわめいているだけでノルティーダには何の影響もないようでした。
朝早くから仕事のために起きだしている人々が通りに出てきていましたが、のんびりとした様子は平和そのものです。
「よかったです。何もなくて」
わたしはアルヴィ様の後ろをついて歩き、そう言いながら。
笑い方を忘れてしまったかのように、自分の頬が強張っていることにも気づいていました。
ヴァイオレット様と一緒にアルヴィ様が向こう側に行ってしまわれても、そうでなくても苦しいと感じるなんて、何だかわたしって利己的な生き物だと思ってしまいます。
純粋に喜べればよかったのに。
一緒にいられることを、ただ喜べたらよかったのに。
何だか気分が落ち込んでいるのを自覚すると、隣に立っていたコーデリア様がわたしの頭を撫でてくれました。
――あああああ。
わたしは思わず、コーデリア様の服の裾を掴みました。
今はどこからどう見ても美しい男性の姿をしている彼女――いいえ、彼。
「どうしたのじゃ、ミア」
「いえ、な、何でもないです」
わたしは自分の心臓が奇妙に暴れるのを感じつつ、コーデリア様の顔を見上げました。女性だった時の面影はありますし、その双眸に輝く優し気な色も見覚えがあります。
でも、男性になるなんて予想外です。
女性だった時には、気軽に抱き着いていたりしたのに、今、抱き着くのはちょっとまずい気がします。
うん、駄目だと思います。
……ちょっとだけ抱き着きたいけど。
「じゃあ、夜が明けたら買い物を済ませようか」
いきなり、アルヴィ様がわたしの手首を掴み、コーデリア様から引き剥がします。
「えっ」
わたしが困惑してアルヴィ様の顔を見上げると、彼の鋭い視線はコーデリア様に向けられていました。
その視線を追ってコーデリア様の顔を見れば、どことなく上から目線といった感じの余裕のある表情がありました。
何だろう、見えない火花が二人の間に散ったような。
どういうことなんでしょうか。
アルヴィ様の肩の上に乗ったルークも、どことなく居心地悪そうに二人を見やり、やがて呆れたように欠伸を一つして見せました。
「まだ、食器とか必要なものを買ってないからね。王都に戻ろう」
アルヴィ様の視線はコーデリア様に向けられたまま、明らかに作り笑いを口元に乗せてそう言います。
「お主はミアの好みなど知らんじゃろう」
コーデリア様が冷ややかに、そしてどことなく嬉しそうに笑いました。「お主は自分の屋敷に帰っておるとよい。後は妾に任せてな」
「君はミアの好みを理解していると言いたそうだね」
「お主よりは解っておるじゃろ」
「それならこれから理解するからいい」
アルヴィ様はそう言った後、わたしを見下ろしてぎこちなく微笑みます。いつもと違う笑顔です。
何だろう、一体何が起きているんでしょうか。
わたしがぎくしゃくとした動きでアルヴィ様とコーデリア様を見つめていると、アルヴィ様は深いため息をついて、わたしたちよりも少し離れた場所に立っていた魔物――シュタインを睨むのです。
「コーデリアを何とかしろ」
すると、白い魔物は失笑しました。
「お断りします」
「命令だ」
その言葉を受け、シュタインが笑みを消しました。
そして、コーデリア様に向かってやる気のなさそうに短く言うのです。
「だ、そうですが、女王」
しかし、コーデリア様は笑顔のままわたしに向かって全然関係ないことを言いました。
「そういえば、この姿で『妾』と言うのもおかしなものじゃろうの? ミア、お主はどう思う?」
「え、え」
わたしは虚を突かれて何を言われたのか理解するのに時間がかかりました。それでも、何とか頭が言葉を作り出してくれました。混乱に満ちた言葉を。
「そ、そうですよね。でも、わたしは妾、で慣れているし……その、別の言いかたをされるとコーデリア様らしくないというか、その」
「ふむ」
コーデリア様は何事か考えこむと、そっと頷きました。「私、でいいじゃろうな」
「え?」
「私はお主のことが好きじゃぞ、ミア」
と、急に美しい笑顔をわたしに向けて。
「あああああ、わたしもコーデリア様のことが好きです!」
思わず、何か誘惑に負けた気がしつつ、彼女――じゃなかった、彼に抱き着いたのでした。
ううううう、いつもの柔らかさがない。でも、抱き返してくれるその腕は優しい。
「本当に何とかしろ」
アルヴィ様の声が妙に遠く聞こえましたが、ちょっとわたしは色々といっぱいいっぱいすぎて、それどころではありませんでした。
「これは一体、どういうことだ」
赤い夜が終わる夜明け前、アルヴィ様は王都に戻ってグランヴィール様のお屋敷のドアを叩きました。
「色々とありまして」
グランヴィール様のお屋敷の玄関のところで、アルヴィ様がため息交じりにそう言うと、グランヴィール様は額に手を置いて、アルヴィ様と似たようなため息をつきました。
何だかよく解りませんが、アルヴィ様とコーデリア様の間には奇妙な空気が流れていましたし、シュタインは何事にも興味が惹かれないといった様子でわたしたちのそばにいます。
いつもならコーデリア様はわたしの腕輪になったりして、その姿を隠しているというのに、今日は新しい身体になったことが嬉しいのか、それとも別の理由があるのか、わたしに寄り添ったままになっています。
何というか、使い魔とはいえ、コーデリア様とシュタインという大きな魔力を持つ存在が姿を見せているだけで、凄まじい威圧感があるのです。
「まあ、いい。入りなさい」
グランヴィール様はドアの横に身体を移動し、わたしたちにお屋敷の中に入るよう促します。
そして、ぽつりと続けました。
「約束を守ってくれて何よりだ」
クリスタルもグランヴィール様のすぐ後ろに立っていて、無表情のままこちらを見つめていました。
何となく、彼女は期待に満ちた感情を抱いているのが解ります。
だから、アルヴィ様は無情にも彼女に告げました。
「アレは確かに例の魔物だけど、僕の命令以外は何もさせるつもりはないよ。ごめんね」
「そう、ですか」
クリスタルは静かにそう応えましたが、明らかに落胆の色が見えた気がします。
グランヴィール様が早朝から起きていたのは、どうやら王都に異変があった場合にすぐに対応できるように、と考えていらっしゃったからのようです。
でも、それほど大問題らしきことは起きず、せいぜい王都から離れた魔物が住む森で、通常よりも大きな魔力を得た異形の者たちが暴れる程度。
そのため、魔物を狩ることで生計を立てている人々が、喜び勇んで王都から出ていったとか。魔物によっては、高価で売れる魔石や魔術素材などを持っているのだとか。
そして、魔術師たちもそれを狙って一緒に行動することが多いのだと教えてもらいました。
「師匠は行かれなかったのですね」
アルヴィ様がそう笑うと、グランヴィール様も苦笑します。
「もう年だからね」
そんな会話をしているお二人を見てから、わたしはクリスタルと一緒に朝食を作るために台所へと向かったのです。
何だか、ものすごく平和な朝のような気がしました。
気づけば、廊下から見えた窓の外はすっかり明るくなっていて、赤い夜が終わっていました。
朝食を済ませ、王都で買い物をします。
さすがに街中を歩くため、見た目が目立ってしまうコーデリア様とシュタインは、それぞれわたしの腕輪になったり指輪になったりしています。
だから、アルヴィ様とルーク、わたしだけでの買い物、といった感じになっています。
それは何だか、夢の中にいるかのように平和な時間でした。
昼間の王都はとても賑やかで、大通りを行きかう人々の元気な様子もとても好ましい光景でした。
アルヴィ様はいつになくわたしにたくさん笑いかけてくれて、色々と話を聞いてくれました。前も聞いてくれましたが、好きな食器の柄とか、色とか。
好きな食べ物であったり、これからアルヴィ様のお屋敷に戻って何をしたいのか、とか。
そうしているうちに、わたしの顔にはいつもの笑顔が戻ってきていましたし、心臓が変な音を立てるのもやめていました。
何だか複雑な気分ではありましたが、それでも穏やかで幸せな時間だったと思います。
食器や調理道具、アルヴィ様のお屋敷の台所を改装するのに必要なものなどを購入した後、わたしたちは王都を離れることになりました。
以前、目を付けていた茶器も購入し、これでお茶を入れたら気分がいいだろうなあ、とか思いながらアルヴィ様に感謝。
随分とお金を使ってしまったようだけど、大丈夫なのかなあ、と少しだけ不安になりましたが、アルヴィ様は何も気にしていらっしゃらないようでした。
何とか、ご恩を返さなくては、と思います。
お仕事でもなんでも、わたしがお手伝いできることがあれば何でもするつもりでした。
しかしアルヴィ様はどうやら、しばらく自宅に引きこもって仕事の依頼があっても何もしないと決めていらっしゃるようで。
ということは、お屋敷での家事で何とかご恩返しを――。
でもやっぱり、いつもの如くアルヴィ様は魔術師としてご高名な方ですから、そう簡単に仕事の依頼から逃げられることもないでしょうし、それ以上に厄介ごとに巻き込まれる体質なのかも。
なぜなら、お屋敷に戻ってすぐ、来客があったからです。




